4章21 マスター 喫茶イコイ(10)
銃声が響き、女性とお客様たちとの戦いが始まった。
私は頭を抱え、カウンターの中で、ウサギのように丸くなった。
鉢植えの割れる音、テーブルや椅子の突き飛ばされる音、「ぱしぱし、ぼすぼす」といった、カンフー映画お馴染みの効果音が聞こえてくる。時々、私が背をもたれ掛けているカウンターが、ドスンと揺れた。その度に、ビクッと身体が反応する。
私は両手を組み、震えながら、戦いが早く終わることだけを祈った。が、なかなか終わらない。
待ちに待ち、やっと静かになった時、目を開けると、足元にアイツがいた。
ゴキブリだ!
忌まわしいゴキめ。客席が騒々しかったから、ここに避難してきたのだろう。
同情などするものか。
私は静かに殺虫スプレーに手を伸ばす。
カサカサ……、カサカサ……。
奴は、私の不穏な気配を察知したようだ。小刻みに、カウンター下に這って行った。
先ほどは、取り逃がしてしまったが、今度こそ逃さん!
スプレーのノズルを出来るだけ近づけ、慎重に狙いを定め、思い切り冷気のジェットを噴出させた。
ぷしゅううううううっ!!!
奴は、その勢いに押され、客席の方に飛ばされていった。
ちっ、逃がしたか。
向こう側を見ようと思って立ちあがった時、女性の悲鳴が上がった。
「きゃああああああああああ!!」
急いで見ると、カウンター外の通路、銃を持っていた美しい女性が、すでに、うつ伏せに取り押さえられていた。その鼻先にゴキブリがひっくり返って足をバタバタさせている。
うおっ!! 奴は、お、お客様の目の前に!
私は、声が漏れないように口を押えた。
女性は恐怖と嫌悪の入り混じった顔をして叫んでいた。拘束されているのに、逃げようと暴れて、もがく。
「は、放しなさい!! それをどけてっ!! 早くっ! 早くしてっ!!」
「ゴキブリが嫌いなのかなぁ?」
双子のひとりが聞いた。
「うるさい!!!」
女性は、半狂乱になって、少しでもゴキブリを遠ざけようと「フーフー」と息を吹きかける。ゴキブリは足をバタつかせながら、ゆらゆら揺れた。
「話してくれますか?」
クロスギ様が落ち着いて尋ねる。
「言う!! 言うからっ!! 何とかして!!」
「分かりました。コマキさん、彼女を椅子に座らせていただけますか?」
「はいっ、喜んでっ!」
コマキ様は居酒屋の店員のように返事すると、ササっと女性を椅子に座らせた。
「では、話していただけますか?」
女性は、ハアハアと息を切らしている。落ち着いた頃に、クロスギ様が、もう一度言った。
「話していただけますか?」
「はっ! 誰が話すかっ!」
女性の変心に、クロスギ様は困った顔をした。そんな脇で、双子のひとりがゴキブリをつまみ上げた。
うっ! ゴキブリを素手で持っている……。
周りの皆様も、汚らしいものを見る目つきをした。女性の顔はひきつり、視線がゴキに釘付けになる。
「うわっ、ケンジ! 何持ってんだよ! 汚いからやめろよ!」
「えっ、これ? 大丈夫、オレ慣れてるから」
「慣れてるとか関係ない。不衛生だからやめて欲しい!」と、私は口を押さえて、心の中で叫んだ。双子が会話を続ける。
「よく持てるなぁ」
「オレの大学の美術解剖学の先生が変わってて、何でも、原始的感覚を取り戻す目的で、いろんな昆虫やら動物を触らされたり、挙句の果てに、自分のうんちを握らされたりしたんだ」
「げっ、マジかよ……」
「はじめは、すごく嫌だったけどね」
「で、それ、どうするの?」
「うーん、そうだなぁ。この2本の触角を、このまま、このおねーさんの鼻の穴に突っ込むってのは、どう?」
な、何という事を考えるのだ。この青年は……。拷問じゃないか。
縛られて座っている女性は、彼が何を言ったか理解できなかったようだ。
ポカンとして、それを見ている……。