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ロルフ  作者: 雨草ユキメ
3/7

弐 奔走

 かしゃん、カップの割れる空しい音が響いた。


「……うそ、だろ………?」

「…いいえ。戦乱関係にあったコーズ帝国攻めの最中、敵国の刺客により……毒殺、されました」


 淡々と、感情をおしこめた声で報告するヴィリーの言葉を耳は素直に取り入れる。だが、それを処理するはずの脳はいつまで経ってもその事実を受け入れようとしなかった。

 嘘だ。もう一度呟いてラインハルトは膝を折る。


 勝てる戦争だった。

 兵の数、指揮官の優秀さ、兵糧の備蓄、魔石の潤沢さ。どこをとっても負けるはずのない戦争だった。

 なのに、なのに……っ。




 ――――――『レイン、お前は勇者によく似ている』




 勇者に似ていると言われることは嫌いだった。だが、自分の頭を撫でる大きくて分厚い、力強い手がラインハルトは大好きだった。




 ――――――『だからどうか、兄たちを助けてやっておくれ。この国を、守ってくれ』




 聞くだけで安心できる心地よいテノールも、今までの苦労を感じる白混じりの金の髪も、何もかもが、大好きだった。

 なのに。なのに、もうそのどれもを感じることができないというのか。


「すぐに帰ると…ッ…俺の誕生日には帰ると言ったじゃないか! 父上……っ!」

「……現在もコーズ帝国との戦争は継続中。指揮は同行していたノルベルト殿下が執っています。葬儀は、帰還後かと」



 ラインハルトが生を受けて十三年になるという年の夏、偉大なる父王バルド・フォン・グランツはこの世を去った。





      * * * *





 何かがおかしいと気が付いたのは、父の訃報からふた月経った頃のことだった。


「…ヴィリー、ノルベルト兄上はまだお会いできないのか」


 父バルドに代わり兵の指揮を執ったノルベルトはその死に動揺することなく、むしろそれを糧に業火のような激しさで見事勝利をおさめた。そして、当初の予定より早く帰還したのだ。

 いつでも何を考えているのかわかり辛かった兄の功績に当時は家族全員喜んだものだ。

 ……だが、城に戻り父バルドの葬儀も終わって数週間。戦場で重傷を負ったというノルベルトは誰にも面会していない。その他にも、今王宮では様々な異変が起こっている。

 戴冠して以降床に伏せている長兄を思い出しラインハルトは目を伏せた。


「はい。ノルベルト殿下は負われた傷が癒えるまで、誰にもお会いする気はないと」

「……それは、誰から聞いたんだ?」


 ああ、嫌な予感がする。ラインハルトは痛む胸を服の上から鷲掴む。

 初めて「あの男」に出会った時と同じ、大切な幸せが崩れてしまうような……そんな予感がしてたまらない。



「ラッヘ宰相様ですが」



 どうかなさいました。心配そうなヴィリーの声もどこか遠い。「はは、」こぼれた笑い声は酷く渇いていた。


 嫌な予感ほどよく当たる、なんて。ああ、くそったれ。


「ヴィリー、こっちにこい」

「……? はい」


 座っていた天蓋付きのベッドから立ち上がり、離れた場所で立っていたヴィリーを手招きする。成長ごとに勇者に似ていくラインハルトの顔は、軽薄な笑みを湛えていた。


(俺のささやかな願いなんて、神様とやらは叶えてくれるはずもなかったんだ)


 目の前に立ったヴィリーに何も言わず、ぼんやりといつまで経っても縮まらない高さにある顔を見上げる。


(世界は、こんななにも残酷だ。残酷なんだよ、イグナーツ兄上)



 俺は、世界に愛されてなんかいやしない!



「今日ここで、お前を俺の護衛から外す」

「はっ………!?」


 王宮騎士団員全員に配布される正装の左胸には、その人間が所属する師団を表す紋章が縫い付けられている。

 ヴィリーが属する、王族の守護を役目とする第二師団は気高く吠える獅子の紋章。


「これからは王宮騎士団の一騎士として、この国を守ることに励め」


 ヴィリーの誇りとも呼べるそれを力任せに引きちぎり、ラインハルトとは比べ物にならないほどがっしりとした体躯を押した。突然のことに動揺しているその体は少しずつ、だが確かによろめきながら唯一の出入り口に向かっていく。

 ぐいぐいと、ヴィリーが冷静さを取り戻す前にと押し出した。


「待ってください、どうしてですか、なぜ! なんで……っ! ラインハルト様っ!!!」


 閉じかけた扉の隙間に手を入れ抗うヴィリーと、その手を外そうともがきながらドアに全体重をかけるラインハルト。

 ずっと昔、輝夜の記憶を思い出すよりも前。ヴィリーに叱られて拗ねたラインハルトは同じことをした。だが、今は違う。これは、喧嘩ではないのだ。


(これがただの喧嘩だったなら、どんなによかったか…っ!)


「お前はもういらないんだっ、だから、第二師団からも移動させる、次の配属先は好きに選べ。ただ、第二師団に戻ることは許さない」

「嫌だっ、俺は、貴方のっ―――――――」


「最後の命令だ、従えっヴィリー・ファブレ!!」


 扉を開こうとしていたヴィリーの手が緩む。ラインハルトはその隙を見逃さず力を込めて、今はもう綺麗だと思う余裕もない扉を閉めた。

 ――――かつん、かつん…。しばらくの静寂のあと騎士特注の硬い、鉄でできた靴が大理石の廊下を歩いていく音がした。遠くなっていくその音を聞きながら、扉に縋り付くように座り込む。


「……く、ふぅ…は…っ…」




 ――――――『初めまして、今日からラインハルト様の護衛を仰せつかりました。ヴィリーと申します』


 初めて出会ったのは、5歳の時。

 すでに勇者の再来だと騒がれていたラインハルトを見て、ただの「ラインハルト」を見てくれたのは家族を除けばヴィリーだけだった。


 ――――――『ラインハルト様をお守りするのが、俺の仕事ですから』


 兄でも父でもない。だけどいつでも傍に、隣に居てくれた。

俺のわがままをいつだって受け入れてくれて、時には厳しく叱ってくれた。

 「輝夜」を思い出した後も、ヴィリーはラインハルトにとって兄のような、大切な存在だったのだ。



「っひ、ごめ、んっ……ごめんなさ…!」


 ――――ヴィリーは、(わたし)の、大切な友人だった。


「さよなら…っ…ヴィリー……!」





      * * * *





「いいですか、母上」

「……ええ、大丈夫よ」


 時刻は深夜の三時ごろ。明かりも満足にない城の裏門の前にラインハルトはいた。


 夫を喪ってからというもの、ルチアは見るからにその姿をやつれさせていった。

 宝石のようだと言われていたプラチナブロンドの髪はくすみ、陶器のように滑らかだった白い肌は青白く荒れている。

 はつらつと美しかった母の姿を思い出し、ラインハルトは悲しげに眉をひそめた。


 父バルドが亡くなって早半年。この国は大きく、悪い方向に変わってしまっていた。


 第一王子イグナーツは戴冠して間もなく原因不明の病に侵され、五日前に苦しみ悶えながら息を引き取った。第三王子ノルベルトは未だ療養中で、その姿を見たものはいない。

 第四王子ジクムントは他国とつながっていたと冤罪をかけられ、二か月前に投獄されてしまった。


 この国はおかしくなってしまった。それもこれも、あの男ケーニッヒ・ラッヘのせいだ。

 あの男が裏で糸を引いている。ラインハルトはそう確信していた。


「ああ……今日は、貴方が生まれた日なのに…どうして、どうしてこんなことに……」

「いいんですよ、母上。母上が健やかにいてくれることが、俺にとって一番の贈り物です」


 イグナーツが病に伏せてから政治の実権を握ったのは第二王子であるオドだった。

 オド兄上ならきっとこの国を治めてくれる。ラインハルトはそう信じていた。―――兄の隣りにあの男の姿を見るまでは。



 ――――――『ジクムント、お前を謀反の罪で投獄する』



 思い出すだけで心が悲鳴を上げるようだ。きりきりと痛む胸を拳で押さえる。


「さぁ、母上。もう出発の時間です」


 父バルドと長兄イグナーツを殺したのはあの男だ。そして次兄オドを誑かし、他の兄たち……王位継承者たちを陥れていった。


「ラインハルト、貴方はどうするの……?」


 ヴィリーを遠ざけてから四か月。ラインハルトはとにかく王宮中を駆け回り、様々な場所に文を出した。


 適齢期に入ったマヤを始め、まだ嫁ぐには早いシェリが不自由せず、大事にしてもらえるだろう国内の貴族、同盟国の王族をあたり、どうにか送り出したのが三か月前。

 側妃たちの実家に理由を付けて迎えに来てもらったが一か月前。ジュリアは体調を崩していたし、サラは息子であるジクムントが投獄されてしまったため理由づけに困ることは無かった。


 そして、今日。正妃であるルチアの実家にはありのままの事実を話し、何度も相談した結果迎えの馬車を用意してもらえた。


 残るは、ラインハルトただ一人。


「俺も必ず、母上を追いますよ」


 正妃の子であり、勇者の再来と言われているラインハルトを担ぎ上げようという動きはすでにある。

 いまのおかしくなってしまったオドにとって、あの男にとって、ラインハルトは何よりの邪魔者なのだ。

 ……きっと、殺される。


「愛しています、母上。どうか、俺が母上を迎えに行くまで健やかで」


 不安気な母の頬を包み込み、丸い額に唇を落とした。


「行ってくれ」

「……はい。ルチア様は申し訳ないのですが、荷台へ……」

「…ええ」


 城下町の女性たちが着るような、おしゃれだが質素な洋服を身にまとったルチアを荷馬車の荷台に乗せる。

 こんな時間に正妃が出ていく姿を、城下のものに見られないよう念には念を入れた策だ。


 母ルチアの実家であるパーチェ王国の騎士に荷物を渡し、ラインハルトは荷馬車から距離を取る。


 パーチェ王国はグランツ王国に属する小国だ。事情を話しはしたが出来ることは娘の保護だけだと、書面で謝罪された。

 祖父である国王は母ルチアに似て律儀な人であるらしい。


「ラインハルト、どうか、どうか無事で…っ」


 城を出てその姿が見えなくなるまで自分を見つめていた母を見送り、冷たい大理石の階段に足をかける。



 ラインハルトの動きはけして隠れたものではなかった。だから、オドもあの男もラインハルトの思惑には気付いていただろう。

それでも見逃されたということは、母たちや姉妹たちに手を出す気はないということか。


(……なら俺の最期はすべてを終えた、今)


「………兄上。お呼びくだされば出向きましたものを」


 階段を上りきり、壁一面が大きな窓になっている広い踊り場で立ち止まる。

 見上げる先、執務室などがある階からラインハルトを見下ろしていたのは―――氷のように冷たい表情をしたオドだった。


「…随分と、手をまわしたようだな」


 吐き出される声も低く冷たく、あの頃のあたたかな兄はもういないのだと改めて思い知らされる。


「……するべきことを、したまでです」

「お前は聡いな、ラインハルト。……安心しろ。妃や王女たちに手を出す気はない」


 この国は女に王位継承権が発生することがないからな。卑屈な笑みを浮かべるオドの言葉に背筋を震わせながら、ラインハルトはひっそりと安堵の息を吐いた。

 自分がしてきたことは無駄ではなかったのだ、と。


「聡明なお前のことだ。もうすべてのことに気が付いているんだろう」


 こつ、こつ。オドが階段を一歩一歩、ラインハルトの恐怖を煽るようにゆっくりと降りてくる。

 わずかな金属音をたてて引き抜かれたのは、オドの大きな体躯に見合った長剣。国一番の鍛冶師に打たせたというその剣は、切れ味も申し分ないものだと聞いた。


「…兄上、考え直していただけませんか。こんなの間違ってる。

 貴方は、ケーニッヒ・ラッヘに騙されているんだ!!」


「黙れ!!!」


 風を切る音がしたと思った次の瞬間、ラインハルトは背中を大理石の床に打ち付けていた。

 すでに戦場をいくつも駆けた兄の剣はラインハルトの頬をかすめ、硬い大理石を貫いている。つ…と生暖かい何かが伝い落ちた。

 ラインハルトの肩を押さえつけているオドは興奮しているのか、いつも穏やかだった金の瞳を血走らせ殺意を見え隠れさせている。


 もしかしたら。そんな希望もこの兄を前に空しく砕けていった。


「あの方は俺に未来をくださったのだ。憐れまれ、燻るしかなかった俺に!」

「兄上……」


「正妃の子、勇者の再来、そう持てはやされたお前に何が分かる。妾の子の俺の何が!!」


 絶句した。兄の言葉に、憎しみの困った表情に。


「ずっと…そう、思っていたの、ですか……?」


 声が震える。兄の顔を見ようとしても、滲む視界では焦点も定まらない。


 ショックだった。いつも優しく穏やかで、父や兄を支えられる強さを持っていた、尊敬する兄の口からそんな言葉飛び出すなんて。


 オドが出生を気にしていることはラインハルトも知っていた。兄弟姉妹(きょうだいたち)の中で唯一、正妃でも側妃でもない、使用人の女性から生まれたという境遇を。

 だが父バルドは確かにオドのこともオドの母親のことも愛していたし、流行病で亡くならなければ側妃に迎えるつもりだったと言っていた。

 母ルチアを始めとした妃たちも、オドに分け隔てなく愛情を注いでいたはずだ。


 あの愛は同情からのものじゃない。多くの里親を見てきた輝夜の記憶を持つラインハルトにはわかっていた。だから、兄も気付いていると…そう、思っていた。


「俺はお前が、お前たちが疎ましかったよラインハルト」


 立ち上がるオドに胸倉を掴まれ、ゆっくりと大理石の床から離される。着ていたシャツに首を圧迫されるが、苦しいと思う余裕はすでになかった。


「だがそれも、今日で終わりだ。お前はここで死に、俺はこの国の王となる」


 ―――――― ああ、痛い。


「ジクムント兄上、と……ノルベルト兄上、は……」


 ―――――― 痛い。どうしようもないほどに。


「…さぁな。あいつらの対処はケーニッヒ殿に一任してある」



 ―――――― 幸せを信じ謳歌していた心が痛い。



 胸倉を掴んでいたオドの手が離され、ラインハルトの体は重力のままに大理石の上に落ちる。なんとか両足で着地し、よろめく体をそのままに兄から距離を取った。

 月の光を受けた刀身がラインハルトの顔を照らす。切っ先は、真っ直ぐラインハルトの左胸を捉えていた。


「せめてもの情けだ。苦しまないよう、逝かせてやる」


 久々に感じる「死」。覚悟していようがいまいがその恐怖は変わらない。

 震える膝を叱りつけ、出来るだけ気丈な振る舞いでラインハルトは兄を見据えた。絶対に目を逸らさないと意志を込めて。


 振り上げられた刀身に一瞬写りこんだラインハルトの顔は、なかなかどうして、勇者に似ていた。


「―――――天を駆けし(いかずち)よ 我が剣に宿りて力を与えよ」


 二度目の死を、潔く迎えよう。



 ―――――『ライニ』

  ――――――『諦めるのは、まだ早いだろう?』



「あに…っ…!?」

「トゥルエノ・エスパーダ!!」


 剣に宿った雷が走る。ラインハルトの右肩を焼き切ったそれは大理石の壁を貫き、霧散した。

 あまりの痛みと吐き気を誘う臭いに顔を歪めながら、まだ雷を纏っている剣を避けるべく体をひねる。剣には触れなかったものの、纏う雷は確実にラインハルトの肉を焼き切り額からどろりと血が流れた。


 ラインハルトに残されたすべは、一つだけ。


 雷が砕いた大理石の欠片を握りしめ、月の光を受け入れる大きな窓に投げつける。

 空しい音を立てて砕けちガラスは、ラインハルトたち家族を表しているようだった。


「それでも、兄上。俺はあなたを愛しています。貴方が俺を疎ましく思おうと、憎んでいようと、いつまでも、いつまでも……。俺は、俺の家族を愛しています」


 月の光を背負いながらほほ笑んだラインハルトは、窓の下にある大きな湖へと飛び降りた。





      * * * *





「おやおや、ラインハルト殿はわざわざ自決なさったのか」


 割れた窓ガラスの前で静かに立ち尽くしていたオドの背後に、男は音もなく現れた。愉しそうに肩を揺らすその男、ケーニッヒはねっとりとした声でオドの名を呼ぶ。


「……この下は、妖魔どもが巣食う湖だ」

「ええ、存じております。王家が奴らを見張っているのでしたね」

「…馬鹿な弟だ。妖魔に食われることを選ぶなど」


 行こう。そう呟いて振り返ったオドの顔には影が差していて、その表情を伺うことはできない。…だが、ケーニッヒにはオドが泣いているように見えた。

 ああ、馬鹿な男だ。ケーニッヒはほくそ笑む。

 甘言に惑わされながらも人の情を捨てきれないオドの姿に、どうしようもない愛しさを覚えた。


 哀れな駒。哀れな道化師。

 ケーニッヒの掌の上で転がるしかない男。


(追尾型の雷魔法をかわすなど本来不可能。いくらこの男が底辺の魔導士であろうとその性質は変わらない)


 これは更なる調教が必要だ。目の前を歩いていくオドを見つめながらもう一度肩を震わせた。





      * * * *





 足場を失った体は重力に従いただひたすらに落ちていく。空気の抵抗も、平均的な体重を持つラインハルトにかかる重力には抗えない。


 ――――――『諦めるのは、まだ早いだろう?』


 あれはイグナーツの声だった。五日前に息を引き取った兄の声が聞こえるなど、ありえないことだ。だから、あれはラインハルトの心が捏造した幻聴かもしれなかった。

 でも、幻聴だったとしても。


(まだここで死ぬわけにはいかない!!)


 痛みで朦朧とする意識を気力だけでなんとか繋ぎ止めながら、覚えたばかりの呪文を詠唱するべく口を開く。

 難易度は高い。行使できる可能性は十パーセントにも満たないだろう。父バルドの後を追うようにして亡くなったウルリヒ以降、戦争のためにラインハルトの家庭教師が見つからなかったのだから当然だ。

 独学のみで学んだ、高等魔術。「精霊魔法」。


 だが、成功させなければ待っているのは「死」のみだ。


「すべてを過ぎ行く風の精霊よ 我を理から解き放て!  ――――――トラデュクション!!!」


 得体のしれない何かが蠢く水面から約二メートル弱、そこでラインハルトの体は白い風に包まれた。

 精霊に魔力を提供し力を貸してもらう魔法。使える者が限られているという精霊魔法。…成功して、良かった。

 魔力の調整に気を使いながら、物陰に隠れ広い湖の上をすべるように移動する。


 虎視眈々とラインハルトを狙う水中の生き物たちの手から逃げながら、城とは逆方向の岸へと時間をかけてたどり着いた。下に地面が現れた瞬間魔法を解除し、その場に倒れこむ。

 どろりと血が草を濡らして、その量に内心驚いた。傷は右肩と、顔の右半分。額から瞼にかけて焼き切られてしまっているが、目が潰れてしまっていないことを祈ろう。


 頭が霞がかったようにぼんやりする。体の感覚も鈍い。どうにか立ち上がろうとしても、手も足もびくりとも動かない。

 痛みすら遠のいていくこの感覚を、ラインハルトは…「輝夜」は知っている。


 ―――――嫌だ、死にたくない。まだ、死ねない。


「生きて……づよく、なら……ぎゃ……」




 ――――――― こっちよ




「……え…?」


 鈴を転がしたような、いやそれ以上に可憐で澄み通った声に呼ばれて左目を開ける。鉛のように思い頭をもたげて見上げた先には、ふよふよと、陽の光のようにあたたかな輝きを放つ何かが浮かんでいた。


「…ほた、る……?」


 ――――――― こっちだヨ


 それは光だけでなく感じる熱も陽の光のようで、頬に触れるあたたかさにラインハルトは知らず知らずの内に笑みをこぼす。


 ――――――― 早く起きテ

 ―――――― このままじゃ 死んじゃうヨ


 うん、そうだね。頑張る。

 響きが違う声たちに促されるまま、感覚の鈍い両腕を地面に突き立てる。何度も自分が流した血に滑りながらもなんとか体を起こし、着信中の携帯のように震える足も膝を立ててゆっくり立ち上がる。

 湖を囲むように広がる森。その木々の隙間を縫うように、森にはたくさんの蛍……蛍のように淡く輝く妖精たちが舞っていた。




 ――――――― こっちよ ラインハルト




 大きくても成人男性の手のひらサイズの彼女たちをぼんやり眺めていると、自分とそう変わらない大きさの手がラインハルトの目の前に差し出された。

 淡く、金色の光を放つその手を見つめ、腕を辿りその手の持ち主を見上げる。


 ――――――― ここの掃除は任せテ

 ――――――――――もう大丈夫ヨ ライニ


 茫然としているラインハルトの背を二人の妖精が押す。

 目の前に立つ優美な女性(いや、まだ少女と呼ぶべきだろうか)は母ルチアによく似た笑みを湛え、さらに手を伸ばしてきた。

 恐る恐る、伸ばされた手を取る。じんわりとしたあたたかさが広がって、ラインハルトの左目から涙がこぼれた。



『この世の元素である精霊たちは膨大な魔力を差し出すことで具現化することができますが、自然の様々なものに宿る妖精たちの姿を見ることができるものは本当に稀です』


 何度も同じ話をする師の言葉を思い出す。繰り返し語られたものの中には、妖精たちについてのものもあった。


『一説では非常に高い魔力を有していなければ視えないとも言いますが、それではこの私が妖精に出会えないのはおかしいとは思いませぬか。

 妖精はとても敏感で、繊細なのだとウルリヒめは考えます。心優しく誠実なものの前にのみ、姿を現すのだと』


 それでは貴方が心優しくないようだと言えば、ウルリヒはとても寂しそうに笑った。あの表情は今でもラインハルトの記憶に焼き付いている。


『私はかつてこのグランツ王国で王宮魔導士長を務めておりました。……人に、ましてやラインハルト様に言えないようなことは、いくらでもあるのですよ』


 あの日以降、ウルリヒは妖精について話さなくなった。ラインハルトにボケているんじゃないかと呆れられるほど、同じ話を繰り返していたあのウルリヒが。

 彼は自分は優しくも誠実でもないと、そう言っていた。


『だけど、俺にとってはとても優しい恩師だよ』


 死の間際、偶然立ち会うことができたラインハルトの言葉に彼は穏やかに笑った。



 どうして妖精が自分の前に現れたのか、それはラインハルトにはわからない、だがウルリヒの言った通りなのだとしたら自分は妖精に認められることができたのだろう。

 彼女たちがどこへ連れて行こうとしているのかはわからない。今歩いている場所が今まで生きていた人の世なのかもわからない。それでもラインハルトは信じてついていくしかないのだ。


 相変わらず気を抜けば遠のいていく意識をどうにか繋ぎ止めながら、ただひたすらに足を前に押し出すことだけを繰り返す。バランスを崩せば手を握ってくれている少女と周りを飛んでいる妖精たちが支えてくれた。


 いったいどれほどの時間歩いていただろう。

 変わり映えしない景色を延々と歩き続け、麻痺していた足がついに疲労を訴えてきた頃にやっと先導していた少女が歩みを止めた。

 ラインハルトはがくがく笑う膝に逆らえず、重力のままに崩れ落ちる。上体だけはなんとか妖精たちが支えてくれたため、倒れ伏すことは無かった。




 ―――――――― 着いたわ ラインハルト




 長い金糸のような髪を揺らしながら振り返った女性の背後には一軒の、石と木を合わせて作った小屋が建っていた。




 ―――――――― ここの子たちなら 君を助けてくれる




 少女に握られたままだった手が離され、地面に落ちる。

 彼女はもう一度小屋へ向き合うと、ついさっきまでラインハルトの手を握っていた手でコンコンと、簡素なつくりの扉を二度叩いた。


 中から何やら話し声が聞こえた後、女性の前にある扉が古びた音を立てて開かれる。隙間から差し込んだ光は暖炉のものだろうか。久しぶりのように感じる家庭のあたたかさに、とてつもない安心感を覚えた。


「――――――あなたは……」


 重くなる瞼に逆らえず、なぜか安心するテノールボイスを聞きながら跪いていた体が傾いでいく。支えてくれていた妖精たちも、完全に力が抜けたラインハルトの体を支え切るのは無理らしい。

 扉にぶつかったら痛いだろうなぁ。そんなどうでもいいことが頭をよぎった。




 ――――――― ラインハルトを助けてあげて ミッシャ




「……人間? へぇ、貴女が直々に助けた子どもか……。シシィ、寝台を開けてくれるかな」

「はぁ? どうしてアタシがそんなこと……」


「可哀そうな迷子を助けるためだよ」


 意識が途切れる直前に感じたぬくもりはとてもあたたかく、母のものによく似ていた。


感想等ございましたら是非お願いいたします!

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