町
雲一つ無い晴天だった。
淡く青く抜けるような空。まぶしいほどの光が降り注ぎ、雪の白さを際だたせる。
熱に溶けたか、ヒバに近い木だろうか、箒にも似た枝から雪が落ちた。枝がしなり、葉が喜んでいるようにも見えた。
雪の上、真っ白な世界の上を行く長身の影がある。
歩みは力強い、一歩、一歩と雪の中にかんじきごと足を埋めて歩いていた。
雪山は登るよりも下る方が難しい。
薄く積もった雪の下に隠れているクラック、岩などに足を取られ、姿勢を崩した時、たやすく滑落につながりやすい。傾斜が強くなればなるほどその危険性は高くなる。
加えて、慎重に歩かざるを得ない理由もまた彼にはあった。
背中に背負っている大きなザック、それとバランスでも取るかのように体の前に大きな袋を抱えている。少々の動きでは落ちないよう、ロープで体に括り付けていた。
その袋の口から、人の顔がひょっこり覗いている。
白い少女だ、長い髪も肌も白い。きらきら光る雪をまぶしげに見る、その目だけが紅い色合いを持っていた。
「今更だけどさ」
少女が景色を眺めながらつぶやく。
顔が近いのでそんな声でも聞こえるようだ、寛は袋の支えとなっている右手を揺すり、抱え直すと、少女に目を向けた。
「今更だけどさ、僕が荷物になるとは思ってなかったよ……」
遠い目をする。
ぱっと見は寝袋にも見えるだろう。防寒のために中に毛皮や布を厚く敷き詰めているようだ。
寛はしてやったりと言わんばかりににやりと笑い、言った。
「蓑虫みたいで子供に人気が出そうだな」
「ミノムシ……って形は判るけど日本に居た頃は見なかったなあ」
「む? そういえばしばらく前から見かけなかったか、温暖化にでもやられたかな」
「えーとね、確か海外から入ってきた寄生バエにやられて少なくなってるんじゃなかったっけ?」
寛はまじまじと少女を見る。感心したようにふむと頷いた。
「二十年こっちで過ごしてるって割によく覚えてるな、かなり忘れてるもんだと思ってたが」
「だと思うでしょ? 半端ない田舎暮らしだったからねえ……」
もう頭が暇で暇で、とうんざりした顔を空に向ける。
「あれこれ昔の事思い出したりなんかしてると結構忘れないものだよ」
「そういうものか」
「ついでに言えば十歳くらいまで記憶が……んー、無いって言うのも変か。ぼんやりと霞がかってるというか……他の子に比べて随分と知恵が遅れてるように見えたんだってさ」
多分、とそのおとがいに指を当て、続ける。
「日本での稲葉穂月の記憶──どこにそんなものがあってどんな経路でってのは置いとくとして、それだけの記憶がすんなり頭に定着するまでにはそれだけの時間と成長が必要だったんだろうと思う」
「ははあ、色々考えてるな」
そりゃあねえ、と少女は呟き、はあと白い息を吐いた。空に溶ける息をどこかぼんやりとした目で眺め、言う。
「昨日まで普通の高校生だったのに、次の日には十年分のぼやっとした私の記憶があって、異世界で性別も変わってて、父さんも母さんも違ってて……って感じだったし。でも違和感無く地続きの僕の記憶もあってさ。おまけに美幼女だし」
「おまけはどうでもいいとしてそりゃ混乱しそうだ」
「どうでもよくないそこ大事。まーでも混乱はしなかったかな。意識しなければ何もおかしくなんて思わないし……かえっておかしく思わないって事がおかしいとは思うけどね」
少女は遠くに思いをはせているような目をふと自分を抱えて歩いている男に合わせた。小首を傾げて言う。
「ヒロこそ混乱しなかったの? あれ……いや、そういえばどうやってこっちに?」
「お前は頭回るのに相変わらず肝心な所が抜けるよなあ、らしいっちゃらしいが」
「女の子になってからドジっ子属性が……」
「大丈夫、その前からだ」
寛は、ぶーと口を突き出し抗議の声を上げる少女を黙殺し、なだらかになってきた傾斜に軽く安堵の息を吐く。少し下ったあたりには森が姿を見せており、安全なルートを示すためか、木々にロープが張り渡されていた。
ここからは安心して行けるとばかりに大股で足を踏み出す。乱暴に雪を踏み散らしながら口を開いた。
「八尋祭りは覚えてるか? 夏の七夕頃にやる奴だ」
「うん、そりゃ地元の祭りだし、覚えてるけどさ」
少女はそれがどうしたのか? と目で問う。
「ちっと出店でたこ焼きを買ってな、海辺でそれを肴に一杯やってたらなんかこっちの世界に来てた」
「キーはたこ焼き?」
「ああ、たこ神様の怒りに触れたのかもしれん」
「たこ神……って」
少女の脳裏に名状し難い冒涜的な姿がふと浮かび、いあいあと首を振って妄想を追い出した。そんな少女を何か面白いものを見るような目で見つつ、寛は言う。
「冗談は置いておいて、前後の記憶は結構曖昧なんだが……月食の日でな。なんと言えばいいんだろうな……空に開いた穴に包まれたというか。居ながらにして居ないような感覚に……うーむ」
どうにも説明しがたい、と言わんばかりに困った顔で頭を掻く。
「……まあ、気づいたらたこ焼き持ってドワーフっぽい酒樽みたいなおっさんに睨まれていたんだな」
「おおー、ドワーフも居るんだ」
「肌は灰色だし、ヴェルフの一族とか言ってたがな、見た目はまんまゲームのそれだったよ、気のいいおっさんだ、言葉も教えてもらった。たこ焼きが決め手だったな」
「やっぱりたこ焼きなんだ」
「たこ焼きから始まる異世界交流だ」
なにそれ、と少女はおかしげに笑った。そんな笑顔が出せる事にどこかほっとしたような笑みを寛も浮かべた。
「その後は色々下働きやら僻地調査とか船の積み込みをやってたんだが、いかんせん稼ぎにならなくてな。ここ数ヶ月はもっぱら隊商の護衛とか賞金稼ぎをやってるよ」
「賞金稼ぎとか護衛とか、いいなあ……うらやま。なんでそんな強く……」
少女は言葉を途切れさせる。ふと思い出した様子で、寛の顔を見上げた。
「ねえ、昨日やっつけた……あいつらは、怪我平気だったかな?」
「……お前なあ」
寛はひどく呆れた声を出し、大きくため息をついた。まったく仕方ないと言いたげに頭を掻く。
「お人好しにもほどがあるだろう」
「あ、いや、だってさほら、結構派手に血出てたし、いかにも折れてそうだったしさ、えーと、その……ねえ」
しどろもどろになる少女を見て寛は笑みを浮かべ、言う。
「まあ、問題ない。あの狼男っぽいタイプとは昔やりあった事がある。食い物さえあれば怪我の治りはお前以上だ。他の連中も死ぬ程の傷は負ってない、軽傷と言ってもいいくらいだ」
「そっか。うん、それなら……ん?」
少女はふと違和感を覚え、首を傾げた。
しかし次の瞬間、見ろ、と揺さぶられ、その違和感はどこかに行ってしまった。
「うわぁ……」
崖のようだった。森が大きく切れているようにも見える。
眼下の景色が一望でき、山から下る川、針葉樹の森、広々とした草原が見渡せる。
川沿いには畑が広がり、道が連なり、その先には町が見えた。
少女は大きく息を吸い、吐く。ひっそりと呟くように言った。
「人の町……なんだね」
「初めてか?」
「うん。故郷は森の中だったし……あいつらに、捕まってからは馬車に押し込められてたし」
少女は目を伏せぶるりと身を震わせる。
寛はその震えには気づかぬ体で、ぽんぽんと抱えた袋を叩き言った。
「ところで小便は大丈夫か? その中で漏らされると困るから早めに言ってくれよ」
「う……大丈夫だから。というか漏らさないからっ」
「……ちっ」
「なんで残念そうに!? ヒロが求めてるものが判らない!」
「中敷きの毛皮が好事家に売れるんじゃないかと」
「やめてええ!」
下ネタ禁止、と少女は言い、寛はまったく守る気の無いうさんくさい笑顔で頷いた。
◇
山から水が集まり流れるブリック川は水量こそ多いものの、麓付近では水害を引き起こす事は滅多にない。長い年月の浸食と、川底の岩盤層の不思議な噛み合わせにより、一部分だけひょうたんのように大きく膨らみ、流れも遅くなり、自然、そこには人が住むようになったのだろう。
町は川をまたぐように、東西に広がっている。川のひょうたんにも見える部分はその町の中心だ。橋脚がアーチを描く平橋がかかっている。
その橋を遠目に眺めながら、川沿いの道を行く。灌漑用の用水路で魚採りをする子供達が寒さもものともせず大きな声を上げてはしゃぎ、春に向けてか、畑の土起こしをしている大人の姿も見える。
山と違い、この町付近まで降りると雪の姿も日陰に残るのみで、日の当たる場所にはほとんど無いようだった。
川沿いに設けられた通用門を抜け、目抜き通りを横切る、少し入り組んだ通り沿いに、その店はあった。
「おいおいおい! 女を保護したとはあったが、まさかアーロアかい! しかもおめえ、おいおい……まさかのウィタじゃねえか! たまげたねえ!」
大きなだみ声が店から響いた、自覚もあったのか言葉の後半になり、囁くような尻すぼみの声になる。
その勢いに驚いたらしく──居心地が良いのか、未だに袋から首だけ覗かせている少女がびくりとした。
寛は安心させるように袋の上から手を添え、その大きなだみ声の主人に向かって苦笑しつつ言う。
「スブラキ、あまり驚かせるな、お前の声は二階で寝てても飛び起きちまう」
「悪い悪い、カミさんには内緒だぜ?」
「内緒も何も、聞こえてると思うがな」
「ガッハハ、違いねえ!」
スブラキと呼ばれた店主は、ビア樽のような体格そのままの大きな声で笑い、薄くなった頭頂部を撫でる。
寛は苦笑を納めると、真剣みをわずかに含んだ目をし、口を開いた。
「色々話したい事もあるが、とりあえずはだ、医者を紹介してくれないか? 表向きは一応治ってるんだが」
「ああ、いいともよ。それなら良いのが丁度居るからな、おおい!」
メーゼ、と大きな声で奥の調理場に向かって声を掛けた。
「というか女房なんだがよ、昔はサヤドリ付きの医者もやってたんだ、今でもたまに医者として呼ばれるんだよ、腕は心配しなくていいぜ。女見るのに男の医者ってのもなんだしな!」
そう笑う店主の頭に手刀が落ちた。
「あなたはあけすけ過ぎ」
動きやすそうな服にエプロンを着けている女性がそう言い、演技がかった痛そうな顔をする店主の頭から手刀を戻す。
料理中だったのか頭に巾を巻いている、それをほどくと豊かな黒髪が広がった。
手慣れた様子で、心持ちゆっくりと、少女を怖がらせないように近づき、目線を合わせる。にこりと微笑むと、その袋の上から肩を撫でた。
「男達ばかりで怖かったわね、もう大丈夫よ。何も痛い事はしないから、おばさんに診察させてくれるかな?」
「え……あ、う……?」
少女はとっさに言葉が出てこない様子で、不安げに寛を見、また目前の女性を見た。
寛は少女の頭を安心させるようにぽんぽんと叩く。
「大丈夫だ、診てもらえ」
「う……はい。そうだね、うん」
そのやりとりを少し目を丸くして見ていた女性は、くすりと笑い、言った。
「二階の奥の部屋のベッドに寝かしておいてちょうだい。準備が出来たら行くからね」
大事に扱われているのだろう。
階段の床板は蜜蝋を何度もすり込まれ、味わいの深い艶を出している。傾いた日が窓枠の影絵を作り、壁を夕暮れの朱色に焼いた。
少女を任せた寛が身支度をし、階段を下りると、調理場からエプロンを着けた店主が出てくる所だった。右手に持った皿を上げ、相変わらずのだみ声で言う。
「おう! 追ン出されたかい? 丁度いいや、まだ味は馴染んでねえが食っていけよ」
「おお、そりゃ有り難い。仕込みの時間にすまんな」
「なあに、うちのカミさんは出来たカミさんだからな、もう九割はでき上がってらあ。夜の客は安酒出しときゃ文句言わねえしな!」
ガハハ、と大きく笑う。寛は釣られるように笑み、出された料理を口にした。
ごろごろと大振りに切られた野菜が煮込まれている。干し肉を戻した強い味と、それに負けぬようにとふんだんに使われたハーブの香り。ポトフに近いのかもしれないが、ずっと力強い。
「おお、こりゃ旨いな。久しぶりにまともな物を食った……てのを差し引いてもいける」
「そうだろそうだろ、こいつは単純に見えて実に手ぇかかってやがるからな。出汁の仕込みは三日も前からやるんだぜ? まあ、ちっと待ってろ、飲るだろ?」
「お、頼む。マルム酒はあるか? 良い酒だ。気に入った」
「ははは、あのキワモノが気に入ったか! 飲んべえだな! いいぜ、十年物を出してやる」
わずかに琥珀の色のついたグラスに、さらに色の濃い酒が揺れる。それを一息で飲み干し、寛は満足気な吐息を宙に吐いた。
店主はやるねえ、と言い、陶器の瓶から二杯目を注ぐ。かこつけて店主もまた早々と飲みたかったのかもしれない、自分のカップにも注ぎ、水で割り、口にする。目を細め、こらぁ効く、と大きく息を吐きだした。
寛は目で笑うと、二杯目を一口含み、味わいながら飲み、言う。
「ところでスブラキよ、手配の方はどうだい?」
「そのことよ」
店主は心なしか声をひそめた。ごつごつした大きな手を卓の上で組む。
「昨日、お前さんから連絡が来た時点で報告しといたんだが……どうも動きが遅ぇ」
「遅い……?」
「おお、自警団の団長はやたらお堅い野郎だからな、御法度の人売りなんて見つけた日にゃ、その日のうちに飛び出してってもおかしくねえのよ」
「それが動いてないと?」
店主は腕を組み、ああ、と頷いた。
「どっちかってえと伝わってない感じだな。一応うちも提携してるからよ、サヤドリを通じてって事にしたんだが……どうもきなくせえ、今日一杯待って動きが無けりゃ直で自警団に行こうと思ってたんだよ」
もっとも、と無精髭の残る顎をなで上げ、一笑した。
「俺が行く前にお前さんがとっとと帰って来ちまったからよ! ええ! 冬のディムリガから一日で下りちまうとはな! お前さん見た目は普通だが霜の巨人の血でも混じってんじゃねえのか?」
寛はどこか聞き覚えのあるようなフレーズに内心で首を傾げながら、まさかと笑い、グラスを傾ける。
店主はふと誰も店内に居ない事を確認するように見回し、いっそう声を潜めて言った。
「まあ、よ。捕まってたのがアーロア、それもウィタの族ってんなら何となく想像着かないでもねえんだ」
「……聞かせてくれるか?」
おお、と店主は酒を含み、口の中を潤すように転がし、飲み込んだ。
ふう、と息を吐き、言う。
「サヤドリの盟ってこの辺じゃ呼ばれてるが、あれの由来ってな知ってるか?」
「いや? 何とも長い名前ってくらいだな」
「ああ……まあそんなとこだろう。ありゃ元はこの国の機関の一部だったんだ」
貴族会の中でも力のある六人委員会、一人一人が貴石の名前を含む事から、六石とも呼ばれる。それがより細やかな治安維持、地方行政の要として設置したものだという。
「その後色々形も変わったがよ、相変わらず金は出てるし、六石の一族が高位の椅子に座る事も常習化してるんだわ」
「あー、そりゃ何とも……」
(あいつが聞いたらますます萎れそうな話だな)
ぐんにゃりと力が抜けた耳と情けなさそうな顔をした少女の顔を連想し、寛は頬を掻いた。
「でだ、ここからが問題なんだが、六石のうちの一家が今ちょっと不味い事になってんだ」
不穏な空気を感じたかのように、店内を照らすランプの灯りがほのかに揺れた。寛はほう、と目を細めた。
後継者問題が起こっているのだと言う。
直系の子は元より、血のつながりの近い子供すらも中々生まれず、ようやく生まれた甥子もまた早世してしまったらしい。
「かといって、現段階で有力な連中は軒並み他の六石の影響の下だ、養子を取れば、それはそれですったもんだに揉める」
「……面倒臭い事になってるな。しかしなあ、それと何の関係が出てくるんだ?」
「……ああ、アーロアの事は知らんか。子作りに最高の相手よ」
はあ? と寛は間の抜けた声を出した。不穏だったはずの空気が微妙に生暖かいものとなる。
「ちょっと遠くにはなるがこの国から海を渡ってずっと行くと、クラップフェルってな島国があってな、アーロア達の国だ。まあ、言っちまえば、そこじゃ子作りが商売になってるぜ」
どんな子供の出来ない男でも女でも、アーロアを相手にすれば間違いなく子供が、それも健やかで病気にも強い子が生まれるのだと言う。
そしてそれだけでは無く、アーロアの精には他種の精を助ける働きがあるらしく、子の出来ない夫婦でさえも、間にアーロアを挟んで事を行えば、子宝を授かるのだと。
「間に挟む……か、そりゃまあ比喩だろうが何とも」
「がっはは、一度は試してみてえようなみたくねえような感じだろ!」
再び大きくなった声を、いけねえと潜めて店主は続ける。
「まあ、これにゃ問題があってよ。クラップフェルとの協定で公人、貴人はアーロアとの子を嫡子と認める事はならず、ってのがあってな」
もっとも、と店主は悪戯気に目を丸くした。
「裏道はやっぱりあるみてえだけどよ。夫婦仲が冷え切ってんのに子供は出来た……なんていう家はまあ、あるみてえだわ」
「なんとなあ。それで……ウィタってのはまた違う扱いなのか?」
「お、勘か?」
「勘だ」
正解だ、と言って店主は寛のグラスに酒を注ぎ足す。
「実のところ存在自体知らねえ奴の方が多い。まあ、それ以前に別の理由で、クラップフェル協定からは外されてんだわ」
ほう、とつぶやき寛はグラスを煽った。
「その割にはよく一目で分かったもんだな」
「意外とああいう特徴ってのは無いもんだからな。長耳で猫目、折れっちまいそうならアドラーで、それ以外に色々ばらつくのはアーロアさ。ただああいう真っ白いのはウィタしかいねえ」
俺も見たのは初めてだけどよ、と店主は野太い笑みを浮かべて酒をすすり、言葉を続ける。
「まあよ、協定から外されたのは単純な話でな、その時点で既にあちこちの貴族や王室の先祖にウィタの血が入ってたんだ。これ以上は歴史学者にでも聞くしかねえが……今でもお偉いさん達の間じゃ、妾を物色する事を『はじめての兎狩り』なんて呼ぶらしいぜ、何となく事情も解ろうってもんじゃねえか」
寛は厄介なと言いたげに目を瞑り、額を指で叩いた。ため息を吐いて言う。
「つまりはあいつは貴族の子作りのために攫われたって事か?」
「当たってるって保障はしねえがな」
二人は息を合わせたように酒を煽り、杯を置いた。
寛は揺れるランプの灯りを眺め、やや間を置いて言う。
「その割に扱いが乱暴だったようだが」
「……そうかい。まあ、そこはわからねえな。政治に口出ししねえようにあえて薬とかで頭をパーにしちまうのも居るだろうし、趣味かもしれねえ。あるいは俺の予想が最初っから外れてて、何も考えてねえ馬鹿共だったのかもな」
寛はむう、と唸り頭を掻いた。
「あいつにここで療養して貰っている間、もう一度ディムリガに登ろうと思っていたんだが……連れていった方が良さそうだな」
「ほ、なんでえ。もうすっかり面倒見る気なんじゃねーか。ああいうちっこいのが好きなんかい? ええ?」
「茶化すなよ、成り行きだ」
「がっはは、隠すこたーねえよ。確かにありゃ美形だ、育てばいー女になるぜ? まあ今の方が好きってんだったらよ、何だったらその手のやたら若いのを揃えた店でも紹介──」
その時、愉快そうに笑う店主の頭頂を銀のトレイが襲った。
かぁん、と小気味良い音が店内に響く。
店主は頭を抑えて卓の上にうずくまり、おうおうと声にならない声を上げた。
「メーゼぇ……お、おめえ、そんな気安くパンパン叩くから頭が年々寒くなっちまうんだぞ、おい、どうしてくれんだよう」
「隙さえあれば飲み始めて猥談を始める素敵なあなた? あと半刻も経てばお客が来るわよ? 準備を始めて仕事終わりにお酌を貰うのと、頭のてっぺんにトレイの角と、どちらが好み?」
ひええ、と慌てた様子で厨房に向かう店主を女将はにこやかな笑みで見送る。
卓の上に残されたカップの中身がまだある事に気づくと、それをぐい、と飲み干す。
ふう、と息を吐き、寛の対面に座り、長い髪を少々鬱陶しげに後ろに流した。
「ごめんなさいね、ちょっと気が立ってたから」
「いや……酒、強いんですね」
「ふふ、引かない引かない」
寛はぽりぽりと頬を掻くと、一つまばたきをし、表情を消し、口を開く。
「それで……あいつはどうだったかな?」
「身体的な所見を言えば完治ね。再生力の強い種族にありがちなズレた癒合、新生部位、麻痺や混乱も無し。もっとも期間が短いからこれから問題が出てくる可能性っていうのもあるけどね」
そうか、と若干ほっとした様子で寛は短く答え、そして少し言いにくそうにしながら続けた。
「それで、な。あー、何と言うか……身ごもったりなどは……」
女将はふむ、と顎に指を当てしばし考え込んだ。
やがて一つ頷き、言う。
「ま、いいでしょ。妊娠の傾向は無いわ。というよりウィタは冬期には妊娠しないようになってるの」
「そうなのか?」
「妊娠期間が丁度一年だからね、冬場の厳しい時期には生まれないようにっていう事なんでしょう」
寛は意味もなく肩を揉み、首を捻る。
「メーゼさん、それは割と誰でも知っている事かな?」
「……いえ、まず知らないでしょうね。医書には普通に載ってたけど、一般的な医療現場でウィタを診る事自体が無いし……医者であっても知らない人が多いと思う」
「なるほどなあ……せめてもの僥倖というべきか、狙っていたのなら──」
店主の言っていた推測を裏付ける事にもなってしまう。
ウィタを狙って捕らえたのならば調べも入念にしたことだろう。一般的に出回らない知識であっても、貴族達が内々で持っている知識とあればまた別だ。
面倒臭くなってきた、と寛はこめかみを揉んだ。
頬杖をついてその様子を眺めて居た女将は、小さく息を吐いて言う。
「それとね、身体的には大丈夫でしょうけど、おそらく薬物を投与されてるわ。よく知られてるタイプの麻薬、ごく短期的な効果のものだから、尾を引く事はないと思うけど、症状が出てきたら言ってちょうだい。面倒みてあげるつもりなんでしょ?」
「聞かれていたか」
寛は何となく面はゆい感覚に襲われグラスを口につける、すでにグラスが空なのに気づき、どうにも決まりの悪い顔をした。
女将は笑みを浮かべ、空のグラスに酒を注ぎ、言う。
「良い事でしょうね。この町に一人で宙ぶらりんになってしまうよりは。随分となついているようだし……その一杯を飲んだらそろそろ部屋に行ってあげなさい、ヒロ君」
「む……」
寛は甘い渋柿を食ってしまったように眉を寄せる。こちらではまた別の名を使っていたのだ。
一気にグラスを煽り、礼を言って席を立つ寛に、女将はため息混じりの声を掛ける。
「気をつけていたのだけどね。聞いてるうちに色々思い出させちゃったみたいで、彼女動揺しちゃってるから……まったくね……迂闊な。私じゃどうしようも出来なかったわ。慰めてあげて」
そうか、と寛は頷く。階段に向かい、ふと思い出した事があり、振り返った。
「臭いはしなかったか?」
「臭い?」
猟師小屋で同じように怯えてしまった時、果実のような妙な臭いがした事を言うと、女将はいいえと首を振った。
「ただ、そう。何だか負けたような気がするし、ウィタの生態については調べておくわ。ああ、それと服は後で届けるからね。私のお古だけど、買い物に出かけるくらいは出来るから」
「重ねてありがたい、その辺は宿代に上乗せしておいてくれ」
「いいわよ、薬も出してないし。あえてって言うなら今晩は漬け込み子羊の腰肉ステーキの注文でもしてちょうだい。うちのこだわりの一品なんだけど高すぎて中々売れなくてね」
「じゃあそれを二人分頼む、さっきの煮込みもつけてくれ。それに……」
お酒ね、と先回りする女将に、寛は苦笑し、頷いた。
◇
照明のない廊下は暗く、窓からの月の光に照らされ、どこか青く見える。
少しすれば、一階の酒場に客が入り、時には喧噪も含んだ賑わいが二階にまで聞こえてくるが、今は静かなものだった。
冬期という事もあり、部屋を借りる者は居ない。時に酔いつぶれて家に帰るのもままならなくなった客が仮眠に使う程度だ。
二階の部屋は五室。繁盛しているのだから手広くやれば儲かるのだろうが、店主と女将は自分の手が届く範囲で店をやりたいらしい。
寛は奥の部屋を無造作に開けようとし、すんでのところで手を止めた。
ノックをして、入るぞと声をかけてからドアを開ける。
ほのかに明るい。据え付けのランプはガラスにわずかに色味がかかり、部屋を橙色に染めている。
さほど広くもない部屋に所狭しとベッドが三つ置かれ、その一番端のベッドがこんもりと丸くなっていた。
「……穂月?」
声を掛けるも返答は無い。寛は近づき、被っている毛布に手を置いた。
震えている。眉をひそめ耳を近づけると、ぶつぶつとなにやら呟く声が聞こえた。
「穂月、おい」
再度声をかけ、揺すると、びくりと止まり、弱々しい声が漏れる。
「……ヒロ。あのさ」
言葉が見つからなかったのか、そこで言葉は途切れてしまった。
寛はベッドに腰を下ろし、言葉を待つもそれきりだ。捲るぞ、と一声掛け、毛布をずらすと、抵抗もなく、ただ疲れた様子の、ぼんやりとした表情の少女が現れる。
シーツに赤い染みがあった。
指を噛んでいたようだ、人差し指の付け根に深い傷が出来、血がいまなお出続けている。
それに今やっと気づいたかのように少女は目を移し、あ、と声を上げた。
「汚しちゃった」
寛は頭をガリガリ掻き、そうじゃないだろ、と言い、サイドテーブルに置いてあった手巾で指を巻く。
その最中につと、少女の手が寛の手を握った。その手にはかすかな震えがまだ残っている。ベッドの中から寛を見上げ、言った。
「……僕さ、駄目なんかも」
ひきつけのような笑いを上げ、握ったままの寛の手を自分の額に当てる。
「まだ壊れてないと思ってた。自分で思ってるだけで、でも……お医者さんから改めて聞かれてみるとめちゃくちゃで……どれが僕で、私で、わ、分からないんだ」
そう震え混じりの声で言い、途切れ途切れの息を吐いた。
「……そうか、難儀な事になったな」
「ふ……ふふ、ほんとにね」
自嘲を含んだ笑みを浮かべ、少女は仰向けになり、ゆっくり目を閉じる。寛の手を両手で包むと自分の胸元に抱き、言った。
「ねえ、試しにさ、ちょっと抱いてみる?」
「……おいおい」
寛は目を細める、またあの香りを感じていた。
少女は目を開き、どこか乾いた視線を向け、言う。
「いいよ。ほらオナホだとでも思って。僕が返せるのなんてこのくらいしかないし。あ、でもヒロは胸大きい方が良かったっけ? ちっさくてごめん」
「穂月」
「遠慮は要らないって、散々あいつらに突っ込まれたんだしさ。もう怖いものとか無いよ」
自嘲か、あるいは自傷か、本人でも分かっていないだろう。そんな言葉を吐く少女に寛は首を振り、この阿呆、と言って左手をやや迷わせ、少女の頭に置いた。二度、三度、不器用に、あやすように叩く。
触発されるように、少女の目が潤み大粒の涙がこぼれた。衝動に耐えかねたかのようにしゃくりあげる。
「……怖、いんだ。怖いんだ。怖いんだよ、ヒロ。どうしたら、どうすれば」
何が、とは分からないのだろう。整理さえも出来ていない、あるいは心の整理をつけようとした時点でこれなのかもしれない。
(頭が回る分、変に理屈に振り回されてんかもな)
そんな事を思い、寛は天井を仰ぎ見る。解決策はどこにも書いていなかった。
ありきたりではあったが、大泣きに泣いた事で少女は多少落ち着いたらしい。
落ち着くと同時に羞恥心も思い出したのか、横に転がり、寛に背を向けている。常になく紅潮している長い耳が顔色をうかがわせた。
余韻を引きずるかのように、ひっく、と時折肩を震わせる少女を見て、寛は気取られぬよう、静かにため息を吐く。甘い香りはいつしか霧散していた。
「なあ、穂月。俺は怖くないのか?」
そう聞くと、ややあって、うん、と答えが返る。
「ヒロは……怖くない。うん。それは間違いない」
もぞもぞと、決まり悪げな顔をしながら少女は寛に向き直った。目は未だ充血し、顔は別の意味でだろう、赤いままだ。
「きっとあれだよ。刷り込み。安全だって思っちゃったんだ」
「お前は鳥か?」
「パパと呼んでもいい?」
そんな冗談が出てきた事に寛は笑みを浮かべ、少女の頭を撫でた。
「なら口開けて待ってる雛に餌をやらんとな、食べられるか?」
「うん……ん、われながら現金だよね、おなか空いてる」
「分かった。ちょっと待ってな、貰ってくる」
そう言い、腰を上げ、部屋を出ようとする彼の背中に、ヒロ、と声が掛けられた。
「ありがと」
短い感謝の言葉。寛が振り向くと、照れくさかったのかまた毛布にくるまっている。
いつしか時間も経っていた。
双子の月は片割れのみならず姿を現し、夜を明るく染め上げる。
一階の酒場の喧噪が聞こえ、それに輪を掛け注文に応えてでもいるのか、店主のダミ声が響く。途中で芝居がかった悲鳴に変わったのは、卑猥な雑談にでも興じてしまったのかもしれない。
先行きは見えない。見えないながら、束の間の感情のままに、寛は微笑み、安堵の息を吐いた。