彼の目的と石の姫
朝から降り続いていた雨は日が暮れると同時にあがった。円にほぼ近い月が昇る頃には雨雲は全天から消え、沢山の星が自己主張するようにちかちかと瞬いている。
「よいせっと」
街全体が眠りに落ちた頃合いを見計らって、トーヤは泊っている宿の窓から抜け出した。街中がしんと静まり返ったこれからが彼の活動時刻だ。彼の職業は盗賊なのである。
「えーと、標的は確か、街外れにある古い城の中、だよな……」
そう呟きながら、トーヤは先程宿の中で頭に叩き込んだばかりの街の地図を思い起こす。何百年も前のものであるその城は、街の北側にあるはずだ。今日は下見だけだから、のんびり気楽に行けばいい。
そう考えながら北の方角へゆったりと歩き出した彼は、その途中でふと小さな苦笑を浮かべた。胸中に、なんとも言えない複雑な感情が湧きあがってくる。
何百年も昔の、この街がまだ都市国家だった頃の古城。その中にある今回の標的。それらはこの国のほとんどの人々がとうに忘れ去ってしまった、この地に根付く神の息吹がかかるものだという。
もはや知る者も少ない伝承によれば、それは概念としての神ではない。崇める者がいようがいまいが、確固たる存在として、広大に広がる大地のあちらこちらにあり続ける不死の存在の内の一つ。滅多に人前に姿を見せず、人間が決して持つことのできない力を自在に操るそれらを、太古の人々が神と名付け、そして崇めた。
だが、人々は次第に文明を発展させ、争いを繰り返すことで巨大な国家をつくり、新たな宗教を、ひいては絶対的に自分達に味方してくれる『神』という概念を生みだした。その宗教はどんどん広がり、それと入れ違うように、人々は以前自分達が神と呼び、崇めていた存在がいたことすら忘れていった。
そして現在。雇われ専門の盗賊であるトーヤに今回の仕事を依頼したのは、一神教を国教と定めたが故に過去に神と呼ばれていた存在を完璧に亡きものにすることを望んでいる、この国の指導者達。土着の神々の存在を知り、それらを崇めることを習わしとしていた最後の集落であるトーヤの故郷を根絶やしにした、大本だ。
つまり彼は今回、敵の手先となって働くことになる。これで何とも思うなとは、言う方が無理だ。
「ま、確かにこんな仕事、確かに異教徒の俺くらいにしか、頼めないわな」
今更他の誰かに言ったって、土着の神なんか信じないだろうし、な。
そう肩をすくめたりしてみながら歩いていると、ようやく目的の建物が見えてくる。その姿を見て、トーヤは軽く目を見開いた。
「……ずいぶんと、綺麗だな」
その城は、数百年も昔のものだというのに原形をそのまま留めていた。崩れ落ちた箇所など見当たらない。それどころか、所々蔦に覆われている以外は白いままの城壁が覗いているほどだ。
「おいおい、まさか、まだ使われています、なんてことじゃないだろうな」
そんな話は聞いていない。中に人がいるとなると、仕事の難しさは激増する。できない訳ではないし、むしろ普段からやっていることだが、今回に限ってはできればやりたくない。
第一、観光を売りにしている訳でもないこの街の住民が、こんな馬鹿でかい建物を一体何に使うというのだろう。集会所も物品の取引所も、街の中心部にそれ専用の立派な建物がちゃんとあるのだ。
「そもそも、異教徒の遺物は使用禁止とかいう法律があったよな、確か」
ということは、この建物はやはり無人のはずだ。こんなに綺麗なのは、それこそ神のご加護とやらが働いているせいかもしれない。
「……だとしたら、あの連中の熱心さにも納得がいくか」
あの連中というのはもちろん、彼にこの仕事を依頼してきた国の指導者達のことだ。金に糸目をつけないから引き受けてくれと懇願してきた異様なまでの熱心さは、自分達が存在しないと主張する神の力に対する、畏怖の表れだったのかもしれない。
無人なら気楽にいくか、とトーヤは何の用心もなく、近くの城壁に穿たれた小さな通用門をくぐり抜ける。十数歩分の厚さがある城壁の中はとても暗く、外に出た瞬間には夜だというのに周囲がひどく明るいように感じた。目を慣らすために数回瞬きをして、なんの気もなしに目の前にそびえる城を見上げる。そして、城の高い位置にある窓からこちらを見下ろしている白い人影を見つけて、ぎょっとした。思わず身体をこわばらせたが、その影は確かに彼を見ているはずなのに、微動だにしない。
もしかして、心ここにあらずという状態で、気付いていないのだろうか。それとも、黒い服を着ていたおかげで、城壁の影に紛れて見えていないのか。
後者の方がありえそうだな、と考えながら、トーヤはそろそろと城壁の影に沿って移動する。通用門から大分離れたところで一旦足を止め、もう一度例の窓を仰ぎ見てみると、その人影は未だに通用門に顔の向きを固定したままだった。どうやら、本当に見つかっていなかったようだ。
「ったく、心臓に悪いぜ……」
そうぼやきながらもほっと息をつき、彼はさっそく標的があるはずの場所を探し始めた。おそらく、城の本丸とは別の建物として立っているだろうと予測して、敷地の中をあちこち見て回る。しかし、それらしき建物はなかなか見つからない。
広い敷地内を二時間ほどかけて隈なく探し、トーヤははぁ、とため息をついた。
「……これだけ探して見つからないってことは、本丸の中にあるのか」
うんざりと本丸の巨大な姿を見つめるが、標的を見つけなければ仕事にならない。仕方ないな、ともう一度ため息をついて、今度は本丸の中へと侵入すべく、行動を開始した。
音をたてないよう注意しながら、中庭に面した窓を叩き壊す。中に入ると、そこは長い回廊になっていた。
床に足をつけたトーヤは、そこに溜まった靴を埋めてしまいかねない量の埃を見て、むっと眉を寄せた。これはどう見ても長年、それこそ数百年単位で使われていなかったと思しき量だ。それが窓から差し込む月光で見える限りの廊下を、全て埋め尽くしている。おまけに、近くにある扉は明らかに木材が腐っていて、所々穴が空いていた。
「なんなんだ、この外見との落差は」
あの人影を見て、やはりまだ使われていたのかと思っていたのだが、そういう訳ではなさそうだ。では、あの人影はいったい何だというのか。
「まさか幽霊でした、なんてことじゃない、よな……」
冗談のつもりで呟いてみたが、今日化け猫に遭遇したことを考えると、あながちあり得ない話ではないような気がしてくる。トーヤは深々とため息をついた。
「とりあえず、一通り回ってみるか」
そう決めて、埃の中にずぼずぼと足を突っ込みながら先へ進み始める。埃で白くなっている廊下にくっきりと足跡が付いて、盗賊の原則である隠密行動も何もあったものではないが、これはこの際仕方がない。それに、ここが本当に無人で使われていないのなら、気にするだけ無駄だ。
もはや開き直った心境でだかだかと歩を進めていたトーヤは、二階三階と次々に見て回っていくうちに、やはりこの城は無人だという確信を強めた。どこもかしこも、分厚く埃を被っている。すでに扉が朽ち果ててしまった部屋もいくつもあり、立派だったのであろう調度品の類も原形を留めているものの方が少ない。とてもじゃないが、人が長く留まろうという気になれる場所ではない。
「昼間が雨で、助かったな」
湿気が多いせいで、少々荒い足取りでも埃が舞い上がらないのだ。これが空気の乾燥した夜だったら、少し歩くだけでも埃がもうもうと立ち昇って大変だっただろう。
「あとは、四階だけか」
この城には塔が備え付けられている訳ではないから、本当にそこが最上階だ。今まで見てきた階には標的のありそうな部屋はなかったから、あるとしたら四階ということになる。そして見間違いでなければ、先程の人影がいるのも四階のはずだ。
「まぁ、こんな埃だらけの場所にいるのが生身の人間の訳ないよな」
そう呟きながら同じく埃だらけの階段を上る。そうして、最後の段を上りきったトーヤは目の前に広がった光景に息を呑んだ。
「まじ、かよ……」
四階の床には、埃が一つも落ちていなかった。暖色系の絨毯は適度な柔らかさを持ち、白い石造りの壁に映えているのが、近くの窓から差し込む青白い月明かりの中でもよくわかる。各部屋へと通じる扉もよく磨きこまれ、光沢すらあるようだ。
まるで、この階だけが数百年前、この城が現役だった頃に時を止めてしまったかのような、そんな光景。
その中に、その人影は佇んでいた。
廊下の南端にある窓に向って立ち、身じろぎ一つせずに外を眺め続けている女性。身に付けている白い衣装はゆったりとした見たこともない形で、銀糸できめ細やかな刺繍が施されている。華奢な背中は、腰を越す程に長く伸びた黒髪に覆われていた。どこか物憂げなその後姿だけでも、高貴な生まれなのだとわかる風情だ。
もしも今誰かに、この城はまだ現役であり、彼女はこの城に住まう王族なのだと聞かされたら、あっさり信じてしまえただろう。それほど、彼女とこの階の光景は調和している。そして現代のものではありえないその調和が、余計にこの階の異様さを際立たせていた。
唖然としてそれらを眺めていたトーヤはやがて、盗賊としての意識が警鐘を鳴らし出すのを感じた。盗みに入った先で人に姿を晒すなど、盗賊失格だ。気付かれていない今の内にとっとと物陰に隠れろ、とその意識は訴えてくる。
そして、それとはまた別の、本能ともいえる所で、別の警鐘が鳴っていた。何かがおかしい。ここに深く立ち入ってはいけない。このままでは、取り返しのつかないことが起きる、と。
だが、少しの間迷った挙句に、彼はそのどちらの警鐘もあえて無視しようと決めた。そんなこと、人生の中で初めてだった。今までは己の勘を何よりも信じて生きてきたし、それにどれほど助けられてきたかは、身に染みて知っている。
が、それでも今は好奇心の方が強かった。明らかに尋常じゃないこの場所で何が起きているのか、知りたかったのだ。
だから、トーヤは窓辺に佇む女性に向かって足を踏み出した。最初は一応気配を殺していたが、近づいていくに従ってそれもやめた。それどころか、わざと足音を立てながら大股で近づいてみる。その後の行動は、振り返った彼女の反応を見て決めるつもりだった。
しかし、予想に反して彼女は振り向かなかった。じっと窓の外を見つめたまま、動かない。トーヤがすぐ真後ろまで来ても、何も反応しないのだ。そんなに心奪われるものが外にあるのだろうか。
もう手を伸ばせばその背中に触れられるという位置で立ち止まったトーヤは、しばらく彼女が振り向くのをじっと待っていた。が、とうとうしびれを切らして声をかけた。
「おい」
それと同時にむき出しの細い肩に手をかける。どんなに意識を外にある何かに奪われていても、これで気付かないはずがない。そう思っての行動だった。
けれど、ぎょっとしたのはまたもやトーヤの方だった。手をかけた肩の体温が、生身の人間のそれではなかったのだ。触れた箇所からこちらの体温が奪われるほど、冷たい。まるで石のようだった。
トーヤは一瞬、本気で彼女は石造りの彫像なのかと考えた。しかし、すぐにそれは違うと打ち消す。作りものだと言うには質感が人間らしすぎる。華奢な骨格を包む女性らしい滑らかな皮膚の柔らかさも、肩からこぼれ落ちている長い髪も、人間そのものだ。現存するどんな素材を使っても、ここまで似せることは不可能だろう。
そう結論付けてもまだ半信半疑で、相変わらず反応しない女性の隣に並んだトーヤは、彼女の肩を掴んだ手に力を込めて引いてみる。すると、彼女の上半身はあっさりと彼の方を向いた。あまりにも抵抗がなかったため、これには行動を起こしたトーヤの方が驚いた。作り物なら上半身だけが動いたりはしない。この動きは、人間の関節の動きだけが可能にしていることだ。ましてや、石造りの彫像の訳がない。
そう考えながらその顔を見てみると、年の頃は自分とそう変わらないように思えた。おそらく、彼女の方が少し年下だろう。無理矢理こちらを向かせた顔からは表情が抜け落ちているが、それでもその造形美は衰えていない。何も映していない青い瞳は、ガラス玉のようだった。
手を放すと、ぜんまいが巻き戻るようにゆっくりと、女性の身体はまた元のように窓に向かう。そして、そのまま動かなくなった。
「なん、なんだ……?」
トーヤは呆然と呟いた。
目の前にいる女性は、身体のつくりは間違いなく人間そのものなのだ。それなのに、体温や意志といった、本来そこに宿るはずのものが悉く欠けている。
まるで、生きながらにして時を止められたように。
そう考えて、トーヤは己の思考にぞっと身震いした。だが、それと同時に妙な確信も持つ。
そう、そう考えれば納得がいくのだ。まるで数百年前の現役時代から変わっていない様子の城の外見とこの階は、彼女に合わせて時が止められたのではないか、と。
それを可能にする存在に心当たりがあったから、トーヤは自分の考えを馬鹿馬鹿しいと笑えなかった。
「……いずれにしても、話せないなら、仕方ない、な」
自分に言い聞かせるようにそう言葉にして、トーヤは本来の目的を果たすべく城内の探索に戻ろうと、女性に背を向けようとした。しかし、そこでまた異常が起きた。
ゆうらりと、白い衣が翻る。ついで、長い黒髪がさらりと揺れた。
トーヤがはっと振り返ると、それまで窓の外を見たまま動かなかった女性が窓に背を向けていた。そして、すぐ近くで驚き固まっているトーヤに目を向けることなく、ゆったりと歩き始める。その表情は相変わらず何の感情も浮かべていないままだ。
どうやら意識が戻った訳ではないらしいと知り、トーヤはそっと詰めていた息を吐いた。まったく、今夜は心臓に悪いことばかりだ。
「どうせだから、付いていってみるか」
流石に向かう先が寝室ならば入るのに抵抗があるが、彼女が常時どこにいるのかを知っておいた方がこれ以上驚かずに済む。
そう判断して、彼は女性の細い背中を追いかけた。彼女はとてもゆっくりと歩を進めているので、大股で歩けばすぐに追いつく。
その歩調に合わせて歩きながら、トーヤは改めてその階の様子を確認した。本当にどこにも、汚れ一つない。通常であれば、毎日手入れされている証拠だと言えるだろう。
たいしたもんだ、と半ば呆れながらも感心していると、唐突に目の前に長い階段が現れた。見ると、女性はすでにその階段を下り始めている。
暗闇の中でしずしずと動くその白い姿を、ひたすら追いかけて階段を下る。しばらく進んで、トーヤは首を傾げた。今まで見てきたどの階にも、この階段の出口はなかったはずだ。方角としては北へ北へと続いているようだが、このままではいずれ本丸の中から出てしまう。いったいどこに繋がっているのだろう。
その階段の傾斜は、他の城内の階段に比べてずっと緩やかだった。窓もないため、どの程度下ったのかはまるでわからない。それでも確実に四階分以上は下ったと思われた頃、それは始まりと同じく唐突に終わりを告げた。
いきなり開けた場所に出たトーヤには、最初そこが何かわからなかった。
「広間、か……?」
少なくとも、ぱっと見た感じはそう見えた。高い天井に、だだっ広い空間。正面の高い位置にはガラスの入っていない、部屋で唯一の窓があり、そこから外界の光が差し込んできている。薄暗い部屋の両脇には大きな燭台が、中央よりやや正面の壁よりには寝台のようなものが置かれている。
彼が追ってきた女性はその寝台に近づくと、おもむろにそこに横たわった。それからふっと目を閉じる。
その瞬間、トーヤは世界が一気に暗転したように感じた。あまりにも唐突すぎて、がくんと何かの衝撃が体を突き抜けていったかのようだ。
だが、それは本当に一瞬のことで、慌てて辺りを見回した時には何事もなかったかのようにしんとしている。そもそも元が暗かったのだから、暗転したと思う方がおかしいのだ。
「とうとう、俺までおかしくなったかな」
そう自嘲しようとして、ふいにトーヤはここが何の部屋かひらめいた。
「……まさか」
もう一度、辺りを注意深く見回していく。立派な燭台や壁にかかったタペストリーなど、周囲の一つひとつの物を確かめるように見つめ、最後に寝台に横たわる女性へと目を移した。
間違いない。ここは彼が探していた、標的があるはずの場所だった。
「そうか、地上を探しても、見つからない訳だよな」
この場所へは、先程の長い長い階段を通らなければ来られないようになっているのだ。
「地下に設けられた聖堂、か。だから、あんたはここで眠っているんだな、神に魅入られた姫君」
眠り続ける女性にそう呟いて、だが、とトーヤは視線を上に向けた。寝台の上、正面の窓のすぐ下に、さっきは気が付かなかった小さな窪みがある。
「あんたの神は、どこにいる……?」
その窪みに収められているべき今回のトーヤの標的、この聖堂に祭られている神のご神体は、そこにはなかった。