プロローグ
その街に着いた一日目は、朝から雨が降っていた。さあさあと微かな音をたてながら、雨粒が銀色の線となって地面に降り注いでいる。
「夜が来る前にやめばいいけど、な」
そう呟いて、旅装の青年は空に向けていた視線を正面に戻した。そこにはこの雨のせいで通常よりは減っているのであろうが、それでも人通りの多い市場がある。昼時の今は一日の内で最も混んでいる時間帯なのだろう。
「さて、と。今夜の宿はどうするかな」
青年がそう呟きながら、目の前の人混みへと足を踏み出しかけた時だった。
「白々しいな。今夜の、じゃなくて、日が暮れるまでの、だろう」
老人のような低くしゃがれた声が雨音を超えて聞こえてきた。
独り言に返事を返された青年は目を見開いて、慌てて周りを見回す。だが、周囲には雑踏が溢れているだけで、彼に気を留めている人間は一人もいない。そう、人間はいなかった。
しばらく辺りを見回していた青年は、やがて通りの片隅からこちらをじっと見つめている姿に気が付いた。青年のふくらはぎの中ほどまでの大きさしかなく、全身を真っ白な毛で覆われたしなやかな体躯に尖った耳と長い尻尾、そしてよく光る瞳を持つ四つ足の生き物。どこにでもいそうな、白い猫。
青年はまじまじとその猫を見つめた。そして一度視線を外し、他の誰も自分に注目していないことを再度確かめる。それから、つかつかと猫の近くまで歩み寄り、ひょいと腰を落とした。そうして、その頭の上に手を掲げ、さっと振りおろす。頭に触れる直前で止めるまで勢いをまったく殺さなかったのだが、猫は彼の仕草を面白そうに眺めているだけだ。
叩くふりにまったく動じないその様子を見て、青年は確信を持った。いくら人慣れしていたとしても、これは普通の猫が取る反応ではない。
「今喋ったの、お前だな? 化け猫」
それでも口調が疑問形になるのは避けられなかった。なにせ、話には聞いていても獣の化け物を見るのは初めてだ。
「いくらなんでも、化け猫という呼びかけは失礼じゃないか、夜明けの子」
その猫は、さも当たり前のようにそう返事をした。そして絶句している青年を見て、おかしそうに目を細める。
「どうした? 喋ると思ったから話しかけてきたんだろう?」
その言葉に、青年はのろのろと首を振った。違う。驚いたのは、猫が喋ったことに対してではない。確かにそれも驚くべきことなのだが、それ以上に。
「どうして、俺の名前を知っている……?」
呆然と呟いた言葉に、猫はああ、と笑った。
「名前なんか知らんよ。ただ長生きしていると、名前に込められた意味くらいは顔を見れば読めるようになるのさ。なにせ、そいつの人生の指標だからな」
そう言って、猫はその長い尻尾をぱたりと振った。
「ま、意味のある名前を持っていること自体、お前がここでは異端者だって証だけどな。俺と同じく」
「待て」
したり顔で語る猫の話を呆然と聞いていた青年は、最後に付け加えられた言葉に待ったをかけた。
「ちょっと待て。確かに俺は、この国のこの時代では異端者だが、それは信じてるものが違うだけで俺はれっきとした人間だ。お前と一緒にするな、化け猫」
「だから、その呼び方はやめろ」
猫はいかにも不服だと言いたげに尻尾を一度ぴしりと鳴らすと、それで、と言葉を続けた。
「お前、名前はなんていうんだ」
「人に名前を聞く時は、自分が先に名乗るのが礼儀だろう」
青年は反射でそう言い返したが、言ってしまってから相手が名前を持っていない可能性に気が付いた。いくら化け物とはいえ、相手の素性はどう見ても野良猫だ。
「……トーヤだ」
ばつの悪さを補うつもりで、若干目を逸らしつつも素直に答える。異形のものに自分の名前を名乗ることは危険を伴うと聞いたことはあるが、意味を知られてしまっているのではたいした差はないだろう。
「……なるほど、遠い夜で遠夜か。確かに、夜から一番遠い時間帯は夜明けだな」
猫はそう言って頷くと、唐突にひらりと身を翻した。
「あ、おい」
青年、トーヤの呼び止める声も終わらない内に、猫の姿はどこかへと消えてしまう。
「なんなんだ……?」
取り残されたトーヤが閉口していると、突然、上の方から声が降ってきた。
「またな、夜明けの子」
だが、慌てて仰ぎ見た先に先程の猫の姿はなく、遠い西の空に雨雲の切れ目が見えただけだった。