雪山3
この世界の『ひと』は、種類が多い。
地球ではどれだけ人種が違えど、その基本の姿は変わらないものだが、こちらでは違う。おとぎ話や神話に出てくる怪物、あるいはそれと人とのあいのこのような者も少なくない。
そんな事を思いながら、寛は目前の六人を無表情に眺めていた。
肩には頑丈そうな雪かき用のスコップを担いでいる。姿形もまばらな六人の目には雪下ろしにでも出てきたのかと思われているかもしれない。
「猟師かい? この時期に山に入るのは珍しいな」
先頭の男が、歯擦音の多い、聞き取りづらい言葉で声をかけてくる。
やや長身、とも言える寛よりさらに二回りも大きい。
人狼あるいは狼男、としか言いようがない。毛深く、いかにも強靱そうな体に狼の頭が乗っている。
寒さには強いのか、鋲の打ってある厚い皮の上下を着込んでいるのみで、手袋さえもしていない。
(人狼……ライカンスロープか)
ゲームなどでは有名な呼び名を思い出す。その言葉の響きにおかしみを感じ、寛は内心で笑みを浮かべた。
それに、と視線を移し、隣で不満気に口を歪めている小太りの男を見る。
下あごが大きく、伸びた牙が上を向いて突き出している。目は小さく、額も小さい。小太りではあるが、それは獰猛さを秘めている。やはり頭から首まで強い体毛で覆われ、それは見方によっては巨大な猿のようにも猪のようにも見えた。
そして、後ろに広がるように四人の姿、もしかするとそれも普通の『人間』とは違った姿形を持っているのかもしれないが、防寒着を厚く着た様子からは窺い知れない。
(狼に猪……なんともなあ)
以前見た覚えのある国民的ともいえる有名アニメがふと浮かび、いかんいかんと寛は頭を振った。
「……お、そう構えなさんな。ちょっと聞きたい事があるんだが。このくらいの──」
と言い、人狼は自らの腰あたりに手を下げる。
「女を見かけなかったかい? 真っ白い奴だ」
寛は一つ頷いた。
「見かけたも何も、拾って匿ってるが。あんた達は、彼女の何だ?」
「身内よ、あいつの保護者さ。拾ってくれてありがとうよ、連れていくぜ?」
どこかほっとした様子で、後ろの者に手振りで「行け」と示した。
「人攫いなんだってな」
その言葉で、行こうとした者の足が止まる。
人狼は目を細め、寛を見やり、やや腰を低くした。
「あいつは嘘を言うのが癖なんでね」
「とても嘘と思えない人相だ」
「言ってくれるな、これでも野性味があるってんで人気があるんだぜ」
じり、と人狼は大きな靴で雪を踏みしめ固める。
その狼面でも判る笑みを浮かべ、言った。
「まあなんだ。兄さんよ、誤解があるようだが。俺らとしちゃあ事を荒立てたくは無いんだ。すこうし目を瞑っててもらえりゃいい。もちろんお決まりの土産も渡すしな」
その言葉に嘘は感じられなかった。事を荒立てたくないというのは本音でもあるのだろう。ただ、言外にいつ事を荒立てても良いのだとも言っていた。
ヂッ、と擦音の混じった舌打ちが響く。
猪面の小太りの男が顔をしかめ、前に出る。よほど身が重いのか、雪地用らしい大きなブーツがずぶりと埋まる。その手には大振りの山刀が握られていた。
「あああ面倒臭ぇ。もういいじゃねえか、殺して埋めちまえば誰も判らねえよ!」
人狼は仕方ないとでも言いたげに首を振り、言った。
「……ったく、おしゃべりな子兎を呪ってくれや。ムクバザ、いいぜ」
とも言い切らぬうちに、猪面の男は雄叫びを上げて飛びだそうとし──
ごずん、という音に阻まれたたらを踏んだ。
しけた火薬が爆発したかのような大きく、重く、鈍い音だ。軽い揺れすらもあった。
間違っても、ただの鉄のスコップが雪に突き刺さった音ではない。
人狼も、猪男も、少し間を取り控える四人も一様に目を剥いた。
柄どころか、T字の持ち手部分も、それを持つ腕の半ばまでが雪に埋まっている。
表面は先日からの吹雪で新たに積もった柔らかい雪だ、それならコインを落としただけでも指半分ほどは埋まる事だろう。だが、雪自体の重みで潰され、圧雪となり、半ば氷のようにもなった下層の部分はどうだろうか。
「どうすると思う?」
音と衝撃、そして意外な行動に呑まれている六人を見やり、寛はむしろ優しげに笑った。
「こう──」
する、という言葉は聞こえなかっただろう。
鈍い音と共に土砂混じりの、とてつもない大量の雪がまき散らされた。
雪崩のようだった。
雪煙が舞う、と言ってもそれは度を超している。
力任せに積もった雪をかき上げるという、技術もへったくれもない行為だ。
そしてそれだけでは終わらない。
煙というには密度の高すぎる雪のカーテンを引き裂くように、ただの一足で人狼に迫る。
「ガアッ!」
人狼もまた並どころではない反応速度を以て迎え撃つ。
その闘争の本能ゆえか驚きよりも思考よりも、まずは脅威を倒さんと、その肉食獣の牙にも似た爪で首を狙う。
その爪を予測でもしていたのか、さらに姿勢を低くし、かいくぐる。
掌底。
突き上げた掌が男の急所を強打した。
電撃が走ったかのように丸まる体、その下がった首筋を片手で掴み、潰し、体重は己の倍にあろうかという体をそのまま肩にかつぎ、頭から落とす。
巻き上がった雪煙が収まり、視界が開けた時、寛は駄目押しと言わんばかりに頭から雪に突っ込んでいる人狼の胴を蹴り上げた。
二転、三転。空中で血しぶきをまき散らしながら転がり、仰向けに雪に埋もれる。
股間からにじみ出す血の色を見て、ようやく驚きから覚めた様子の男達が内股になり、何とも言えぬ渋い顔になった。
「あ……」
ムクバザと呼ばれた猪男はそれが信じられぬとでも言うように、眼を大きく開きおののく、憤りに目の色を変えた。
「あおおおおああッ!」
奇声を上げ、手に持った山刀すら投げ捨て突進。そのあまりに含みの無い単純な動きは、単純なだけに速い。
「おうっ」
と、どこか楽しげに一声を上げ、寛はその突貫を真っ向から受け止める。
見た目通りの力だ。まるで相撲でもとっているかのような競り合いになった。
片足のかんじきは最初の一撃でまたもや壊れてしまっている。足がずぶずぶと雪に沈みこむ。
「やれええッ!」
猪男が再び叫んだ。
寛の背後には抜き身の曲刀を構えた男の姿。
場数はくぐっているのだろう、相手が手強いと感じた時点で、連携を取り始める。
曲刀が振り下ろされる瞬間、競り合う寛の長身が消えた。
否、消えたように見えただろう。
突如の脱力にも似ていた。拘束を易々と切り、雪に埋まった足を軸に残し、もう片足で猪男を背面に蹴り上げる。
変則の巴投げとも言うべきか。
猪男は斬りつけようとした男を巻き込み、雪の斜面を転がり落ち、間髪を入れず、その延髄に足が叩き込まれる。
びくりびくりと何の反射か手足を震わせる猪男、巻き込まれもみくちゃになった男。それを見たフードを深く被った男は早々に逃げだしていた。
「ほー」
寛はのんきな声を一つ出すと、なにやら思いついた様子で足下の雪をすくい、ぎゅっぎゅと固める。作った雪玉をかなり大ざっぱなフォームで投げると、すでにかなり距離の開いた、逃げている男の足に命中した。
「雪遊びってのもこれはこれで」
雪遊びというレベルではなかった。
命中した雪玉は四散し、その威力で男は転倒している。
そしてよく狙った一投が頭を直撃し、昏倒させた。
よしっ、と寛はガッツポーズを取り──
突如その右腕そのものが発火したかのように炎上し、またたく間に焼け焦げる。
尋常の炎ではない。それはあまりに突発的に発し、急激に止まった。
寛は苦痛の色も表さず、胡乱げな視線で、自身の炭化した右腕を見、そして振り返る。
震える男が居た。
煤けた金髪に青い目をした男だ。防寒服の隙間から見える肌は日焼けの一つも無く、体格もどこか細く弱々しいものを感じる。
曲がりくねった装飾の多い短剣を向けていた。
寛は目を細め、無造作に飛びかかり、剣を叩き落とし、あろうことか、その焼け焦げたはずの右腕で首を掴み高々と持ち上げる。
男は信じられぬというように目を見開き、息が出来ないのか、苦悶の表情を浮かべた。
「……ッか! くかッ!」
「術者って奴か。見た事はあるが実際にやり合うのは初めてだな。いいとこの坊ちゃんが身を持ち崩しでもしたのか?」
「な……ん、でッ」
そんな言葉を吐き、男は気を失った。
雪の上に仰向けに放り捨てると、残った一人、髭面の男に向き直る。
「……降参だ。冗談じゃねえよ、何なんだ一体」
髭面の男はそう言い、気が抜けてしまったように、雪に膝をついた。
◇
姿形もまばらな男達が後ろ手に縛られ、転がされている。
縄に結び目は無い、手っ取り早く拘束するための早縄のようだ。
一本の縄で六人を縛り終えた寛は、おそるおそる顔を出していた少女を目の端で捉え、どうする? と短く聞いた。
「……ど、どうする……って」
穂月は男達を見、何を思いだしたか蒼白となり、胸を抑えている。
そんな姿を確認しつつ、なお寛は続けた。
「どういう復讐をしたい? お前はやられたのだからやり返して良いよ。自分の力じゃないとか、そういうのはいい」
日本語だ、男達には理解できない言葉だろう。
ただ、そこに含まれるひやりとしたものは感じ取ったのか、すでに目を覚ましていた金髪の男が少女に向かって言った。
「おい! こいつに縄を解かせろ! 今なら、今ならまだ許してやる!」
命令に慣れた口調だ。穂月はひ、と小さく呻いて息を呑む。
寛はうるさい、と一言。男の頭を踏みつけ、雪に埋める。なにやらもごもごと言っている男をそのままに、少女に向き直った。
「ここは現代社会じゃないしな。復讐は何にもならないとか言ってると、一生しこりになって残る。恨みは晴らせる時に晴らしておいた方が良い」
「……ひ、ヒロ」
白い少女は目を閉じ、開く。負傷で苦痛の呻きを上げる拘束された男達に視線を移し、迷うように足下を見る。
やがて言葉を詰まらせながら言い、返答を聞いた寛は安堵と同情の混ざった複雑な顔で頷いた。
六人の男達はそのまま縄を解かれ、重い足取りで離れて行った。
武器を返すどころか、怪我人のためにソリまで用意してやっている。
男達が木々の向こうに消えてゆくのを確認し、寛はやれやれと、寒そうにしている少女を抱え上げ、猟師小屋へと戻るのだった。
「さ、さ、寒い寒い寒い、うひぇぇ」
「そりゃお前、そんな着の身着のままじゃそうだろ……」
少女の着ている服は寛の換えの服だ。形からすればシャツの一種とも言えるだろう。体格差が大きいので、そんなシャツ一枚でも十分体を覆ってしまえるのだった。
怪我をしていた事情があるとはいえ、下に何も着ていない現状では裸ワイシャツなどという少々生暖かい言葉にも相応しただろう、幸いな事に二人の頭にはその単語が浮かんで来る事はなかったようだ。
ストーブに薪を足し、その前に椅子を置いて少女を座らせる。
大した時間ではないとはいえ、素足で外に居たのだ。
まだ治りきっていない片方は木切れと布でしっかり巻いてあり、靴のようでもあったから良いとして、もう片方は素足のままだ。案の定血が通わなくなっており、暖まるに従ってしきりにむずむずと指を動かし「かゆいかゆい」と言うのだった。
「ほれ、茶に見せかけた薬湯だ」
「見せかける意味……お、おお臭い」
「地元の猟師が飲むらしい、ここの鍵借りる時に聞いて来た。暖まるぞ」
そう言い、寛は自分でもそれを飲み、渋い顔をした。
「……暖まるぞ」
「美味しくないんだ」
「いいから飲むんだ暖まる」
「……うう」
しばらくし、センブリ茶みたいだったと言いつつ少女はカップを返し、目を丸くした。
「そうだ、ヒロ! 腕!」
「む?」
燃えてたろ! と焦る少女に、寛はひらひらと手を振り、問題無いと答える。焦げた袖の塵が床に落ちた。
「丈夫で気に入ってたんだけどな」
と、服を惜しむ寛に、少女は安堵か呆れか判らないため息を吐いた。次いでころっと表情を変え、不満気な顔になり。
「思い出した、チートって言うんだった。チートだろヒロ。なんだあの凄い戦闘能力、神様にでも会ってギフトでも貰ったのか、実は野菜人だったのか」
そう言い頬をふくれさせ、頬杖をついた。
寛は笑い、そんなめまぐるしく感情を変える少女の頭をぽんぽん叩き言った。
「見てたか。色々あって馬鹿力なんだよ、いいだろ? まあ、それより本当に連中を逃がして良かったのか?」
「ん、うん……」
少女は未だ迷いがあったのか、うつむいて言った。
「実際、凄い屈辱でさ、恨みが無いとは言えないし、殺してやりたいとか思わなかったってわけでもないんだけど……んー」
少女は首をひねり、どこか諦めを含んだ笑みを浮かべる。
「駄目だった。なんか目の前で苦しんでるの見ちゃうと、もういいやって思っちゃう。意志が弱いというかさ……あはは」
「……うむ。見た目は変わったが、その辺は穂月らしいな」
「ヒロはヒロで相変わらずおっさん臭いね」
「こっちには便利な消臭剤が無いからな」
そういう意味じゃあ、と少女は言いかけ、ふと首をかしげた。
「ねえヒロ、そういえば僕が居なくなってどのくらい経った?」
「いいところを突く、あっちの世界……って言い回しも面倒だな。日本だとお前の居なくなった日からちょうど二年が経ってた。俺がこっちに来てから一年くらいだ」
「二年……そっか、そんなもんなんだ」
「時間の進み方が同じとは限らないしな」
「……うん」
二十年、と少女はぽつりと言った。
「生まれて多分そのくらいかな。最初の十年の記憶はぼんやりしてるけど」
「……そいつはまた」
何とも反応に困るような寛に少女は笑った。
「ヒロも三歳年取ったのなら同い年だね」
「ん、む……うーん」
寛は顎を掻き、微妙そうな顔で少女を見た。少女は察し、ため息を吐いて言う。
「合法ロリになるとか自分でも思わなかったよ。といってもウィタの中だとまだ本当に子供なんだけどさ」
「……その見た目で合法ロリとか発言されるとどうも違和感で次元が歪んだような気がするんだが」
ふへへ、と少女は妙に楽しそうに笑い、片足をぱたぱたと動かした。
「当たり前だけど、こういうネタも村だと全く理解されなかったからなあ。いやーネタが通じるっていいね」
「まあ、確かに……というかそれを訳せる言葉があるのか?」
「んー、僕らの村だと代々からの言語と共通語が混じってたみたいだから、それはそれで他じゃ通じないんだろうけど、一応頑張れば訳す事はできるよ」
長文になっちゃってもはやネタじゃないけど、と肩をすくめる。
「ヒロこそ一年でよくそこまで話せるようになったね」
「おお、必要に駆られれば案外何とかなるもんだ。最初はどうしたものかと思ったけどな」
寛は言いながらふと思い出したように、やや褐色がかった紙を取り出し、携帯用のものらしいインク壺と筆でもってなにやらさらさらと書き始めた。
ややあって微妙な顔で首をひねり、まあいいかと頷く。折り鶴でも作るかのように折り、密教の真言めいた言葉をぶつぶつ呟いた。
印を切り、指を鳴らすと、何の前触れもなく、元からそうであったかのように紙は生きた燕へと姿を変える。
「対の燕の元に疾く帰らん」
掌に乗せた燕にそう囁くと、開け放った窓から燕は勢いよく飛んで行った。
「な……」
途中からぽかんと見ていた少女が、何か言おうとし、言葉を途切れさせる。思わず立ち上がろうとして治っていない足を踏ん張ってしまったのか、口をOの字に開けて硬直した。
「おうぅ……しび、いた……ぐはあ」
「お前なあ……」
「……い、言うな。なんか間抜けだってのは認めるから。ちょっとドジっ子属性が付いてるだけなんだからっ」
そう言い、顔を背けて黙り込んだ。寛はその目立つ耳の色を見て言う。
「恥ずかしいなら言わなきゃいいのに」
「……放っておいてくださいお願いします」
座りが悪そうにもじもじする少女の頭をあやすようにぽんぽん叩く。
「で、ドジっ子可愛いと評判の穂月は何を言いかけたんだ?」
「ぐう、ヒロがいじめる。というかなんで頭をそう何度も」
「普通なら肩を叩いて慰めるところだが、どうも手の位置が丁度良いんだ」
「成長の遅さが憎い……!」
少女はからかうように乗せられていた寛の手を邪魔だと言わんばかりに振り捨てる。そうじゃなくて、と開いた窓を指さし言った。
「あれ、何? 魔法? 召喚的な何か? サモナー? 使い魔?」
「式神だ。才能無くてあれが精々だけどな、連絡に重宝してる。ちょっと麓の町に連絡をな」
「……しき、って式神? 陰陽道? 安倍晴明? えええ……」
少女は予想外の答えだったのか、肩を落とし、半眼になって呻いた。
「なんか思ってたのとこう……世界観が違う。なんだろうこのクレープだと思ってたらタコスだったような感じ」
「と、言われてもなあ。まあ、わかりやすい魔法みたいなのだったらもう見ただろう?」
「……へ?」
不思議そうな顔になる少女に、おや、と首をかしげ、寛は袖が焼け落ちてむき出しの腕をひらひら振って見せた。
「え、あの燃えてたのって……」
「何だと思ってたんだ?」
「いや、なんか松明かなんかで火付けられたのかと」
何を思いだしたのか、少女の目が一瞬暗く染まる。頭を振り、暗い影を払うと、魔法? と聞いた。
寛はその様子を黙って見つつ、気づかぬ様子で答える。
「俺も詳しい事はよく知らんけどな。金を積んで時間をかければ大体の奴が何かの術には目覚めるらしい。金持ちとか権力者のステータスみたいなものなんだと」
「……ぐうせちがらい」
「まあ普通に暮らしてる分には縁も無いみたいだけどな、軍事パレードの時には色々工夫したものが見れて面白かったぞ」
少女は、ほふ、と息を吐き、頬杖をついた。
「僕の方が長く住んでるはずなのになあ……何も知らないや」
「そりゃ仕方ない。閉鎖された村だったんだろ」
「んー、完全に閉じられて自給自足ってわけでもなくてね、ピグマスっていう行商してる人達と物々交換で色々と手に入ったんだよ」
もうちょっと色んな話聞いておけば良かったと言い、少女はあまり意味もなくストーブの空気取り入れ口を開け、火掻き棒でもってえいえいと突き始める。
「そういえばさ、ここってどこなんだろう。どのくらい──離れちゃったのかな」
わずかに震えを感じさせる声だった。
寛は瞑目し、しばし考え口を開く。
「ここはディムリガって山だ。昔の言葉で竜の峰というのだとか。麓にはカネローニという町がある。ガエタナって国の中だ」
少女はしばし考え、挙げられた単語にはやはり覚えがないらしく、残念そうな面持ちで首を振った。
「全然知らない。フォエ・レカイヤ。赤い木の森って意味らしいんだけど……他のとこからはそう呼ばれてたみたい。それくらいしか判らないや」
あはは、と自棄気味に少女は笑った。笑いの最後にため息を滲ませ、寛を見上げて言う。
「ヒロ……あのさ、よかったら、よかったらでいいんだけど。その、故郷の方に……あの──っべむ!?」
おずおずと言いかけたその顔に掌が被さった。
「水臭い。しかし、本当に丁度いい位置に頭があるな」
「むごもご……」
指の間から覗く目が抗議する。次の瞬間、寛は何とも言えない顔になり、手を離した。半眼で少女を見やり、呆れを含ませて言う。
「お前なあ……」
「ふひひ」
してやったりと笑った少女はぺろりと唇を舐めた。
寛は苦笑いを浮かべ、手をぬぐう。鍋に残っている薬湯をカップに移し、傾けた。飲み下し、苦い顔をしながら窓の外を眺めて言った。
「……明日、下山しよう。お前の故郷を探すにしても、まずは医者。それに情報が無いとどうにもならないしな、良い場所がある」
「良い場所?」
「ああ、サヤドリの羽の祝福、六石のなんちゃらかんちゃら、とか長い名前のとこでな。んん、何と言えばいいか」
寛はしばらく考え、そうだ、と手を打ち、少女に向き直った。
「あれだ、ゲームで馴染みの冒険者ギルドとかそういう」
「本当!? 冒険者ギルドがあるの! うわー、うわー、なんだか一気にこうロマンが溢れてきたね!」
凄い食いつきだった。足が自由であれば飛び跳ねているのではないかと思わせるほどのはしゃぎようだ。長い耳が上機嫌そうにうさうさと揺れている。
よほどそういう要素に飢えていたのかもしれない。寛は頭を掻き、言う。
「期待させて悪いんだけどな、なんというか、あれだ。派遣会社と自治会がくっついて大きくなったようなもんだぞ」
「……ろ、ろまん……」
「仕事は紹介してくれるが力仕事の人夫が主だし、冒険というならたまに調査隊の人手を募集なんてのもあるらしいけどな」
「ぐう、ファンタジーっぽいのに。もう僕自身がファンタジーそのものって感じなのに、なんでこう……」
寛はうなだれた少女を若干気の毒そうに見、以前の友人の趣味を思い出す。いかにもファンタジーな異世界に転生、あるいは召喚されて冒険を繰り広げる話などは大好きなようだった。あり得ないはずのそんな境遇、物語の中に置かれたような状況だったというのに、長い田舎暮らしだ。
(それは溜まるだろうなあ、もっとも──)
最近起こった事からの逃避という部分もあるのかもしれない。
そんな思考を軽く頭を振って追い払った。
「まあ、金はかかるが情報も買える。何より地図を持ってるからな、案外あっさりと見つかるかもしれない」
「……うん」
頷いた少女は、ふとお金というものの概念を思い出したのか、急にわたわたと慌てだした。
「え、えっと、お金って結構かかる? かかっちゃったりする?」
「……どのくらいっかっていうと判らんが、例えばこの山の情報と地図だったら1リュー……飯代二ヶ月分くらいだったか」
「うう、流通してる貨幣も知らないとか……でもそのくらいなら働いて何とか……」
「余計な気ぃ回すなよ。これでも結構腕っ節で稼いでるからな、余裕はある。何とでもなるさ」
そう言い、寛は少女の頭を再びわしわしと撫でた。少女は抵抗せず、腕を組む。何とも言い難いような複雑な顔をした。
「なんてイケメン台詞、うらやまねたましい。僕も一度は言ってみたかった」
そこかよ、と寛は肩を落とし笑みを浮かべた。一陣の冷たい風が入り、少女が寒そうに身を震わせるのを見て、木戸を閉めた。
◇
食用にも使える油を使っているのかもしれない。
室内を照らす真鍮のランプ、そのゆらゆらと揺らめく火からは妙に食欲をそそる香りが漂う。
その灯りの下で、少女は大きな布を相手に黙々と針を入れる。一針縫っては戻り、一針縫っては戻る。出来るだけ丈夫にしたいのだという。その手の運びは速く、それでいて正確だ。
「さすがに慣れてるって言うだけあるな」
「雪に閉ざされてる時期はこればっかやってるからね、刺繍も相当上手くなったよ」
「どこに嫁に出しても恥ずかしくないようだ、俺は嬉しいぞ」
「ヒロが言うとネタを通り越して嫌みかな、手を滑らして刺していい?」
言いつつ、縫い終えたのか、縛った糸の先を歯で噛みきった。
布地をひっくり返してみれば大きな袋状だ、口部分にはロープを通し、縛れるようになっている。
寛は受け取り、強度を確かめるためか、軽く引っ張り、上出来上出来、と少女を褒めた。
「で、結局何に使うの?」
「明日はちょっと荷物が増えるからな」
不思議そうに首を傾げる少女に、寛は曖昧な笑みを返し、早めに寝た方が良いだろうと、自身も床の上に敷いた毛皮の上に横になった、銀の水筒を持ち出し、口をつけてぐびりと喉を鳴らせて飲む。
少女はぼんやりとその様子を眺め、ねえと声を掛けた。
「気になってたんだけど、それお酒?」
「おう、マルム酒って言うらしい。ブランデーに近い味だが、酸味がある」
「ひとくち……」
「おい怪我人」
少女はわかりやすく唇を突き出し、ぶーと言った。
「もう足も治ったよ」
と、これ見よがしに固めてあった方の足を上げて見せる。
「……仕方ない、強い酒だからな、舐めるだけだぞ?」
「うい」
渡された水筒の口を開け、香りを嗅ぐ。林檎? レモン? と呟き不思議そうに一口を口に含み、目を大きく見開いた。
「むむぐぐむぐ!」
「あー、おい、無理すんな」
寛がカップを少女の口にあてがうと、おえ、と酒精を戻してしまった。
「げほ、けは、ひはぁ、何その毒!?」
「毒っておい……もったいないな」
寛はつぶやき、渋々といった様子でカップの中身を捨てに行く。代わりにと飲用の水を入れ、少女に渡した。あっという間にそれを空にし、ほっと一息をついて言う。
「く、口の中が焼ける、強いっても限度が」
「この味が分からんとは可哀想に……ぬ? お子ちゃま舌ってわけでなく、本当に子供だったか?」
「二十は超えたんだから法律には反してないよ」
日本の法律を持ち出し、そう主張する少女。ただ、口に入れただけでも酒精が体を回ったか、ほのかに顔を赤くしている。
寛は訝しげに聞いた。
「これまで酒飲んだ事は?」
「……えーと」
「無いんだな?」
「にゃー」
「唐突に猫の真似をしてもなあ」
好奇心が抑えられかった。と言って少女は身を横たえ、掛け布代わりの毛皮にくるまった。
「普通に飲めばこんな感じで酔うんだ。なんかこう、ぼうっとしてきて、暖かくっていい感じ……かも?」
「ああ……まあ丁度ほろ酔いになったんなら良いのか……」
「うん、よかれよかれ」
そんな適当な返事に寛は頬を一つ掻く、ストーブの灰を出し、大きな薪をくべると、消すぞ、と声を掛け、ランプの炎を吹き消した。
風が強かった。
吹きすさぶ風で屋根の雪が落ち、戸が軋む。揺れているようにも感じるほどだった。
丸太組みの小屋は、すきま風と呼べるほどのものは無いものの、さほど高い気密性も無い。ストーブの火は消えていないが、それでもなお室内の気温は下がっているようだった。
「……ねえ、ヒロ。さ、寒くないかな」
歯の根が合っていないような震え声だ。まだ寝ていなかったのか、答えはすぐにあった。
「そこまでかな、まあ、もう少し火を強めておくか」
寛はのっそりと立ち上がると簡易ベッドの近くにあるストーブを開け、長持ちしそうな薪を選び、二本、三本と追加する。しばらく様子を見、火が移るのを待って、火加減の調節のためか、ごとごとと並びを変える。
これでいいだろう、と何気なく振り向くと、毛皮の下から顔を覗かせる少女と目が合った。
泣きはらした目だ、小刻みに震え、ひどく怯えている。
「お、おい穂月?」
どうしたら良いものかと迷い中途半端に伸ばした手に、少女の小さな白い手が触れた。
「ご、ごめ。ごめん。判ってるんだ、ただ。音と寒さで……思い出しちゃって。情けな……どうしよう」
「……そりゃ、どうしたもんだろうな」
根深い問題なのだろう。きっとこの先何年も、下手をすれば何十年も引きずる事になるのだろう。
寛は内心でため息を吐いた。殴って解決する問題なら何とかなるが、この手の繊細な事柄はとても得意とは言えない。
とりあえず、と被った毛皮の上から手を添えた。
びくり、と驚くように震える少女。安心させるように、親が子によくするように──ゆっくり、ぽん、ぽんと叩く。
やがて多少は効果があったものか、呼吸が落ち着き、毛皮の上からでも感じ取れた強ばりも無くなった。
静かな寝息を立てはじめた少女からは、人のものとは明かに違う、どこか果実にも似た甘い香りがする。
それをなるべく意識しないようにし、頭を振りながら寛はぼやいた。
「……ウィタって種族についても調べた方が良いなこりゃ」
情欲をかきたてる、と言えば良いのだろう。少女の姿は毛皮に埋もれて顔しか見えない、幼いとすら言える姿のはずのそれが妙に艶やかに見える。白くふわりとした髪すらもどこかなまめかしく見えてしまうのだった。
寛は束の間わいた妙に浮き立った気分を強い酒で飲み流し、長い息を吐く。薪を足したせいだろうか、彼には少々屋内が熱く感じられた。