表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
この作品には 〔ガールズラブ要素〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

少女の卵

作者: 綾野香也



   一 



 土曜日の午後四時。駅前は人で混雑していた。部活帰りの高校生や遊びに出ている若者でごった返している。普段は使わない路線の駅だが、歓楽街の最寄り駅というだけあって賑やかだ。

 待ち合わせ場所に指定された駅前で、スマホ片手に相手を待つ。


(あきら)」と名乗る女性と連絡先を交換して三日が経っていた。出会い系で知り合った男性と会うのには慣れているが、女性と会うのは初めてだ。しかし私は決してレズビアンではない、と思う。少なくとも今までに女性を恋愛対象として好きになったことはない。だからといって男性を好きになれたこともないのだが。

 私は恋愛のできない人間だ。

 言葉にするとありきたりで、なんてことはない。百人に聞けば数人くらいはこんなことを言う女もいるだろう。悩みだと大仰に主張するほどの話でもなく、悲劇のヒロインぶって同情を得るつもりもない。単なる事実だ。私には恋心というものが一ミリも理解できない。

 幼稚園に通っていた頃くらいならきっと、恋という言葉に踊らされて誰かを好きになったこともあるかもしれない。だが少なくとも記憶にある歳のころには恋愛などしたことがなかった。男性に対して心ときめく瞬間がないのだ。

 どうにも私は男性を無意識に見下しているようで、お付き合いを始めても、必死に男であろうとする相手の姿に関心が持てなかった。容姿に対して格好いいと思うことはある。テレビで見るアイドルたちは男女ともに華やかで素敵だ。周りの女性たちはそういう、いわゆるイケメンと自分の恋模様を想像しては楽しげにしていた。彼女たちは恋することを当たり前のように行い、恋人との甘い時間を心底望んでいるようだった。私にはできないことだ。相手がどれだけ世間的に美形であろうと、人格者であろうと、その男性の視線が自分に向くことを思うといっそ不快だった。

 私に恋愛ができないのは経験がないからだろうか。

 そう思い、ネットを介して不特定多数の男性とお付き合いをした。好きでもない相手と恋人になって、キスをして、セックスをした。

 経験が浅いだけなのかもしれない。好きな人に出会えていないだけなのかもしれない。

 そんな期待を抱いて、抱かれていた。

 金銭のやり取りはしない。援助交際がしたいわけではないのだ。ただその瞬間を満たしてくれるかもしれない相手を探して、月に何度か肉体関係を持った。こんなことをしていても、何食わぬ顔で仕事をして友人と遊んで日々を過ごすことはできる。

 なんだか馬鹿馬鹿しく思いながらも、その馬鹿馬鹿しい行為をやめようとしない自分が一番の馬鹿だ。

 だが、いくら肉体関係を持っても恋愛ができそうな気配はない。それどころか、男性に対して幻滅さえおぼえていた。男性から向けられる視線は、私を女として見ている。身体が目当てなのね、なんて台詞を言うつもりはない。身体目当てならそれでいい。その視線に(さら)されるたび、私の何かがすり減っていく気がしていた。

 だからあの日、仕事のストレスと人間関係の疲れ、身体の不調に疲弊していた私は、癒しを求めていた。しかしこれといった趣味もなく、辿り着くのはいつもの掲示板。心なしか吐き気をおぼえながら、ふらふらとベッドに寝ころぶ。

 スマホの画面を無心でタップしていたとき、画面に表示されたポップアップ広告に指が触れた。いつもなら少し苛立ちながら戻るところだが、そんな気力もなく、なすがままに画面が移り変わるのを眺めていた。

 表示されたのは、レズビアン専用出会い系掲示板。そのまま、いつもの要領でページを開いていく。見慣れた掲示板とは違う、女性向けのデザインの説明を読み流し、募集欄を見る。そのうちの一つが、ふと目を引いた。指が連絡先を押す。機械的な動きでメッセージを打ち込んでいく。


 初めまして。書き込み拝見しました。もしよろしければ―――



 ふいにスマホが震えた。見れば、「もうすぐ着きます」のメッセージ。一分もしないうちに駅の改札から人が大勢出てきた。邪魔にならないよう隅の方に避けつつ、目印の服装を探す。

 男性を好きになれないからといって女性を求めるなど短絡的すぎる。しかし、一度約束してしまったからには断るわけにもいかない。恋人を望んでいた相手には申し訳ないが、今回限りにさせてもらおう。一回限りならどんな相手でも構わないのだから。

 各々が目的地へと向かう中、一人だけあたりをきょろきょろと見回す後姿があった。大きめの黒いシャツから、スキニーパンツを履いた長い足がすんなりと伸びている。シンプルかつボーイッシュながら、色合いやシルエットにセンスの良さが窺える服装だ。飾り気がなく目立たないはずなのに、一目であの人が「玲」だと思った。

 彼女が振り向く。綺麗なアーモンド形の目が、バチっと私の目を捉える。目が合うと、彼女はあたりを窺いながらも遠慮がちに近づいてきた。

「…あの、晴香はるかさん、ですか?」

「ええ。玲さん?」

「はい。…お待たせしてすみません」

 少し焼けた肌色に、黒のショートヘアが良く似合う。決して目立つタイプの美人ではない。強気そうにつり上がった目も男性受けはしないだろうが、将来は美人に化けるであろう顔立ちだ。薄く化粧をした顔はまだ垢抜けない。

 表情は固いが、低めの落ち着いた声が彼女を実年齢より大人びて見せている。第一印象は、なかなかに悪くない。

「私も来たところだから、気にしないでください。玲さんは十九歳でしたっけ?」

「はい、大学生です。…なので、敬語は大丈夫です」

 目線が真正面でちょうど合う。一六〇センチの私が七センチのヒールを履いた位置に、彼女の目線が来ていた。足元を見ればヒールのないショートブーツを履いている。

 人を見た目で判断してはいけないと言うが、彼女を見ていると、私のように出会い系など利用するようには思えなかった。清純そう、と言えば良いだろうか。わかりやすく清純らしい記号は身に着けていないが、だからこそ〝天然モノ〟の匂いがする。

 未だ笑顔を見せない彼女に、私はにっこりと笑いかけた。

「そう? じゃあお言葉に甘えて。玲ちゃんも敬語はいいよ。リラックスしてね」

「…分かった」

 じい、と目を見る。真っすぐに見据えられて、正直、面食らった。

 口数は多くなさそうだが、しっかり相手の目を見て話している。

 誰でも利用できるサイトを介している時点で、どんな人間が来ても仕方ないと思っていた。思っていた以上に良い子を引き当てたようだ。

 イマドキの女の子とは雰囲気が違うが、ツンとした印象も外見のイメージから見れば悪くない。モテないから掲示板を利用しているタイプ、ではないように思う。こんな女の子と、こんなかたちで会うのは不思議な感覚だった。

 ひとつ問題点を挙げるとすれば、私は一回限りの相手を求めているということだ。そして、それが最大の問題でもある。

「じゃあ、さっそくだけど食事に行こっか」

「…どこに行くか、考えてなかった」

「私もちゃんと考えてたわけじゃないけど、このあたりならファミレスがあるよね。そこで大丈夫かな?」

「…大丈夫。ありがとう」

 スマホで検索して地図を表示させる。このあたりに来たことはないが、大手のチェーン店なら間違いないだろう。あまり高い店に連れて行ってしまうのは、年齢を考えると余計に緊張させてしまいそうだった。こんなに若い子とデートするのは初めてで、どうするのが良いのかいまいち勝手が掴めない。そもそも女性同士の場合、どうするのがセオリーなのだろう。そのあたりは未知の領域だ。

 地図を見ながら歩く私の半歩後ろで、彼女が付いて来ている。表情はまだ固い。

「玲ちゃんはこのあたり詳しい?」

「…まあまあ。何回か来たくらい」

「それなら、このお店知ってるかな」

 地図の店名を表示させて、玲に見せる。彼女は「ああ」と納得したようだった。

「知ってる。入ったことはないけど」

「そっか。私はこのあたりに詳しくないんだけど、道はこのまま?」

「…しばらくは、このまま真っすぐで大丈夫」

「良かった。間違ってたら教えてね」

 無口だが、話しかければ答えてくれる。歳のわりに落ち着いた印象がある。無理に背伸びをしている痛々しさもなく、もともと大人びた子なのだろう。姿勢の良さもあって澄んだ空気を感じる。こういったことに慣れているようには見えないが、やはり人は見かけによらないということだろう。

 じりじりと太陽が照っている。天気予報で見た今日の最高気温は何度だったか。早めに、冷房の効いた場所で食事にしたいところだ。

 幸いなことに、目当てのファミレスには歩いて十分もしないうちに到着した。さすが休日の歓楽街というだけあって人は多いが、店を変えるほど並んでもいない。少しの待ち時間の後、二人席に通される。席に着くとすぐにウエイターが水を入れに来た。彼女は「ありがとうございます」と丁寧に頭を下げている。私はテーブルの上に置かれたメニューを手に取った。

「さ、何にする? 遠慮しなくていいよ」

 メニューを向ける。適当なページを開くと、季節限定メニューの掲載されたチラシが挟まれていた。半熟卵と夏野菜の温サラダ。どうせこの後はホテルに行くのだから、これくらいでいい。それに、あまり悩むのは好きじゃない。

「私は決めたからゆっくり見てていいよ」

「…じゃあ、これを」

 彼女が指さしたのは、ハンバーグ定食。値段は他に比べて安いが、それなりにボリュームがある。結構しっかり食べるらしい。値段に気を遣ったのだろうか。

「私が決めたからって、気を遣わなくていいんだよ」

「…そうじゃない。いつも、すぐ決めるから」

 遠慮しているのかもしれないとは思ったが、彼女がそう言うのなら仕方ない。呼び出しボタンを押す。すぐに店員がやって来て、注文を取る。注文して店員が去ると、彼女は所在なさげに水を飲んだ。やはり緊張しているようだ。

 両手で透明なコップを包み、飲むでもなくテーブルの上に置いている。それなのに、ずっと私を見ているような気がする。あまりにも見つめてくるものだから、私のほうが目を逸らしてしまいたくなる。

 私は笑顔を作って、玲に声をかけた。

「なにか、気になる?」

「え…」

 きょとんとしている。穴が開くほど見つめていた自覚はないらしい。

「見られてるなあ、と思って。最初は緊張してるのかと思ってたんだけど、そうでもないのかな?」

「緊張は、してる。……どんな人なのか、知りたかったんだ。嫌な思いをさせたなら、謝る」

「そんな、謝らなくていいよ。別に気にしてないからね」

 嘘だ。本当は、彼女の視線に居心地の悪さを感じていた。隠している部分すら探ろうとするような、熱心な視線。会ってからずっと、その視線に心が落ち着かなかった。

 黙っていると余計に視線を感じる気がする。玲は沈黙の時間が気にならないのだろうか。黙っている時間があると、気になって話しかけてしまうのだが。

「そういえば、玲ちゃんは大学生なんだよね。何やってるのか、聞いても大丈夫?」

「…美術系の大学に行ってる」

「へえ! 絵とか描くの?」

「絵、というより、写真…」

「そうなんだ。どういうもの撮ってるの? 風景とか、人とか?」

「色々…気になったものを撮るくらい。人は、撮らない」

 途切れ途切れにではあるが、聞けば答えてくれる。スムーズに話すのは苦手なようだった。

「そっか。家は? 実家住み?」

「…一人暮らししてる」

「へえ、実家からじゃないんだ。大変じゃない?」

「……そう、でも、ないけど」

 実家の話をした途端、若干だが表情が曇る。聞かれたくない話題なのかもしれない。

 会話が途切れたところで、「お待たせしました」の声とともに注文の品が運ばれてきた。玲は、礼を言って小さく頭を下げた。

 私の前には、注文した「半熟卵と夏野菜の温サラダ」が置かれた。冷房で少し冷えてきた体には、ほんのりとした温度が丁度いい。対して、玲の注文した「ハンバーグ定食」はなかなかに食べ応えがありそうだった。メインのハンバーグに付け合わせのサラダと、オニオンスープ、白米まである。

「わー…写真よりボリュームあるけど大丈夫?」

「平気。結構、食べるほうだから」

 いただきます、と手を合わせて箸をつける。彼女に倣って、私も手を合わせた。

 まずは一口、サラダを口に運ぶ。なかなか美味しい、と思う。そもそも、食にこだわりはないのだ。それなりにお腹が満たされて、不味くないのなら何でもいい。

 向かいを見ると、玲もサラダから食べ始めていた。彼女の頼んだメニューだと、サラダは付け合わせに過ぎない。「食べるほうだ」と自称していたとはいえ、彼女の体型にその量は不釣り合いに見えた。

 しかしながら、見ていて感心した。箸の持ち方もさながら、口に運ぶ動作が綺麗だ。一口が小さい。大口を開けて頬張るわけでもなく、小さな口に合うだけの量を箸で運んでいる。箸を器用に使い、欠片まで丁寧に拾って口に入れる。無駄な咀嚼音がしないこともあり、食べるペースに反して大食いには見えない。気持ち良いくらいにご飯が消えていく。

「細いのに、本当によく食べるんだね」

 半ば感嘆の声だった。彼女は咀嚼しながらこちらを見て、箸を置いた。水を一口飲む。口の中に物が入った状態で喋るのは、彼女の美学に反するらしい。

「…いつも、こんな感じ」

「そんなに食べて太らないなんて羨ましいな」

「…運動してるから」

「何かスポーツやってるの?」

「前は、陸上だった。今はやってないけど、自分で運動もする」

「すごいなあ。…あ、ごめんね。食べてて良いよ」

 私が再び食べ始めると彼女も箸を取った。

 ここまで、口数の少ない玲から話を聞き出してみた感覚だと、彼女は全く喋らないわけでもない。会話をすること自体が苦手というよりも、言葉を選ぶのに時間がかかっているように見えた。

 ハンバーグを黙々と口に運んでいく。私はそれを見ながら、時々は話しかけながら、サラダをのんびりと咀嚼する。だいぶ量に差があったはずだが、私が食べ終えたとき、彼女もほぼ同じタイミングで食べ終えていた。


 ファミレスを出ると、空はやや暗い。街はまだまだ活気にあふれている。オシャレをした若者たちやスーツ姿の大人たちが、互いの声に負けないようにと張り合うかのように騒いでいる。

「それじゃ、行きますか」

 冗談めかして誘ってみる。頷いた彼女の表情は読めないが、ちゃんと隣に並んでくれているだけでも良しとしよう。

 蒸し暑い空気に汗がにじむ。セミが遠くで鳴いていた。夏はあまり好きじゃない。汗は比較的かきにくい体質だが、化粧も服装も崩れやすく面倒な季節だ。だからといって好きな季節があるわけでもない。ただ、嫌いな季節を聞かれれば迷いなく夏だと答える。

 日も傾き、西日が眩しく照り付けている。

 暑いね、と話しかけるつもりで隣に目をやった。

 彼女は少し疲れたのか、あるいは緊張しているのか、視線を下のほうに向けていた。うなじに細い骨のかたちが、薄く浮かんでいる。そのかすかな隆起を汗が伝い、湿った肌に沿って短い襟足が張り付く。日焼けした張りのある肌を、じりじりと西日が照らしている。触れたらきっと熱いのだろう。眩暈がしそうな暑さの中、私は彼女に目を奪われていた。

 ホテルまでは徒歩十分。無言で歩く道行きは、やけに長く感じられた。


 強すぎる冷房に、汗の引いていく感覚が心地いい。選んだホテルは一般的なラブホテルだった。最近は女性同士でも入れるようになっているらしい。玲の外見年齢がやや心配だったが、仕切りで半分顔の隠れた受付スタッフからは何も言われなかった。

 玲は落ち着かないようで、私の後ろを付いて来ていた。受付でもらった鍵を片手に、狭いエレベーターで三階に上がった廊下の先、指定された三〇三号室があった。

 鍵を開けると、そこはなかなかに広い部屋だった。部屋の中央にはソファがあり、その前には低いテーブルが置かれている。側には冷蔵庫とポットの置かれた棚がある。ソファに座って見える位置には大きなテレビ、その左手奥には堂々とベッドが陣取っている。反対側にはすりガラスで覆われた浴室があり、うっすらと中が透けて見えた。

 私は受付で受け取っていた鍵を、カバンと一緒にテーブルに置いた。

「外、暑かったけど疲れてない?」

「…大丈夫」

 そうは言うものの、声が疲れているように感じる。緊張しているだけなら良いのだが、未だに笑顔を見られていないのも気になっていた。

「そう、なら良かった。…あ、お茶あるよ。玲ちゃんも飲む? 氷…は、ないみたい。熱いのでいい?」

「……うん。ありがとう」

 ふたつの湯飲みにお茶のパックを入れて、お湯を注ぐ。熱湯を注がれた湯飲みから湯気が立った。玲はしばらく私を見ていたようだったが、私が振り返ると目を逸らした。彼女はカバンを置いて、所在なさげに立っている。

 こうして靴を脱いで立っていると、玲のスタイルの良さを実感する。十センチも違わないとは思うが、私がヒールを履いていたぶん、急に身長差ができたように思える。

 彼女はベッドやテレビが気になるのか、部屋をちらちらと見回していた。

「汗もかいたし、シャワー浴びる?」

「あ…えっと」

 彼女は視線を彷徨わせた。あれだけ熱心に合わせていた目が、ホテルに入ってから合わなくなっている。

「先に入る? 後が良い?」

「…後、で良い」

「そう? じゃあ先に。お茶、熱いから気を付けてね」 

 彼女は無言で頷いた。やはり視線は合わない。

 化粧ポーチとタオルを持って、バスルームに向かう。ガラスの向こうは、ぼやけていて見えない。手早く服を脱いで、髪が濡れないように緩くまとめる。

 浴室は白を基調とした、高級感のある内装になっていた。栓を捻ってシャワーを出す。冷房のおかげですっかり汗は引いていたが、汗の乾いた感覚は気持ちの良いものではない。丁度いい温度になったのを確認して、体を流す。

 全面クリアなガラス張りの浴室でなくてよかった、と思った。そうだったら、玲は余計に戸惑っていただろう。彼女の様子が変なのは、おそらくこういった場に慣れていないからだと思う。過去に恋人との経験くらいはあるだろうが、ホテルでというのは初めてなのかもしれない。

 恋人の家で、なんて経験のない私にとっては新鮮な反応だった。


 先にシャワーで汗を流した私は、バスローブを着て彼女を待っていた。

 お茶は丁度いいくらいに冷めている。離して置かれたもう一つの湯飲みは空っぽだった。一口だけ飲んで、私はベッドに上った。枕元までよじ登って、スイッチを触る。適当にいじると照明が淡くなった。適度に調節して、ついでに強すぎる冷房をやや落とす。濡れた体には少し寒い。

 かすかな冷房の稼働音をかき消すように、くぐもったシャワーの音が聞こえる。私は何の気なしにスマホを開いた。何件か連絡が入っていたが、どれも急ぎではなさそうだ。その中に彼女からのメッセージも残っている。

 バスルームのドアが開く音がした。少しの間があって、玲が出てくる。

「…ごめん、待たせた」

「ううん、大丈夫だよ」

 おいでおいで、と手招きする。彼女はそうっと近づいてきて、浅くベッドに腰掛けた。私とは人一人分の距離がある。

 やや俯いた横顔を眺める。前髪の先が少し濡れているようだ。細い毛先で水滴が震えている。今にも落ちそうな水滴に、ふと手を伸ばしかけた。彼女がハッとして顔を上げる。私の手が前髪に触れることはなかったが、ギリギリのところで留まっていた水滴は、音もなくどこかへ消えていった。

 きゅっと口元を引き結んだ彼女の瞳は、頼りなく揺れていた。縋るように見つめられる。

 小さな痛みのような感覚が、鳩尾のあたりでもがいている。

 自分の胸の内で、何か良くないものが育っている気がしてならなかった。私は誤魔化すように優しい声を作り、彼女に微笑みかける。

「緊張してる?」

「…してる、と思う」

「こういうこと、よくしてるの?」

「…しない」

 自信なさげに俯いてしまう。普段から遊んでいるわけではないようだった。

 私は今さら緊張などできないが、彼女はずいぶんと初心なようだ。だがあの掲示板に書き込んだということは、彼女がこれを望んでいたということでもある。こんなに怯えるのなら、なぜ、望んだのだろう。

 何と声をかけたものか悩んでいると、彼女が口を開いた。

「初めて、だから」

 それはつまり、遊んだことがないのではなく、経験自体がないということだろうか。

「…今まで、男性とは?」

「したことない」

 玲の膝の上に置かれた手がぎゅっと閉じられ、バスローブに皺が寄る。薄い背中を丸めた彼女は、小さく見えた。短い髪が頬にかかり、横顔を隠す。わずかに開いては閉じる唇から、何かを言おうとしていることが窺えた。

 聞いてはいけない。

 脳内で警鐘が鳴る。今なら間に合う、と。

 しかし私は何も言えず、彼女の睫毛が上下するところを見つめていた。

「…男の人は、嫌い。怖い、から。女の子なら、好きな人はいた。物心ついたときから、そうだった。でも、付き合ったことはないんだ。一度も、言えなかった。…嫌われるより、ずっと、いいと思ったから」

 きっと、この子は寂しかったのだろう。愛されることもなく、愛することさえままならない。私のように割り切って身体だけの関係を繋ぐこともできずに、一人でその悲しみを持て余していたのだ。

「告白する勇気も、嫌われる勇気もない。…私には、恋なんてできないんだ」

 唇が震えている。今にも泣き出しそうだった。前髪の先から雫が垂れる。頬に付いた雫を指で拭うと、玲が顔を上げた。その顔があまりにも幼くて、私は彼女の髪を撫でた。唇を噛み締めている彼女を、胸にそっと抱き寄せる。腕の中にある体は思ったよりも小さい。次第に嗚咽が漏れ始め、肩が震える。

 本当に純粋な人だ。私がその純粋さに惹かれていることは隠しようがなかった。しかし、惹かれていると言い切れるほど清らかな感情ではない。私がかつて捨ててしまったもの。それが腕の中にあることが、無性に怖かった。

 この胸の鼓動が、純粋な恋心であれば良かったのに。





   二 



 結局あの日は何もせず、彼女が泣き止むのを待ってホテルを出た。彼女は申し訳なさそうだったが、何もしなかったのは彼女を気遣ったからではない。私自身が、あの子に触れることを躊躇ったのだ。一度きりと決めた相手だ、必要以上に気を遣うことはないはずだった。

 純粋さに嫉妬するなど、らしくない。いつものように堂々と、他人のことなど気にせず生きていけばいい。

 仕事帰りの電車内、スマホをぼんやりと眺める。八月二十一日。この時期ならもう学生は夏休みに入った頃だろう。ふいに、手の中のスマホが震えた。表示されたポップアップには、出会い系で知り合った男の名前がある。そういえば、今日は約束を入れた日だった。朝は覚えていたはずなのに、すっかり忘れるところだった。重い腰を上げる。目的地まで、電車を乗り換えなければならない。

 けれど、これですっきりする。いつも通りにしていれば、いつも通りの自分が戻ってくる。笑顔を作り、女性としての自分を演じ切る。気の迷いも晴れるはずだ。


 待ち合わせたのは三十代の男性。ホテルに行くまでの短い時間、彼はよく喋った。前の女性はこうだった、この付近のラブホはこうだ、と。興味はなくとも笑顔を貼り付けて聞き流す。どうしてこう自慢にもならないことを自慢したがるのだろうか。経験豊富なのは恥ずべきことではないが、自慢すべきことでもない。

 しかし、そうして嘘を貼り付けていることに安堵さえおぼえる。私はずっと、こうして生きてきたのだ。思えば、昔からそうだった。他人の感情を真正面から受け入れるなど馬鹿げている。うまく生きる術を身に着けたかった。何事も淡々と、心砕くことなく対処できれば楽になれると思ったのだ。大人になった今では、かつての感覚すら覚えてはいないが。きっと、これが私の望んでいた姿なのだろう。

 そんな他愛のないことを考えて、相手に腰を抱かれながらの道すがら、ふいに視界の端を見覚えのあるものが横切った気がした。身を固くして目を凝らす。人ごみの中であのショートヘアが見えたように思ったのだ。

 だが人ごみの中から現れたのは、似ても似つかない全くの別人だった。ほっとして息を吐く。安心した自分へ嫌悪感をおぼえた。



 玲からの連絡があったのは、その三日後だった。

『この前はみっともないところをお見せして、すみませんでした。

 もし良ければ、今度はちゃんとお話できればと思います。

 ご迷惑でしたら、無視して構いません。』

 そんな健気なメッセージだった。私は、もちろん会いたいと返事をした。

 待ち合わせは前に会ったときと同じ駅。まだ日の高いうちに会うことにした。一度きりだと決めたのはどこの誰だったか。柄にもなく浮ついて、電車を一本乗り損ねた。家を早く出ていたおかげで遅れることはないが、少し焦る。

 着きました、との連絡から数分遅れで駅に到着する。相変わらずにぎやかな場所ではあるが、まだ昼間だということもあって、以前ここに来たときよりもさわやかな印象だ。

 あの子の姿を探せば、離れたところに背中が見えた。今日は柔らかい生地のガウチョパンツを履いているようだ。その周りに二人の男性がいる。彼らは玲に何かを話しかけているが、彼女は背中を丸くしている。どうみてもナンパだった。男性二人は学生風で、不審者や妙なスカウトなどではなさそうだ。

 私は躊躇いなく彼女に声をかけた。

「お待たせ」

「晴香さん…」

 手を引いて歩き出そうとするが、彼らは私にまで声をかけてきた。

「あれ、知り合い? 良かったらお姉さんも一緒にどうすか?」

「その辺で食事でも!」

 さして悪意は感じない。遊んでみたいお年頃なのだろう。私はにっこりと笑顔を作り、

「申し訳ないけど、これから予定が入ってるの」

「遊び行くなら、俺らも駄目っすか?」

「ごめんなさいね、少し急いでるの。ね?」

 玲に視線をやる。彼女は一拍遅れて頷いた。

「そっかー、仕方ないっすね」

 しぶしぶ引き下がった彼らに背を向けて、彼女の手を引く。このあたりで食事をすると、鉢合わせるなんてことにならないだろうか。さすがに大丈夫だと思いたいが、私一人ならともかく、この子を連れて下手なことはできない。撒くのが面倒だ。

 例えば私が男で、玲の恋人だったら、こんな面倒なことを考えずに済むのだろうか。

 彼女は少し疲れているようだった。

「大丈夫? ごめんね、私が遅れたから」

「…気にしないで。ああいうの、されたことないから、ちょっと驚いただけ」

 今日の彼女は前よりも女性らしいシルエットの服装になっている。確かにこれなら声もかけやすいだろう。彼女のことだから、こういう服は好まないのかと思っていたが、そうでもないらしい。以前の服装は彼女に良く似合っていたと思う。

 だから、服装とは別の部分だろう。前よりも綺麗になっている気がした。

「そっか。ああ、でもどうする? さっきの子たちと鉢合わせないところって、どこだろうね。外から見えないほうがいいかな、カラオケとか」

「…」

「うーん、場所を変えてもいいけどあんまり遠出するのもね。どうしよっか」

「……あの、もし良かったら、だけど」


「おじゃましまーす」

「…片付いてないけど、座るところくらいはあるから」

 彼女の部屋は1Kのアパートだった。一人暮らしをしていると話には聞いていたが、こんな簡単に家に上げてくれるとは思ってもいなかった。私ならしない。

 片付いているというよりは、ものが少ない印象だ。部屋の隅にはファイルや紙束が乱雑に積まれたスペースがあるが、その程度はご愛敬と言える。

 私を部屋に招くなんて想定していなかっただろうに、こんなに部屋が片付いているのは私も見習うべきだろうか。いかんせん部屋に人を招くという発想がないせいで、多少散らかっていても気にならないのがいけない。

「適当に座って。麦茶しかないけど、いい?」

「いいよ、お構いなく」

 部屋の中央に置かれた小さな折り畳み式テーブルを前にして座る。部屋にあるもの全て、飾り気のないものばかりだ。今日の華やかな服装が、むしろ浮いている。

 少しして彼女がお茶を持ってきた。テーブルに透明なグラスが置かれる。大きめの氷がカランと音を立てた。

 テーブルを挟んだ向かい側に彼女が座る。ガウチョパンツの裾が乱れていた。

「いきなり押しかけるかたちになってごめんね」

「…誘ったのは私だから」

「まさか部屋に上げてもらえるなんて思わなかったから嬉しいな。怖いとか思わなかったの?」

「怖い?」

「この状況、私が変な人だったら絶好の機会だよ」

「晴香さんは変な人じゃないから、良い」

 断言された。ずいぶん信頼されたものだ。まだ会うのは二回目だというのに、この子の危機管理意識を疑いたくなる。彼女のことだから、誰彼構わずこんなことをしているわけではないだろうけど。などと考えてしまうあたり、私も彼女のことをもう知った気でいる。お互い様だ。

「二回しか会ったことないけど、信用してくれるの? 玲ちゃんが知らないだけで、変な人かもしれないよ?」

「…知らないことは、たくさんある。でも、私は、信じたいと思った。知らないことは、これから知ればいい」

 〝これから〟を信じて疑わない純真さが眩しい。私が一回限りのつもりで会っていたことを知ったら彼女はどう反応するのだろう。裏切られた、と傷つくのか。それとも、それさえ受け入れてしまうのだろうか。

 少なくとも私は、自分のことを曝け出すつもりはないというのに。

「それなら、玲ちゃんのことを教えてくれる?」

「私の…?」

「今日のは事故みたいなものだけど、せっかく部屋に来られたんだから、色々教えてくれると嬉しいな」

「色々……」

 うーん、と考え込んでしまう。何を話すべきか真面目に吟味しているようだ。どこまでも誠実で不器用な子である。やはり私から話しかけたほうがスムーズなようだ。

「ねえ、そういえば部屋に写真とかカメラは置いてないんだね。本格的なカメラとか持ってるのかと思ってた」

「…ああ、そういう大切なものは、ちゃんと片付けてあるから。カメラも。普通のだけど」

「あ、やっぱりあるんだね。カメラは昔からやってたの?」

「ちゃんと勉強したのは、大学生になってから。高校生のときは、たまにスマホで撮ってたくらい」

「へー、中学高校から勉強してたわけじゃないんだ」

「中学高校は、普通のところ」

「共学?」

「中学はそう。高校は女子校だった」

 女子校ならさぞモテただろう、などと考えるのは無粋か。女子校だからといって〝そういう〟人がいるのかどうかも私には分からない。何より、あまり話題に深入りすると前のように泣かせてしまうかもしれなかった。

 話題を変えようと思い、考える。普段なら雑談など簡単なのに、彼女相手だと、どこかぎこちない。ほんの少し開いたその間で、彼女が口を開いた。

「好きな人も、いた」

「……そっか」

 あの日、彼女が泣き出しそうになりながら話してくれたことだ。

「話したくないわけじゃ、ないんだ。あのときは、色々、いっぱいになっただけ」

 彼女にとっては性行為自体が初めてで、もちろん女性相手も初めてだった。それなのに、嘘で偽った自分でやり過ごそうなどとは考えなかったのだ。本当のことなど話す必要はない。目の前の快楽だけを拾えばいい。裸になってしまえば、口に出した嘘など些細なことだ。だが彼女は心を曝け出してくれていた。

『初めて、だから』

『…男の人は、嫌い。怖い、から。女の子なら、好きな人はいた。物心ついたときから、そうだった。でも、付き合ったことはないんだ。一度も、言えなかった。…嫌われるより、ずっと、いいと思ったから』

 それに引き換え、私は。

 今だって、責任を取る気もないのに甘い態度を取って、相手の好意を得ようとしている。

 本気で他人と繋がろうとしている彼女を、騙している。 

「…家のことも、聞かないでくれた」

「話したくないなら聞かないでおこうと思っただけだよ」

「……晴香さんになら、話す」

 話してもいい、とは言わない。

 その覚悟に私は相応しいと言えるのだろうか。

「…別に、大した話じゃない。小さい頃は、仲のいい家族だった、と思う。ただ…私が、耐えられなかっただけ。同性しか好きになれないことを、隠すのに、罪悪感があったんだ。……中学の頃から、人と距離を置くようになった。そのときから、友だちも、ほとんどいない。嫌な…噂が、立ったこともある」 

 また、あの夜と同じように唇が震えていた。言葉を濁してはいるが、中学生というのは多感な時期だ。思春期の好奇心によって、彼女がどれほどの悪意に晒されたのかは想像に難くない。

 ここで手を差し伸べたら、彼女は泣いてしまうだろうか。

 泣かせてしまえば、聞かないことにできてしまうのだろうか。

「場所を、環境を思い切って変えたくて、知り合いのいない女子校に行った。みんな優しかった、けど、隠し事があるのは変わらない。話せる相手はいなかった。…大した話じゃないけど、たぶん気になると思うから。…言えて良かった」

 強張っていた体から力が抜け、クールな姿に戻る。淡々と話してはいたが、見た目には分からないくらい彼女は傷ついたのだと思う。感受性豊かで繊細なこの子が、その出来事をどれだけ自分の中に受け入れてしまったのか、私には想像がつかない。だからこそ強いのだ。数々の悲しみの上に立つ彼女には、折れない芯がある。悲しむことも喜ぶことも諦めた私が手を伸ばすには遠すぎる。

 自分の過去を曝け出して同情を引こうとしているのだとしても、それを痛々しいなどと簡単に括ることはできない。ハイリスク・ハイリターン。彼女の覚悟が勝ったというだけの話だ。ずるいとは言えない。

 ずるいのは、彼女にここまでさせておきながらイエスともノーとも言わない自分だ。

 彼女が途中で心折れることを、どこかで望んでいた。

「…ありがと、聞いてくれて」

「どういたしまして、かな。話してくれてありがとうね」

 彼女の前ですら平然と嘘をつける自分に、今まで感じたことのないような息苦しさを感じた。話してくれてありがとう、だなんて笑える。

「あの。もし、迷惑じゃなかったら…また、連絡しても…?」

「もちろん」

 今度会うときは、私の話をするね。

 そう言える人間でありたかった。





   三



 昼休み、スマホを開くと二件の新着通知があった。受信したのは三分前、まだ届いたばかりだ。開くと、玲から一枚の写真が送られてきているようだった。その下には一言、「涼しくなれると思う」とだけある。何を送ってくれたのだろう。わくわくしながら写真を受信する。読み込みが完了し、表示されたのは木陰のようだった。

 太陽の光を遮り、豊かな葉が影をかたちづくっている。その影の中、ひっそりと透明なグラスが二つ。それぞれ量の異なる炭酸水と氷が入っている。その傍には懐かしいラムネの瓶が一本、半分ほど中身の減った状態で佇んでいた。氷が溶けて滑り落ちる、心地の良い音が聞こえてきそうだ。太陽の光から隠れるように存在するグラスは、どこか寂しげでもあった。

 青を基調とした夏らしい写真である。専門的なことは全く分からない私が見ても、素直に綺麗な写真だと思う。口下手な彼女がこうして時々送ってくれる写真は、私にとって嬉しいものだった。過去にお付き合いした男性とは、マメな連絡を取るのが面倒で別れたこともしばしばある。返答に困る一方的な連絡を毎日寄越すくらいなら、音沙汰の無いほうがマシだと思っていた。なのに、ほんの一言だとしても、玲のことが知れるのは悪くない。もっと知りたいとさえ思う。だが、あまり深く聞くことはできない。私自身のことを曝け出すわけにはいかないのだ。それでも、返事をやめようとは思わなかった。

 迷いなく返事を打つ。

『涼しそうで綺麗な写真だね。どこで撮ったの?』

『良かった。これは大学近くの公園で撮った。』

 相変わらずのぶっきらぼうな返答にも、もう慣れたものだ。何度か食事をしたが、彼女をよく見ていると分かる。言葉少なになるのは決して不機嫌なわけではなく、言葉を選んだ結果なのだ。

 返事を送ろうとしたところで、すぐに通知が来た。

『美味しかった』

 撮影後は自分で美味しく頂いたらしい。汗っかきな彼女のことだ、これを撮影したころには汗だくになっていたことだろう。汗を拭って、ぬるくなったラムネを飲み干す。想像すると、何かのコマーシャルのようで絵になりそうだった。撮るばかりでなく、モデルをやっても映えそうだ。

『ラムネなんて子どものときに飲んだくらいだよ。久々に飲んでみたくなるね。

 撮影は一人で?』

『一人。集中できる』

『自分は写真に映らないの?』

『綺麗なものだけを撮りたいから』

 十分に綺麗だと思うのだが、そういうことではないのだろうか。カメラマンにはカメラマンのこだわりがあるのかもしれない。

 私が返事を打つよりも早く、玲のメッセージが続く。

『呼ばれた。ごめん、また後で』

 行ってらっしゃい、と打ち込んでからスマホの画像欄を開く。上から新しいもの順に、今までに玲が送ってくれた写真が並んでいた。

 私には写真を撮る習慣がない。旅行へ行っても、美味しいものを食べても、わざわざ残しておく理由が見当たらないからだ。私の写真フォルダは、玲の撮った写真ばかりだった。

 写真をスクロールしていく。何でもないものを題材にしているはずなのに、写真の中ではそれが特別なものに見えるから不思議だ。私にはガラクタにしか見えなくても、玲には違うものが見えているのかもしれない。

「なに見てんのー?」

 背後から、にゅっと頭が出てくる。驚いたが、すんでのところで声を上げずに済んだ。

 実帆(みほ)の手元でコンビニの袋がガサガサ音を立てている。昼食を買ってきた帰りらしい。同い年と思えないその童顔に、興味深々と書いてある。

「写真だよ。友だちが送ってくれたの」

「そっかぁ。綺麗だねー」

 そう言って隣に腰を下ろす。彼女は「それにしても、」と続けて、コンビニ袋から弁当を取りだした。

「最近ー、良いことあった?」

「良いこと? …まあ、そうかもね。どうして?」

「やっぱりー。なんか、雰囲気ゆるーくなったからぁ、彼氏でも出来たのかなあって」

「ゆるーく…?」

「んーとね、楽しそう? 買い物から帰って来たときもー、幸せそうな顔してたからぁ、彼氏と喋ってるのかなあって思ってた」

 幸せそうな顔。

 そんなつもりはなかったが、他人に言われてしまうほどではあるようだ。

 しかしまあ、彼氏と喋っていると思われる相手のスマホを覗き込める図々しさは、いっそ尊敬したいくらいである。

「そんなに変な顔してたかな」

「いつもはもっとー、デキる女って感じだもん」

「それは…そんなことないと思うけどね」

 嘘だ。隙を見せないようにと壁を作っている自覚はある。知らないうちに気持ちが緩んでしまっていたのかもしれない。見せたい部分を見せていなければ。素の自分が見えてしまうのはいただけない。素の自分、なんてものがあるのかどうかは疑問だが。

 曖昧に笑う私に、実帆は首を傾げて、

「んー、あたしは最近のゆるーい感じも好きだよ? でも、何か悩んでるんだったらまた飲み行こーね」

「もう、実帆は口実作って飲みに行きたいだけでしょ」

「バレてたかあ。ふふー」

 


 不安定なときに、一人で飲んだのがいけなかった。酒には強いからと飲んでいたら思いのほか酔いが回り、気づけば立派な酔っ払いが出来上がっていた。足元はしっかりしている。意識もはっきりしたままだ。私は一人で電車に乗った。乗りなれた路線を間違えることもなく、夜の電車に揺られる。電車を降りて、夜風に当たる。のんびり歩く私を騒がしい人たちが追い越していく。夜の街はまだまだ元気だ。

 そこまで思って、はたと足を止める。私の住む住宅地はこんなに煌びやかだっただろうか。

 無意識に歓楽街まで足を伸ばしていた。家からは離れているが、通いなれた場所だ。ここで何度も男と歩いた。

 深入りしないほうが良い。今までだって、やって来られた。そう思いながらも気持ちがそうは言っていない。感情に振り回されてしまうなんて、初めてだ。

 胸の痛みに蹲りたくなった。これほどに騒がしい街だ、酔っ払いの一人や二人、立ち止まっていても気にする者はいない。

 しかし、私は視界の端に見えた光景に、思わず身を隠した。バス停の看板から覗き見る。彼女が見えた気がしたのだ。いや、前にも見間違いをしたことがあった。私も相当参っているようだ。

 だが目を凝らしても、それは消えなかった。玲だ。玲の隣にいるのは私と同じくらいの歳の男性だ。あれから男の恋人を作ったのだとしたら、男嫌いの彼女にとっては喜ぶべきことである。過去は変えられず、そう簡単に乗り越えられはしない。同級生らとのあれやこれや、詳細は聞かなかったが相当に辛いことだったはずだ。だから、私が彼女の幸せを望むなら今すぐ帰途につくべきなのだ。

 ちょうどバスが停まる。降車する人たちを待って、扉が開いた。

「……ごめんね」

 バスは私を置いて、待つ人のいなくなったバス停を発車した。


 玲と男を追ってしばらくすると、見覚えのある場所に出た。初めて私が玲と会ったとき、歩いた道だ。ファミレスに行くときではなく、その後の道である。

 ホテル街に入った男は玲と手を繋ぎながら、熱心に何か話しかけていた。遠くから見ていると声までは聞き取れないが、様子からすると彼女は笑っているようだ。時間をかけてようやく増えてきたと思った彼女の笑顔が、奪われたような気がした。彼女に声をかけてしまいたかった。けれど今の私が関わることではない。奪われたなどと、さも自分の所有物であるかのように考えてしまう自分が嫌だ。私は彼女にとって恋人ですらないのだ。

 彼らは一軒のホテルを前に立ち止まった。男が玲の腰を抱く。彼女は、男からやや距離を取ろうとする。玲が頭を下げ、男はその腕をやや強引に引く。

 彼女は明確ではないにしろ、かすかな抵抗を見せていた。

 それを見た途端、私は歩き出していた。事情など分からない。だが、体が動いた。

「玲」

 私の声に玲が振り向く。彼女は怯えていた。玲の前に立った私を、男は怪訝そうな顔で睨みつける。が、すぐに気を取り直して笑顔を浮かべた。

「失礼ですが、どちらさまですか? デートの邪魔をしないでもらいたいんですが。ねえ?」

 男は玲に同意を求めている。彼女は小さく、怯えながらも首を横に振った。男はしばらく彼女を見ていたが、退く気配のない私に舌打ちをして、大きな足音を立てながら去っていった。

 彼女はまだ怯えていた。男に、いや、私に?

「大丈夫?」

「…はい。ありがとうございました」

 早口でボソボソと言い、頭を下げた。初対面の時よりも距離を感じる。それにショックを受ける自分が許せなかった。

「あの男に抱かせようとしてたの?」

「…!」

 自然と威圧するような口調になってしまう。怖い思いをしたのかもしれない彼女を気遣うべきなのに、さらに怖い思いをさせてしまいそうだった。胸の奥にしまい込んだはずの感情が、じわりじわりと滲み出てくる。見るに堪えない粘着質な液体が、肌を通って染み出してくるようだった。

 玲は、否定も肯定もしない。

「あの様子じゃ、彼氏ってわけでもないんでしょ。あの男ともネットで知り合ったの」

 小さく頷く。その姿にまた、ドロリとしたものが溢れる。

「向いてないよ、そういうの。ろくに経験もないのにこんなことしても、好き勝手されて傷つくだけなんだから」

 反論はない。反応もない。 

「…まあ、他人が口を出すことじゃないけどね。次は気をつけなよ」

 彼女がこんな行動を取った意図は分からないが、おそらく私に会わなければこんなことにはならなかったはずだ。私では彼女に悪影響しか与えないと証明されたようだった。

 踵を返す。玲の顔を見ることはできなかった。

 そのまま立ち去ろうとしたときだった。

「……ごめんなさい」

 聞いたことのない悲痛な声だった。

 通りすがりのカップルが、なんだなんだと噂している。うるさい。私たちは見世物じゃないんだ。

 足を止めかけて、私は振り返らなかった。

「もう、会わないほうがいいね」 

 気分が悪い。すべて吐き出してしまいたかった。





   四



 淡々と過ぎていく日常は、私に多少の変化があったくらいで崩れるものではない。些細な出来事は社会の大きな流れに押され、いつしか忘れられていく。朝起きて、仕事に向かい、帰宅して、眠る。食事と睡眠を取っていれば、自分自身が何を考えていようと身体は動いてくれる。

 そんな私を「お疲れ気味?」と気遣ってくれた実帆が、飲みに誘ってくれた。そういえば、酒を飲むのも久しぶりだ。未成年のいる前で飲酒することに、何となく気が引けていた。酒に頼るのは好きじゃないが、今くらいは良いだろう。


「かんぱーい!」

 何を祝うわけでもなく、何となくグラスを合わせる。実帆はグラスに入っていた分を一気に飲み干した。彼女が酒に強いのは知っているが、それにしても健康に悪そうだといつも思う。

「ん~、美味しい! 飲めば疲れも悩みも飛んで行っちゃうよー」

「…そうだね」

 グラスに口をつける。悩みを聞き出そうと連れてきてくれたのは分かっているが、何をどう話したものか迷ってしまう。彼女とは入社時からの付き合いだが、自分のプライベートは何も話していない。私が出会い系を利用していることも、当然ながら知らないはずだ。どう切り出したものか。私は他人に相談をすることに慣れていないのだと、この歳になって思い知る。

 ちまちまと酒を飲んでいると、実帆が口を開いた。

「んーとね、実帆って嫌われてるでしょ?」

「え? どうしたの、急に」

 確かに実帆は、男受けする顔とスタイルに加え、この天然な性格のせいで、同性からは嫌われがちである。さすがに本人を前に肯定することはできないが、否定もしづらい。しかし、彼女は気分を害したようでもなく、のんびりと続ける。

「なのにー、ハルちゃんが悪口言わないでくれるのが嬉しかったんだぁ。それでね、仲良くしたいなあって思ってたんだけどー、ハルちゃんってば隙がないんだもん。ちゃんと友だちっぽくなれたのだって、雰囲気変わってからでしょ?」

 そんなふうに思われていたというのは、初耳だった。

 私が実帆の悪口に参加しなかったのは、彼女に嫉妬する理由がなかっただけだ。自分は仕事においてそれなりに優秀な人間だと自負していたし、そもそも多くの異性にモテたいとは思っていなかった。彼女が空気を読めないのは確かだが、彼女の言うことは案外、的を射たものが多い。総合的に考えて、嫌う必要がなかったのだ。「嬉しかった」などと言われるようなことはしていない。

「だからー、ハルちゃんの相談相手になれるのって、なんかトクベツな感じするんだよねー」

 それだけ聞くと、なんだか性格が悪いように思えてしまう。付き合いの中で、実帆には悪意がないと分かっているからこそ許せる発言だ。

「それでー、何に悩んでるの? 彼氏と別れたとかー?」

 彼女の空気の読めなさが、こういうときにはありがたい。

「…恋人だったわけじゃないの。たまに会って、食事に行ったり、遊びに行ったりする仲。相手は、恋人だと思ってくれていたのかもしれないけどね」

「んー、フクザツな関係だったんだー」

「そうだね…いや、違うのかな。複雑にしてたのは、私のほうなのかも」

 本当はもっと単純な話だった。初めて会ったとき、玲は既にその覚悟をしていたのだ。私自身が臆病で、認めようとしなかっただけ。玲のように、自分の気持ちに素直になれたならば良かった。思えば彼女は初めから、ただ真っすぐに私を好きでいてくれた。

 認められれば、たった一言で済むのに。相手に悪影響があるからと身を引いて、大人な振りをした。自分のコンプレックスを、言い訳にした。

「ハルちゃんはー? 好きじゃなかったの?」

 面と向かって聞かれる。認められない感情だったはずなのに、邪気のない顔で聞かれると、胸の内からそれが素直に出てくるようだった。

「…本当は、ずっと」

 私は、彼女に恋をしていた。

 初めて会ったとき、あの目に捉えられたときから、きっと。 

 今さらだ。私の後悔はいつも遅すぎる。

 黙ってしまった私の前で、実帆は大きな目を不思議そうに瞬かせた。

「言ってみたら?」

「何を」

「好きですーって」

 そんなこと言えるわけがない。遠ざけたのは私だ。やっぱり好きだなんて、虫が良すぎる。

「んー、でもー、後悔しない?」

「もう、してるよ」

 あはは、と実帆が笑う。

「ハルちゃんってばオトナだよねぇ」

「実帆だって、大人でしょ」

「そういうことじゃなくてー。なんか、ちゃんとしてるでしょ? 私だったらぁ、そんなふうにできないもん。思ったら、あとは勢いでやっちゃえー! って感じ」

 そんな若さはとっくに失くしてしまった。「やりたいこと」ではなく、「やらなければならないこと」を考え始めたころだったか。

「ハルちゃんも、やってみたらいいんじゃない?」

「どうやって?」

「勢いでー、やりたいことするの!」

「そんなの、相手に迷惑だよ」

「違うー、違うの! そうじゃなくて! 後悔するんだったら、迷惑かけても良いじゃん! やらなかったら、ずーっとしんどいままだもん」


 実帆の勢いに押されて来たはいいものの、あたりはもう暗くなっている。アパートの近くにひとけはない。繁華街から少し離れただけで、途端に静かだ。耳をすませば、電車の音がかすかに聞こえる。駅から離れるほどにあたりは暗く、ぽつぽつと立っている街灯だけが、今は頼りだった。

 電車に乗ってここに来るまで、おせっかいなことに、実帆が付いて来てくれていた。途中まで方向が同じだからと言って、私が下りる直前まで隣の席で喋り続けていたのだ。おかげで、駅を出るまでは彼女から貰った勢いで進むことができた。しかし、いざ建物が見えてくると足がすくむ。

 やはり実帆のようにはなれない。迷惑ではないかと考えてしまう。このままUターンして帰りたい。こんな時間だと終電に間に合うかどうかも怪しいところだが、無ければどこかで一泊すればいい。現実的に不可能な距離だとしても、歩いて帰ったっていいくらいの気分だった。

「やらなかったら、ずっと、しんどいまま…か」

 確実に私は後悔するだろう。このまま帰ったら、「あのとき会っていれば」。これから会いに行ったら、「あのとき帰っていれば」。どうしたって、平穏なだけの生活には戻れないのだ。

 やる後悔と、やらない後悔。どちらを選ぶべきか。

 そんなの、決まっている。

「―――会いたい」

 ぽつりと呟いた声が、夜に響く。私はこんな声だったか、と不思議に思う。

 こんなにも寂しそうな声を、私は知らない。

 自覚した途端、胸の内にあるドロリとした何かが押し流されようとしていた。息が苦しい。胸の奥から、強い感情が産声を上げている。

 怖い。でも、逃げたくない。

 そう思ったとき、後ろで足音がした。

「……なんで、ここに」

 背後から聞こえた玲の声が、堰を切った。感じたことのない感情の波に、それを止めることもできない。

 振り返ると、玲の首元には、暗くて見えづらいがカメラがかかっていた。彼女は私がいることに驚いている様子だった。当然だ。自分とはもう会わないと言った相手が、自宅アパートの前にいるのだから。

 玲は立ちすくんでいる。何か、言わなければ。そう思うのに、言葉が出てこない。出てくるのは、涙ばかりだった。玲が茫然と呟く。

「もう会わないって、言ったのは…」

「会わないつもり、だったの、本当に……結局、それも嘘になっちゃったけど」

「それ、も?」

「私、玲ちゃんに嘘ついてばっかりだった。応える勇気もないのに、優しいふりして、玲ちゃんの好意に甘えてたの」

「……そんなの、」

「私は、同性が好きなわけじゃない。恋人じゃなくて、一回限りの遊び相手を探してた。話してくれた過去を、受け入れるつもりだってなかった」

 玲が口を挟む隙を与えないよう、捲し立てる。止まったら、挫けてしまいそうだった。

「ホテル街で玲ちゃんを見たとき、苛々して、なんでそんなことしてるのって、自分を棚に上げて玲ちゃんに八つ当たりした。私がいつもやってることなのに、感情的になって、許せなかったの。だから、そう、えっと…」

 何を話したかったのか、分からなくなってくる。文句を言いに来たわけじゃない。

 素直に、正直に。後悔のない最後であるように。それだけを考える。

 勢いを失って俯いた私に、玲が一歩近づいた。

「泣かないで。こっち、見て」

 囁くようでいて、真っすぐに向けられた声が届く。この期に及んで、みっともない姿を見られたくないと思ってしまう自分がいた。

「甘えていたのは、私のほう。…晴香さんが、男の人を好きなのは、分かってたんだ。見た、から」

 見られていた。いつだろう、と考えて心当たりがあった。見間違いではなかったのだ。

 先を聞きたいようで、聞きたくない。喉の奥が締め付けられるようだ。

「私も、大人にならないといけないんだと思った。でも結局、背伸びして、失敗した。迷惑もかけた。自分の事情とか、気持ちを押し付けてばかりで……晴香さんまで泣かせたいわけじゃ、なかったのに」

 涙が止まらない私に対して、玲の声は落ち着いているようだった。

 また一歩、一歩と近づく。目の前、数センチだけ見上げた先に彼女の顔があった。暗く滲んだ視界でも、ようやくはっきりと見える。

 苦しんでいるような、悲しんでいるような、あるいは喜んでいるような。複雑な表情を浮かべた彼女が私を見つめている。スッと、喉のつかえが取れた気がした。自然と、口が動く。

「―――好き、みたい」

「……みたい?」

 誰かのことを考えて、こんなにも感情に振り回されたのは初めてだった。それを不快だと切り捨てて、一時の幸せだけを得ようとした。今までそうやって生きてこられたのだ、これからも同じだと思っていた。

「さっき気づいたの。今さら、遅いけど。…ごめんね、」

 私が謝るより早く、玲が私の腕を掴む。 

「頼むから、勝手に終わらせないで」

 必死な声色で、ぎゅっと握られる。その指は細く頼りないはずなのに、今は何より頼もしかった。

「私なんかじゃ、頼りがいもないし、晴香さんを幸せにできる自信もない。女同士、楽な関係じゃないのも分かってる。晴香さんにとっては、男の人のほうが良いと思うときが来るのかもしれない。それでも、私は」

 腕を掴んでいる玲の手に、自分の手を重ねる。彼女は息を吸って、ゆっくりと瞬きをした。

「好きです、晴香さん。私と、付き合ってください」

 緊張した面持ちで、私をじっと見つめる。使い古された言い回しが、彼女の口から発せられるだけで特別なものに思えた。

「こちらこそ、よろしくお願いします」

 恥ずかしくなるほどに、初心なやり取り。それが、こんなにも嬉しい。息が苦しくて溺れてしまいそうなのに、もうそれを不快には感じなかった。





   五



 土曜日の午後二時。駅前は人もまばらだった。通勤ラッシュの時間になれば、スーツ姿の男女が急ぎ足で利用する姿が見られるが、繁華街から離れたこの駅を、土曜日の昼間に利用する人はそう多くない。

 見慣れた駅の風景を眺めて待つ。早く着きすぎた待ち合わせ場所で一人、電車を降りてくる人々の流れをやり過ごす。


 誰かを待つ時間がこんなに長く感じるだなんて、知らなかった。手持無沙汰になり、無意味に髪を整えてみる。終電を逃したときに、すっぴんも寝起きも見られている。取り繕うこともないのかもしれないが、やはり気になってしまう。美人の隣に並ぶのは大変だ。

 ふいにスマホが震えた。見れば「もうすぐ着きます」のメッセージ。電車が到着し、駅の改札からぽつぽつと人が出てくる。

 各々が目的地へと向かう中、カジュアルな格好の彼女がいた。無地のトップスにショートパンツを合わせ、その上から羽織ったシースルーのロングシャツを風になびかせている。飾り気がなく目立たないはずなのに、すぐに目が引き寄せられた。

 彼女が改札越しに私を見つけて、小さく手を振ってくる。切符を通そうとして、少しもたついているのが愛らしい。玲は改札を通り、迷いなく一直線に駆けてきた。

「お待たせ…!」

 柔らかな表情と、何より饒舌なその目が私を射抜く。隣に並んだ彼女の手を引いて、自宅のあるマンションに足を向けた。

 今日は、私のことを教える日だ。

 











評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ