壱 懸念
グランツ王国は大陸一の魔法国家だ。街を照らす明かりも、調理場で使う火も、城下の広場にある噴水も何もかもが魔法によって構成されている。
だがそれら全てを個人個人が魔法で成しているのかと言えばそうではなく、魔法を広く優秀に使える人間が用途に合わせた魔法を石に封じ込めた「魔石」というものが使われている。
魔石は魔力を有する人間なら誰でも使うことができ、必要とされる魔力も微々たるもの。
魔力を持たない者がいないグランツ王国では魔石を見ずに生きる方が大変だ。
「……便利なこって」
そんな王国の第五王子であるラインハルトは、今日も魔石について長々と話す家庭教師に向けていつもは飲み込んでいた感想を吐き出した。
その感想は家庭教にとって思ってもみないものだったらしく、老齢の家庭教師は何度かつぶらなライトブルーの目を瞬かせたあと何本も歯が抜け落ちた口を大きく開けて笑い出した。それはもう、大爆笑。
今まで見たこともない爆笑っぷりに今度はラインハルトが目を瞬かせる番だった。
げほげほと噎せて咳き込む背中を若干引きながらさすってやる。
ウルリヒと名乗った家庭教師は15歳離れた第一王子、ラインハルトの長兄に当たるイグナーツにも教鞭をとっていたらしい。かつては王宮魔導士長だったとか。
確かに教え方はうまいと思う。非常にわかりやすい。だが……歳のせいだろうか、長々とした説明をまったく同じ文句で何度も語るのは。
そして今回はその長ったらしくとうの昔に暗記してしまった語りを打ち切らせるためと、いつでも大人しく聞いている自分がこんな感想を言ったらどんな反応をするのだろうか、という単純な好奇心で素直な感想を述べたのだが……まさか爆笑されるとは。
予想外だぜ…。ラインハルトは落ち着いてきたウルリヒの背から手を離しながら小さく息を吐き出した。
「ラインハルト様は珍しい感性をお持ちだ」
一通り笑い切ったウルリヒはそう言うと、目じりに浮かんだ涙を拭いながらラインハルトを通して「誰か」を見る。
憧れや、尊敬。感謝を込めたライトブルーの瞳に気が付いて、ラインハルトは自分の失態に気が付いた。
「まるで古の勇者様のようですな」
「………………そう」
古の勇者。
王である父を始めとした大人たちはそろってその言葉を口にする。『お前は古の勇者にそっくりだ』と。
この世界には魔法が存在し、エルフやドワーフ、竜も存在する。ファンタジー小説そのものの世界だ。
そして大昔には魔王も存在していたらしい。世界を滅ぼさんとしていた、典型的なラスボスが。
その魔王を見事撃退し、世界に平和をもたらしたのが「古の勇者」。
「異界より訪れ魔王を滅せし救いの勇者……。今の王家の始まりのお方。それでもこれほど勇者様によく似ているお方はラインハルト様が初めてですぞ」
転生してもつきまとってきた癖のつきやすい黒い髪。アーモンド形の大きな目は金色で、前世の記憶を思い出してから初めて自分の顔を見た時は猫のようだと思ったことをラインハルトは記憶している。
輝夜だった頃の自分も琥珀色の目をしていたけれど、ここまで鮮やかな色ではなかったな、とも思った。
数多い兄弟たちの中でも黒い髪と金の瞳。この二つを持っているのはラインハルトだけで、その姿は顔立ちまでも王宮の大広間に飾られた勇者の肖像にそっくりだった。
だが、ラインハルトは「勇者に似ている」と言われることがとても苦手だ。むしろ、嫌いだと言っていいだろう。
何かを期待するような視線、どうしてもそれになれることができなかった。
…しかし、訪れた。だなんて。
まだ10歳の自分を気遣って言葉を変えたのだろうが、残念ながら勇者の文献は彼と結ばれたこの国初めての王妃の日記と言う形で数多く残っており、ラインハルトはそのほとんどをすでに読みつくしてしまっている。
もちろん読むのは簡単なことではないし、見つかれば酷く叱られてしまうだろうがただの子どもではないラインハルトがその存在を知っていながらじっとしていることなどできるはずもなかったのだ。
古の勇者「カナタ・オウマ」はこの世界に無理矢理召喚された。
魔王を倒すため。この世界を救うため。
輝夜と同じ国に生まれた彼は帰れないと知った時、自分を召喚した皇国を滅ぼしグランツ王国を建国したのだという。
彼と結ばれた王妃は当時皇国で唯一方針に反対していた姫君だったらしい。
輝夜と同じ日本で生まれた人間。叶うなら会って話をしてみたかったと、ラインハルトは今でも思う。
まぁ、八百年も前の人間に会うことなどできないが。
「それよりもウルリヒ、ここを教えてほしいんだけど」
ゆるりと頭を振って、放っておいたらいつまでも勇者について語り続けるだろうウルリヒを現実に引き戻すために魔導書の一ページを指さす。
今教えてもらっているのは魔石の作り方。
前述したとおり魔石とは魔法が込められた石だ。言葉にしてみれば簡単だが作るとなればそうはいかない。
必要とされるのは莫大な量の魔力と、それを一切の狂いなく正確に魔法の形で石に注ぎ込む集中力。中には一瞬で作ってしまう者も居るが、そういう人間はごくわずかだ。ほとんどの魔石は年単位をかけて作られている。
ラインハルトは魔法の才に恵まれているという王族の中でも特に魔力保有数が高く、その質も素晴らしい。
単純な数値で言えば、魔石を一瞬で作ってしまうごくわずかな人間のうちの一人であるウルリヒにも匹敵すると言われている。
そう、魔石作りの面で期待されているのだ。
「おお、ここはですな……」
第五王子であるラインハルトは王位継承順位が低い。グランツ王国は女性に継承権が発生することがほぼないため他国に比べれれば高い方だが、この国は平和そのものであり死の危険と言うものが少ない。
跡継ぎは長男。もしもの時のために次男。それ以外は政略に使われるか何かすぐれたものを生かし国に尽くすか。
父も母も側妃たちも子どもたちには自由に生きてほしいと心から願う人たちだが、国というものを背負う以上そう甘いことも言っていられない。
だから、政略に使わずに済む道を探せと言われ期待されている。
ラインハルト自身、自分を育んでくれた国を進んで出ていきたいとは思わないし、叶うならこの国に尽くしたい。
「ラインハルト」
勉強を再開したラインハルトの耳に届いたのはどこまでも優しい陽だまりのような声だった。
今日は聞けないだろうと思っていた声に名を呼ばれ、飛び上がる勢いで立ち上がる。
「母上!」
手に持っていた羽ペンを投げだし、シンプルだが美しい扉の前に立つ世界一綺麗な女性の胸に飛び込んだ。
「おやおや、ラインハルト様は甘えたですなぁ。ルチア様」
「ふふ、もう10歳なのにね。でもペンを投げてしまうのは優雅でなくってよ? ラインハルト」
窘めるように自分の顔を覗き込む母の綺麗なプラチナブロンドの髪が当たり、ラインハルトがくすぐったいと笑えば「仕方ないわね」と抱きしめられる。
上品な香水の中に母の優しい香りを見つけ、もともと緩みに緩んでいた顔がさらに緩むのが分かった。
輝夜にはいなかった両親と言う存在。不満はなくとも寂しさを感じていた「私」の感情も相まってラインハルトはほかの兄弟以上に両親に甘えている。
何度かからかわれたこともあったが恥ずかしいとは思わない。なぜなら無条件に甘えていられるのはこの短い、無邪気な子どもの内だけだと知っているから。
「でも、どうしてここに? 今日は姉上のもとに行くのでは?」
40になってもまったく老いを感じさせない母はこの国の正妃だ。第一王子のイグナーツと第三王女のシャルロッテ、そしてラインハルトの実の母。
今日は公爵家に嫁いだシャルロッテとのお茶会だと聞いていた。
「シャルロッテはね…相変わらず自由な子。お屋敷を抜け出してしまったそうよ」
「……え」
「さっきシューベルト公爵が念話をくださってね。
『ロッティが街に繰り出してしまったので、お茶会は後日でお願いします。お義母様』ですって。
本当、公爵が理解ある方でよかったわ…」
大きなため息を吐く母を見て、ラインハルトの口からも同じくため息がこぼれる。ああ、シャル姉上。縛られることが嫌いな自由人っぷりは嫁いだ後も健在なのか、と。
自分の手を引き強引に城下町へ繰り出した姉の姿を思い出し、ラインハルトはもう一度息を吐き出した。
ちなみに、念話とは電話のようなものだ。魔石を使って行うためホログラムのように姿も映し出される…テレビ電話の方が近いだろうか。
「まぁ、そういうことで時間ができたのよ。せっかくだからラインハルト、お茶でもいかが? いいわよね、ウルリヒ」
「もちろんでございます」
「ぜひ!!」
天気もいいし中庭で。少し嬉しそうな母と手を繋ぎ、明るく静かな大理石の廊下へ出る。
半歩後ろにはラインハルトの護衛であるヴィリーが付いてきていて、その隣にはヴィリーの父親であり母ルチアの護衛騎士であるリュディガー・ファブレ師団長がいる。……はずなのだが。
どうしてか姿が見えない大男の姿を探しぐるりと視線を巡らせる。
「リュディガーにはね、人を呼びに行ってもらっているのよ。護衛にはヴィリーがいるもの」
「人?」
ラインハルトの様子に気付いたルチアはそういうが正直疑問が増えただけだ。さらに首を貸し出るラインハルトにルチアは「秘密よ」と楽しそうに笑って見せる。
母はいつまでも子ども心を忘れない人だから、きっとおれを驚かせようとしているんだろう。「父上ですか?」と聞いてみても答えないあたり、考えても無駄だとラインハルトは早々に諦める。
自分たちのやり取りヴィリーがおかしそうに見ているのに気付いて無性に恥ずかしくなる。くそ、笑ってんな。心の中で悪態をついた。
「待たせたわね」
中庭に続く両開きのドアを開けたルチアに引かれるままラインハルトは足を進める。その顔は茫然としていて「間抜け」そのものだった。
ぽかぽか温かい春の日差しの中、考えもしなかった光景が広がっていたのだから仕方ないともいえる。
質の良い真っ白なテラスチェアに腰掛け優雅にカップを傾けている女性が二人。ラインハルトとそう歳が変わらないだろう女の子二人は女性のそばに寄り添って、模造剣を手に談笑している四人の男性を眺めていた。
「驚いたでしょう、ラインハルト」
「……はい、凄く」
くすくす笑っている母を見上げてから、信じられない光景に視線を戻す。
国王である父が訪れるよりも、側妃二人に王女二人、そして王子四人。王宮に残っている王族が父をのぞいて集まっているこの光景の方がありえなくて、ラインハルトは開いた口が塞がらない。
母と側妃たちの仲がいいのは有名な話で、時折お茶会を開いているのも知っている。だからそれに王女二人が混ざることも、まぁあることだ。そこまで驚くことじゃない。
だが、様々な分野で教育を受けている王子たち……特に次期国王であるイグナーツがこの場に居ることがどうしても信じられなくてラインハルトはもう一度母の顔を見上げた。
「母上の行動力にはいつも驚かされます……」
「たまにはいいでしょう? だって、家族なんですもの」
「よく来たな、ライニ。こっちにおいで」
母に背中を押し出され自分の名を呼んでいるイグナーツのもとへ歩いていくと、細いながらも力強い腕がラインハルトの腰に回された。
第七王女であり二か月違いの姉、マヤは小柄なラインハルトの体をしっかり抱きしめて「レインは私と同じお茶を飲むの!」とイグナーツ睨み上げる。シャルロッテと仲が良かったせいかマヤは気が強く我も強いのだ。
マヤの実の母であり第二妃のサラは「あらあら」と言うだけで笑っている。第三妃のジュリアも同じくだ。
「マヤ! ライニを先に呼んだのはイグナーツ兄上だぞ!!」
早くも目を遠くしていたラインハルトの腕を引っ張るのは第四王子でマヤの実の兄であるジクムント。この二人は赤い髪やそばかすがよく似ている。
……とりあえず、引っ張り合うのはやめてもらえないだろうか。ちぎれる。冗談抜きで。
「…わたしも、ライお兄さまとあそびたい……」
「シェリもそう言ってるからいいじゃない! ジークお兄様は黙ってて頂戴!」
たくさんいる兄弟姉妹の中でも一番下で、唯一自分よりも年下のシェリまで参戦してしまえばもうラインハルトにはどうしようもない。それぞれに腕やらなんやらを引っ張られながらさらに目を遠くした。わぁい、モテモテだぁ。
「あら、サラ。今日の茶葉はいつもと違うのね」
「ジュリアが持ってきてくれたのよ。ハルディン公国の特産産品らしいわ」
「いつもルチア様に用意して頂いてるから……実家から送ってもらったの」
ルチアを始めとした妃たちは最早こちらを見てすらいない。確かに母たちからすれば可愛らしい兄弟げんかだろうが、渦中に居るラインハルトからすればたまったものじゃない。
それならばヴィリーはどうだ。
父親であるリュディガーやほかの護衛騎士たちと合流し、報告や雑談に興じている自分の護衛騎士を見るが気付いた様子はない。……いや、気付いてはいるが助ける気はないようだ。口元がちょっと笑っている。
絶対後で蹴ってやる。ラインハルトはそう心に決めた。
「ライニ―、おいでー」
ヴィリーへの報復を考えていたラインハルトを呼んだのは第三王子のノルベルト。今日もぽやぽやしている兄をぼんやり眺め、この人は現状を把握しているんだろうか。…してないだろうなぁ…と考える。
シェリとノルベルトは実の兄妹であり、ジュリアの子だ。そして放っておいたらふらふらどこかに歩いて行ってしまう、浮世離れした雰囲気が三人と手もよく似ている。
髪の色は金と、父に似て栗色のジュリアには似ていないがこの親子はいつか淘汰されてしまわないかラインハルトは気が気でない。
「レインは私たちとお茶を飲むの!」
「だから! 先に呼んだのはイグナーツ兄上だっ!」
「ライお兄さま……こっちきて…?」
それぞれ思い思いに自分がつけた愛称で呼ぶ兄弟姉妹に翻弄されていたラインハルトにようやく、救いの手が差し伸べられた。
「ラインハルトが困っているだろう。離してやれ」
ジクムントが投げ出した模造剣を回収し片付けていた第二王子、オドの大きな手がラインハルトの脇の下に差し込まれ小柄な体を軽々と持ち上げられる。
八つ裂きの運命を感じていたラインハルトはようやっと息を吐いた。
「……オドお兄様……」
「ああ……ライお兄さまが……」
姉妹の不満気な声が聞こえたがさすがのマヤもオドには強く言い出せない。イグナーツと違い、オドには口でも勝てないからだ。
「マヤ、ジクムントが言ったように先にラインハルトを呼んだのは兄上だ。だから少し待ちなさい」
「……はい、お兄様」
「シェリもだよ」
「………ごめんなさい」
しゅん、と俯く姉妹を見たラインハルトはさすがオド兄上、と舌を巻く。兄弟姉妹を説得することにおいてオドの右に出る者はいないのだ。
怒られてしょげているマヤに向けて「してやったり」と言わんばかりの顔をするジクムントの頭に手を置いて「お前も乱暴に腕を引っ張るんじゃない」と叱りつける流れも本当に鮮やかである。
「ノルベルトも来いというなら助けてやれ」
「いやぁ~、あはは」
「まったく……。ラインハルトも、嫌なら嫌と言えばいいんだぞ」
でもどうしてもっと早く助けてくれなかったのか、そんな図々しいことを考えていたら剣ダコが目立つ大きな手で頭を撫でられた。
しかしそれは無理な話と言うやつである。
マヤやジクムントは聞く耳を持たないし、何よりシェリを泣かさずに断る自信がラインハルトにはない。「妹」に泣かれると弱いのだ。
「……そこもやはり兄弟と言うべきか。ラインハルトは兄上によく似ている」
「ははは……酷いな、オド。確かに俺は兄弟姉妹に強く言い出せないしそれはライニも同じだけど……。ああ、考えれば考えるほど俺にはお前がいないとだめだなぁ」
確かに、ラインハルトは兄であるイグナーツによく似ていると自分でも思う。見た目はもちろん似ていないが。
父バルドの金の髪と、母ルチアの綺麗なサファイアの目を持っているイグナーツとシャルロッテとは違い、ラインハルトは勇者によく似た黒髪金目なのだから。
「何を言いますか。兄上は兄弟姉妹に強く出られない他は見事なものでしょうに」
「買い被りすぎだよ、オド。…さ、ライニ。兄が剣を教えてやろう。前に触りたがっていただろう?」
「いいのですか!」
イグナーツの思ってもみなかった申し出に、ラインハルトは思わずオドの腕の中から飛び降りる。何歩かよろけつつもイグナーツに駆けよれば、くすくすと笑われた。
「こら、ラインハルト。危ないだろう」
「う……ごめんなさいオド兄上」
確かに今のははしゃぎすぎたとは思う。だがわかってほしい。
剣、剣なのだ。現代日本人だった輝夜の記憶を持つラインハルトはどうしてもファンタジックなものに興奮してしまう。
初めて魔法に触れた時も同じような反応をした覚えがあるほどなのだ。
「ああ、今日はたっぷり時間があるからな。オドも相手をしてくれるそうだぞ」
「オド兄上まで! やったぁ!」
ラインハルトのあまりのはしゃぎっぷりにシェリを含めた全員が噴き出す声がした。
………さすがに今のは恥ずかしい。
この国の成人は15歳。それをとうに越え輝夜の基準でも成人している長兄と次兄に頭を撫でられて、もともと熱かった顔にさらに血が昇る。
兄上大好き魔人とラインハルトがひそかに呼んでいるジクムントの視線が痛いが、この羞恥に免じて許してもらいたい。
(……ああ、でも……「幸せ」だ)
「―――――― っ !?」
ぞくり。背筋を冷たい何かが駆け上がったような、久しぶりに感じる悪寒に弾かれるように振り返る。
「ライニ? …どうした?」
「ラインハルト?」
この悪寒に、ラインハルトは…いや、輝夜は覚えがあった。
高校を卒業し、大企業に就職してから幾度となく向けられ出世するごとに強くなっていった「妬み」「僻み」「恨み」「憎しみ」の籠った視線。
だが今感じた視線は今まで感じたどれとも比べ物にならないほどに強烈だった。そう、これは最早……「殺意」。
さくり、中庭の芝生を踏む音がやけにうるさく響いた。
「ご家族でお戯れの中、失礼させていただきます。バルド陛下より、伝言がございまして……」
「あら、陛下から?」
ケーニッヒ・ラッヘ。父からの伝言があるのだという宰相の言葉に母が立ち上がる。
その時ケーニッヒの赤い目がラインハルトを見て「ああこの男だ」とひとり納得した。
庶民の出だが非常に優秀で、父バルドが自ら引き抜き宰相に当てた男。人望も厚く、柔らかな物腰で王族内での評判も高い。マヤはシェリ、他の王女たちも懐いていたはずだ。…シャルロッテを除いて。
ラインハルト自身は彼に会うのはこれが初めてだ。避けられているのかと思うほど、ラインハルトの前にだけ姿を現さなかった。
「きっとこのお茶会のことを耳に挟んだのでしょう。今日は家族全員で夕食を、と仰っていました」
「つまり、寂しくて拗ねちゃったのね。ふふふ…ごめんなさいね? こんな雑務で出歩かせてしまって」
「雑務だなんて。これも立派な職務ですよ」
「あら、お上手」
赤い目が動くたび、ねっとりとはりつくような声が上がるたび、ぞわぞわと全身の毛と言う毛が逆立っていくのを感じる。「気持ち悪い」ラインハルトの頭にはその言葉しか浮かばなかった。
『あの男、胡散臭いのよ』
今ならシャルロッテの言葉を理解できる。
この男は皆の言う優秀で誠実な宰相様なんかじゃない。まるで、そう。狡猾な蛇のような男だ。
「……大丈夫。大丈夫だよ、ライニ」
いつの間にかズボンを握りしめていたラインハルトの手を優しく握り、小柄な弟の目の高さに合わせてイグナーツが膝を折る。
ラインハルトを見る表情はいつも通り優しい兄のものだったが、ゆったりとした動作でケーニッヒを見る頃には優しさの影すら見えない険しい表情に変わっていた。
「お邪魔致しました。……ああ。少し、オド殿下をお借りしても?」
「え? ええ……いいかしら、オド?」
「? もちろんです」
軽く頭を下げて両開きのドアへ向かうケーニッヒを、オドが足早に追いかけていく。その姿にラインハルトは何故か、酷い焦燥感を覚えた。
止めなくちゃ。――――――でも、どうして?
考えるだけで口に出せず、オドを呼び止めることもできなかったラインハルトは中途半端に上げた手を握りしめて下ろす。
「何の用かしら」
「オド兄上をわざわざ呼んだんだ。きっと何か重要なことだろう」
「でも、イグナーツお兄様は呼ばれてないわよ?」
「うーん…」
消えた二人の会話内容を楽しそうに考えているマヤとジクムントの声もどこか遠い。
「ラッヘ宰相はオド様がお気に入りのようですから…私事ではないかしら?」
「あら、そうだったの? よく見てるわね、ジュリア」
「……兄上」
「なんだい、ライニ」
胸が苦しい。さっきまで、あんなにも幸せだったのに。どうして。嫌な予感がする。
ラインハルトはしゃがんだままのイグナーツの首にしがみつき、その逞しい方に頭を擦り付けた。幸い、皆おしゃべりに夢中でラインハルトの様子には気付いていない。
ぼーっとドアを見つめているノルベルトとシェリが何を思っているのは、わからないが。
「おれは、あの男を信用できません。どうして父上があの男を宰相に据えているのか……さっぱり、わからない。あの男は、気味が悪い」
短かったが一生を生きた「輝夜」の経験が、あの男は危険だと囁く。まだ十年しか生きていないが勘の鋭い「ラインハルト」の本能があの男を排除しろと叫ぶ。
正直なところ、頭の中がぐちゃぐちゃでラインハルト自身にも何が何だかわからなかった。
「……俺もだよ。俺も、あの男が気持ち悪くて仕方ない。だけど……実力は確かなんだ。あの男がいたから、今のグランツがあるともいえる。
……大丈夫だよ。父上は聡明なお方だ。何かあっても、対処を間違えることは無い。それに、俺があの男の好きになんてさせやしないよ」
――――だけど。
「だけど、もしもの時は………。ライニ、お前に任せる」
「それって……」
ひゅ、と喉の奥が鳴った。
「もしもの場合だよ、あくまでも。未来は何があるかわからないから未来だ。あらゆる可能性を考える必要だある。
お前なら大丈夫だよ。勇者に似ているからじゃない。精霊に愛され、この世界に愛されているお前だから。……大丈夫」
あにうえ。立ち上がり、太陽の光を背負って笑う兄が消えてしまいそうで、ラインハルトは一度離れた体を再び兄に巻き付ける。
そんな、全てを悟ったような表情で笑わないでほしい。それじゃあまるで、それは……可能性じゃないと、言っているようなものじゃないか。
「さぁ、剣を持て。オドが戻ってくるまで、このイグナーツが相手しよう!」
どうか、どうか幸せな日々が続くよう……今日も祈ろう。
感想等ございましたら是非お願いいたします!