4章6 ケンイチ 文学部2年(8)
オレの身体は震え、心臓はドラムロールのように、鳴り響いていた。
少し間違っていたら、オレは死んでいたかもしれない。たった今、直面した命の危機に、オレの身体が反応している。
これが恐怖なんだろうか?
恐怖とは心や頭で感じるものだと思っていた。しかし、死ぬってことの実感はなかった。危険だって認識もなかった。ただ身体だけがそれを感じていた。
クロスギさんがオレに訊いてきた。オレは手の震えを、無理やり、グッと押さえつけた。
「ケンイチさん、彼女が何者か、ご存知ですか?」
「い、いいえ……」
「そうですか……、私もです。なぜ彼女はあなたを狙ったのか……。その前に通報しませんと」
クロスギさんは電話をかけ始めた。オレは呼吸を整えながら、頭を働かそうをした。
なぜ、オレを殺そうとしたのか? オレ、何かしたんだろうか? 謝って済むなら、謝りたい。でも、オレを殺したいほど恨んでいるんだろうか?
オレを殺そうとした女性……。今日が初対面だった……と思う。あんなキレイな人に会ったことない……と思う。
過去にお付き合いしたことのある女性、友達、知人、親類……、誰にも似ていない。
もしかしたら、化粧のせいか!?
化粧のせいで、別人に見えるだけかもしれない……。
たとえ、知っている人だったとしても、恨みを買った覚えはないし……。
オレは考えるのを後にし、弟のケンジに、彼女の似顔絵を描いてもらうことにした。ただし、そのままでは意味がない。化粧を完全に落とした似顔絵なら、彼女が誰だか分かるかもしれない。ケンジは早速、絵に取りかかってくれた。スケッチブックを広げて、スラスラと鉛筆を走らす。
「撃たないでくれ。お互いの利益になるように話し合おう」
声の方を見ると、ケンジの連れだったコマキさんが、両手を挙げて通路に出ている。衝立のすき間から覗くと、彼はゆっくり銃を持った女性に近づく。
「そこで、止まりなさい」
彼女が言うと、コマキさんは足を止めた。彼女は続けて命令する。
「ジャケットを脱いで……、下に置いて……、手を上げたまま、ゆっくり後ろを向いて……、いいわ、こっちを向きなさい」
コマキさんは指示通りにすると、カウンター前にたたずむ彼女に話しかけた。
「目的を教えてくれないか?」
「目的?」
「ああ、なぜこんなことをする?」
「あなたに言う必要があるかしら?」
「俺たちに出来ることなら協力する」
「あなたに何が出来るのかしら……」
「お前は、俺に何をして欲しいんだ?」
「……」
「目的は、金じゃないよな? 金じゃなければ、燃やしても構わないな?」
「……」
コマキさんは振り返って、オレ達に顔を見せた。さかんに目玉を左に動かしながら、口をフゴフゴと動かしている。
何やってるんだろう?
オレは周りを見まわした。クロスギさんは電話しながら、コマキさんを見て、コクリと頷いている。ケンジはしゃがんで、一生懸命に似顔絵を描いている。後ろの席のおじいさんは、四つ這いになってゴソゴソと何かをしていた。
コマキさんはオレを見て、顔を動かす。
オレもコマキさんの顔真似をしてみた。
すると、コマキさんは首を横に振り、また目玉を左に動かしながら、口をフゴフゴと動かす。
何の事だ?
コマキさんは両手のひらを胸の前で上向きにして、指をゆらゆら動かした。
何だろう? サイレンかな?
炎か!
オレはコクリと頷いた。
女性が視線を外した隙を見計らって、通路向うの非常口前に飛び込んだ。ウメダさんが車に運び込もうとしたボストンバッグが3つ、積み重なっている。ここも、彼女からは死角だ。そこにライターが飛んで来たので、とっさに両手でキャッチした。おじいさんが親指を立ててウインクする。
よし、これで準備はいい……、かな?
合図があったらバッグの中のお金に火をつけていいんだよね?
でも、お店が火事になったら、どうしよう?……。
オレ……、放火犯?
3億円も、オレが弁償するのかな?……。