雪山2
せせらぎ、というには少し強すぎる音だろう。
北の山でも雪解けが始まったらしい。川の水はいつもより冷たく、野菜を洗う手もすぐにかじかんでしまいそうだ。
冬の終わり。
雪が溶け、ぬかるんだ地面が乾く間もなく力強い草があっという間に地面を覆っていく。
冬の眠りから覚めた動物たち、蛙や山椒魚によく似た生き物、陸を転がるマリモのような虫。
きっと細かい名前もどこかで誰かが付けているに違いないのに、母に言わせると四つ足以上で川にいればエラーラ、四つ足以上で陸に居ればウラーラ。食べられるものには細かく名前があるのに、それ以外はそんなものだ。
野菜を洗い、水をくみ終えれば、料理は母に任せ、若い子で集まり洗濯、それに痛んだ服の繕いものだ。冬の間に完璧に直しても、活発な子たちは春がくればすぐに傷だらけにしてしまう。
同じ年の同じ時期に生まれた幼なじみのエネが鼻歌を歌い、いかにも機嫌の良さそうな様子で隣に来た。
狭い村の事だ。一つの家族のようなもので、彼女が上機嫌な理由もすぐにわかった。
「ヨナからもらったの?」
「わかる?」
エネの髪はウィタ族特有の白、そこににわずかな金色が混じっている。太陽を浴びるときらきら宝石のようで、とても綺麗だ。
それを彩るように、赤い花が飾られている。この付近では見ない花だ。
「北の山の岸壁に登って取ってきてくれたんだって」
「おーおー幸せ者ー。にくいねー、ばっちり似合ってるよ」
彼女には最近、季節のみではない春も来ていた。
まだ子供といっても良い年齢だ。何かのお遊びのようなものだろう。
そう思いつつも、幸せであるならそれで良いかとも思う。
楽しげな幼なじみの横顔を見ていればそれだけでも暖かい気持ちになる。
空を見上げれば、雲の動きがはやい。この先雨でも降るかもしれない。
洗濯をする手を急がせる。
情報が溢れるとさえ言われるあの社会の記憶がある身としては、あまりに純朴で、牧歌的に過ぎる今の生活。
退屈しない日は無いといってもいいくらいで、もう少しくらいは刺激がほしくもある。
村を囲む赤い木の梢、小鳥が求愛のためか、その小さな体から出たとは思えないほど大きな声で歌い、同じタイミングで負けず劣らず大きな声、母親の食事を告げる声が聞こえた。
台無しにされた小鳥は首をせわしくひねり、飛び立つ。
エネと目を合わせ、どちらからともなく吹き出した。
暗転する。
その暗闇に戸惑う間もなく、ごつごつの、岩のようなふしくれだった手が見え、息を飲んだ。
脂の焼ける臭い、焦げる臭い、衝撃、衝撃、衝撃。
自身の絶叫がまるで他人事のように頭の中でわんわんとうるさい。
鉄さびの味、使われすぎた喉は息を吐くたびに血を戻す。
何も考えたくなかった。思いたくなかった。見たくなかった。
歌えと言われれば歌う、叫べと言われれば叫ぶ、親を呪う言葉を吐けと言われれば吐き、もっと苦しめてくださいとも言い、教えられた言葉をただうわごとのように言い続けた。
時間が流れているのか、止まっているのか。事が終わった後は、また明日のために水で洗われ、ぬぐわれる。
出された食事を言われるがままに食べ、服を着せられ、枷をはめられる。
洗い残しが流れ、呆けていると、体の冷えと同時に正気もまたゆっくり戻ってきてしまい、どうしようもなく──
◇
「……はっ……う……あ、あああっ」
苦しげな少女の声で男は目を覚ました。
様子を見れば、息を荒げ、蒼白の顔に汗をびっしりとかいている。
治ったばかりの腕で自らの体を抱き、身をよじり、呻いていた。
男は長身をかがめ、のぞき込む。やがて渋面を作り、どうしたものか迷うように額に手を当てた。
発熱や痛みにうなされているわけではなさそうなのだ。
「こういうのはそれこそ若狭の婆さんに投げたいとこなんだが」
弱ったようにそうつぶやき、息を吐くと、少女の肩に手をかけ、ゆすり、呼びかけた。
「穂月、おい……おい!」
元より眠りは浅かったのか、びくりと大きく体を震わせ、目を見開く。
男の姿を見ると、一瞬体を硬直させ、一度二度大きく目をまたたくと、安心したように大きく息を吐き、体の力が抜ける。
喉が渇ききってしまっているのか、何か喋ろうと口を動かし、けへ、と妙な咳をした。
「……ヒロ」
かすれた、弱々しい声が出る。
男は、ちょっと待て、と言い、一度煮沸させた水を鍋から直接カップですくい、のろのろと身を起こした少女に渡した。
はじめは噛むように、そしてやっと乾きに気づいたかのように一息で飲み干す。
「……っはあ」
少女は大きく息をつき、目を閉じ、息を整えるように深呼吸を繰り返した。
呼吸が落ち着いた頃合いを見計らい、男は布で少女の額の汗をぬぐいながら声をかける。
「落ち着いたか?」
「うん。ごめん……起こしちゃった? 今は……」
と、採光のために設けられた高い位置の窓を見やった。
ぼんやりとした光が梁を照らし、無造作にかけられたロープや干されている肉が橙色に淡く照らされている。
朝焼けの、暖かいがどこか清爽としている光をただぼんやりと見、少女は朝か、とつぶやいた。
ややあって、二人は少々早めの朝食を取った。
男が持ち込んだものに加え、小屋に備蓄されていた食糧もある。とはいえ、それを調理する男はあまりこの手の事が得意ではないらしい、雑穀と鳥の干し肉を煮込み、塩で味を付けただけの、ひどく簡素な雑炊だった。
それでも少女は空腹をスパイスにしてか、相当な勢いで平らげてゆく。
食後にはやはり痛み止めも兼ねた薬湯を飲ませ、その甘さになんともまったりしている様子の白い少女、その姿を頬杖をついて眺めつつ男は口を開いた。
「痛みやしびれは大丈夫か?」
「ん? ん、うーん?」
体の具合を確認するように、少女は手を曲げ、伸ばし、体をひねり、一つうなずいた。
「左足以外は大丈夫、治ってきたみたい」
「あっちの医者が聞いたら、卒倒しそうな話だな」
男が少女の応急処置を始め、四日しか経っていない。一昨日までは熱を出して一日中寝込んでいた。通常の骨折なら骨の癒合まで、最も治りの早い指の骨でも最短で二週間といったところだというのにだ。
少女はあれだけうなされていたのが嘘のような明るい顔であはは、と笑い、言った。
「いやー僕達の一族ってウィタって言うんだけど、馬鹿みたいに生命力強いからさ、ちゃんと食べて寝てればこんなもんだよ」
「うむ……」
男は言葉を切り、少々残念そうに続ける。
「せっかく作ったのにアレも一度使ったきりだったなあ」
アレが何の事を指すのが理解したのか、少女は思い出し、一瞬で頬を赤くしうつむいた。
「恥ずかしかった、あれは恥ずかしかった。ほんともう勘弁」
「なに、いずれ爺さん婆さんになれば世話になるもんだ。今のうちに体験できて良かっただろ」
「う……むー、うー」
納得いかない、といった感じの少女の頭に手を置き、男はぽんぽんとなだめるように叩いた。
次いで一拍間を置き、それで、と続ける。
「それでどうしてこんな事になったんだ?」
少女は目をつぶり、しばらくして口を開いた。
「それが……村から離れた時に変な連中に捕まっちゃってさ。狩猟感覚だったのかな。友達逃がすつもりで自分も捕まっちゃうし、友達も逃げ切れなかったし、んー、良いところなかったなあ」
はは、と自嘲の笑みを浮かべた。
「そんで、後はお決まりパターン。どこからか連れてこられた子達と一緒にドナドナドーナーって市場にさ」
「穂月」
男が呼びかけるも、少女は止まらなかった。はき出さずにはいられなかったのかもしれない。上ずった声で続ける。
「そ、それで、ほら。僕ってばやっぱ男だった意識が結構あったのか、痩せっぽっちだったからか、こう、売れ残っちゃっててさ、後は、後は……なんか一冬越すような事言ってて、僕も連れていかれて……回復力も知られてたみたいで、その、なんだ、色々と……色々と」
「穂月、もういい」
フラッシュバックを起こしているのか、話しているうちに少女の目は視点が定まらないように落ち着きを無くし、呼吸が速くなる、胸に手を当て何度もつばを飲み込んだ。言葉にならない言葉を出し、息を荒げる。
男はこれはまずいと思ったのか、一瞬ためらったのち、不器用そうに少女の背中に手を置き、さすった。
「大丈夫だ、落ち着け穂月。もう居ない、それは終わったんだ」
「うん……ごめん。ごめんなさい」
少女はうつむいて、震えながらむやみにごめんなさいとつぶやく。
やがて落ち着きを取り戻してきたと見て、男は手を離した。
「あ」
「ん?」
「いや、なんでもない、ダイジョブ」
少女は妙に片言混じりの言葉を返す。
男は少し疑問を浮かべたものの、気を取り直すように、茶を淹れてやろうか、と言う。
「茶、ってあのお茶?」
「あの茶かは判らないが、普通の緑茶だぜ」
「あったの!?」
おう、と男は短く答え、荷物の奥から巾着袋のようなものを探し出し、ストーブの上の鍋の湯を見て少し考えると、まあいいかと言った様子で豪快に茶葉を入れ、鍋を揺らす。茶葉が開き、色が出てきたところで、布きれを茶漉し代わりに使ってカップに入れた。
「ほれ、乱暴な淹れ方だけどな」
「お、おおお」
受け取った少女は久しぶりに見たその色合いと香りに興奮し、おそるおそると口をつけた。
「……ほ、おお」
「どうよ?」
「苦い、懐かしい」
そう言いながらも飲み干し、大きく息を吐いた。
「お茶だなあ……こっちの世界にもあったんだ」
「結構同じ草とか、似たような木とかあるみたいでな、茶の木もやっぱあるんだろう、西方域のロンガって国が茶の名産で有名らしい。まあ、この辺じゃあまり飲まれないらしいけどな」
かさばるもんでもないし、持ってきていた。と続け、男もずずと音を立てて飲む。微妙な顔をした。
すごいなあ、と少女は力の抜けた笑みを浮かべ、ベッドに仰向けに寝転がり、意味もなく手を伸ばす。やがて、ぼんやりとした調子で言った。
「うん……壊れる寸前だったのかもしれない」
言葉が途切れる。
話の続きなのだろうと、男は無言でカップを傾け、続く言葉を待つ。
「……死んでもいいからそこから逃げたくて。酒で潰れてる隙見て逃げたんだけど、すぐに見つかっちゃって。あいつらもゲーム感覚で追い回してきてさ、結局崖っぷちに追い詰められて、もういいかなー、って」
「自分から飛び降りたのか?」
少女は寝転んだまま、こくりとうなずいた。
「あとはあまり覚えてないかな、フラフラしてたような気もするし、気づいたらここに居た」
はーあ、と声を出して嘆息する。
「結構頑張ったんだけどなあ、耐えきれなかったよ」
伸ばしたままの手を確認するように、親指から順繰りに一本一本曲げた。
「……ほら、僕って気づいたらこんな体になってたからさ。もしかしたら僕じゃない本当の体の持ち主が居たかもしれないし、お父さんもお母さんも、こんな変なのをしっかり育ててくれたしさ」
少女はそう言うと、手を落とし、まぶたを閉じた。
「一冬を乗り切れば、売られちゃうにせよ生き延びられる。命だけは諦めないつもり、だったんだけどなあ」
駄目だったなー、とどこから疲れたような笑みを浮かべた。
男は静かに椅子を立ち、少女の寝ているベッドに腰を下ろす。ストーブのゆらめく火を見つつ、冷めてしまった茶を一つすすって言った。
「ああ。よく耐えたよ」
少女は目を開き、男の後ろ姿を見上げる。
男は素知らぬ体でゆっくり続けた。
「穂月がそこまで堪えて、逃げてくれたおかげで、こうして再会できた。よくやった」
少女は両腕で顔を隠す。かすかに震えた声が漏れた。
「ばか、また泣かす気か、くそぅ」
そう言った少女の頬にはすでに大粒の涙があった。
どこかぬるく、少々気まずいような空気を入れ換えるかのように、窓の戸板を外す。
ガラス戸はついていない。出回っていないわけではないが、用いられるのはもっぱら街中での建物くらいだ。採光用にはめこんであるガラスがあるだけでも、こんな猟師小屋にしてはむしろ洒落っ気のある方だっただろう。
日の位置は低い、先日からの風や雪は止んだが、空はやはり雲がかかり、いつ急変してもおかしくはなさそうだ。
また一段積もった雪に早くもキツネか何かの足跡が見える。部屋の暖かい空気と入れ換えに、新鮮な、身も引き締まるような冷気が入った。
「迷う天気だな、もう少し晴れてくれれば下山するんだが」
男がそう言い、目を細める。無理を押せば今日中にふもとの町に着くことはできるだろう。ただ、いくら表向き治ったように見えても、それが本当に治っているのか、男からは判断しようもない。
幸い食料は余裕があり、これだけ雪があれば水にも不足しない。暖を取る薪の備蓄も十分だ。
しばし考えをまとめ、男は少女に向き直った。
少女もまた外の雪景色を見て、何か感慨深いものでもあるのか、わずかに唇をほころばせている。
白い髪の間から伸びた長い耳が立ち、まるで雪兎のような、とも男はふと思う。
その兎を彷彿とさせる紅い目が大きく見開かれ、恐怖の色に染まった。
「……ひ、ヒロ」
「ああ」
少女の目に映ったものを、男もまた視認していた。
猟師小屋の建てられた緩やかな斜面からは登坂する道が二つある。そのうちの一つ、木々の中から人影が一つ、また一つと姿を現し、近づいて来るのだった。
◇
寛という名前は割と平凡な名前と言えるだろう。
ウ冠の下の文字は丸く太った山羊を表し、ウ冠は屋内を表すという。転じて余裕のある様なのだとか。
その珍しくもない名前の上に多田というまた珍しくもない苗字が乗っている。
そしてそんな平凡な名前である当人は、皮肉だろうか、至ってただごとではない事に遭遇する事が多かった。
「あー、こりゃあ。荒事になりそうだな」
つぶやき、柱に掛けた毛皮の防寒着を取ろうと立ち上がろうとして、手にかかる震えに気が付いた。
寛の体から出る震えではない。
少女の──穂月の手が震えている。震えながら腕を掴んでいる。
「……だめ、ヒロ。け、喧嘩じゃすまない。殺されちゃう。あ、あいつら、前も……前も……!」
穂月は唇を噛み、二度息を吐き、こみあげる何かを抑える様子で言う。
「ぼ、ぼくが行けば大丈夫、う、うん。平気だから。ヒロは──」
「セクハラ」
唐突に、そんな言葉とともに、寛は少女の胸を揉んだ。
涙を浮かべて必死な様子で話していた少女はあまりにあんまりな予想外の行為に混乱きわまったのか、金魚のように口をぱくぱくとさせている。言葉もないとはこのことだろうか。
「お、おま、おま……ちょっと、ヒロ。そういう事やってる場合じゃ、あれ? ねえ空気読んで。いや空気読めてないの僕、え、ええ?」
「細身にしてはなかなかだが、十年早い」
笑いかけ、胸から離した手で今度は穂月の頭を柔らかく叩く。
「まあ、大丈夫だよ。手強そうなのは居なさそうだしな、ただ、念のため窓は閉めておくか」
「ヒロ?」
何とでもなる、と言い残し、寛は防寒着を着て外へ出て行った。
薄暗い屋内でストーブの中の薪がぱちりとはねる。
少女はヒロ、ともう一度つぶやく。震えはいつの間にか止まっていた。