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ふたりになるまでの時間

3月31日・年度末(ふたりになるまでの時間 番外編・13)

作者: 初姫華子

3月31日は年度末で区切りの日だ。


今日、日本のエアラインから、B747がいなくなる。


長年、多くの旅客を運び、航空業界を支えた大型機も、時流の流れには乗りきれなかったようだ。


高遠秋良たかとう あきらは、カートを引いてターミナルを歩く。


今日の乗務も終わり、後は残務処理を片付けるのみ。


残念ながら彼女がつとめるターミナルとは逆方向。喧噪だけでも体感するのは無理だった。


747のラストフライトには多くの航空ファンや退役を惜しむ人々が空港に集っていると人伝に聞いた。


消防自動車二台によるウォーターキャノン、放水アーチをくぐり抜けた機体は虹を纏っていたと。


あなたも今日で最後なのね。


ターミナルがあるほうへ目線を送った。


そして、今日。秋良にとっても年度末。


今日を限りに、客室乗務員としてのキャリアが終わる。ひとつの区切りを迎えることになるのだから。



◇ ◇ ◇



天職だと、定年まで続けるのだと言い続けていた客室乗務員。定年までは半ば冗談ではあったけれど、可能なら本当に老境にさしかかった年になっても続けたかった。


けれど……物事には始まりがあればいつか終わりがくる。


昨年末のことだ。上司に呼び出された。配置換え希望についての面談だった。


初めてではなかったし、社員が必ず受ける恒例行事。過去に何度も話をされ、その都度こう伝えた。


希望はありません、今の仕事を続けます。


年が明けてすぐだった。改めてキャリアパスについての打診を受けた。昨年もお伝えした通り、意志は変わらないと、従来通りの勤務を希望すると答えたが、今回ばかりは我を通せない雰囲気があった。


現職を続けるのも、やめるのも、本人の意向を尊重するとは言われたけれど、事実上の引退勧告だ。


今後は管理職として後進の育成に努めよと言われた。


今もチーフとして乗り込んでいます、それではだめなのですか、と問うと、チーフパーサーも新しく育てなければならない、との答え。


「これは……業務命令なのですか」


そうだと返ってきた。


秋良は一客室乗務員である前に、会社という組織に帰属する身の上。


ならば、従わなければならない。


いつかは来る話とは思っていたけれど、いざその場に臨むと足元から何かが崩れて落ちる気がした。


秋良が夫と築いてきた家庭のモットーは隠し事はしないということ。大きなことも小さいことも何でも話題にしてきた。


なのに、その日のうちにその日の出来事を家族、夫にすら話せない。


こんなこと、初めてだ。


これほど打撃を受けるとは自分でも思わなかった。


悶々として過ごすこと数日。すると、まるで待っていましたとばかりに身体が不調を訴えた。


健康には人一倍気を使っていたし、誰よりも自信があった。体調不調で乗務に穴を開けたことはない。ブランクは出産の時だけ。なのに、朝、起きられなかった。


身体のあちこちが悲鳴を上げるように、午前はここ、午後は別のところと悪いところが変わった。


ついにはじんましんも出た。


同じく、いくら具合が悪くても講義や学校の仕事だけは休まなかった大学教授を務める夫・高遠慎一郎が、結婚してから初めて学校を休んだ。


「いいからお仕事行ってくださいな」横になったままそう訴えると、「とても行ける状況ではないから休んでいる」との応え。


子供たちも廊下の向こう側から様子をうかがっている。


朝、登校した子供たちが出て行った後はしんとする家が、いつもよりさらに静かに、老猫すら足音を忍ばせて歩くかのような中、秋良は夫に打ち明けた。


もう、乗務は続けられない、もう……飛べなくなるのだ、と。


「私、どうしたらいいかわからない」


「君の気持ちは、僕が一番よくわかっている」


「本当は……続けたい」


「そうだね」

「でも、会社の決定は絶対だわ。年齢もきっと関係しているんだわ」


「否定できないかもしれないね」


「会社は、若い子以外いらないのよ」


「僕はそうは思わないよ」


「でも……じゃあ、何故?」


「何故という問いに必ず答えが用意されているとは限らない。秋良、君と仕事は分かちがたく結びついている。半身以上の存在だ。もぎ取られようとしているのだから、辛くてたまらないのは当然だ」


額に手を添えて慎一郎は言う。君の好きにしたらいい、と。


「自分の心の声に素直に従いなさい。もっとくやしがっていいのだよ」


秋良は泣いた。


いやだ、いやだとダダをこねた、地団駄を踏んだ、普段なら口にできないようなことも言った。


なぜ、私ではだめなの?


齢を重ねたからこそ信頼される存在でありたいと願っていたし、自負もしていたけれど、自己満足だったの?


まるでバケツをひっくり返したように後から後から言葉が、涙があふれてきた。


夫の手にすがって。温もりに甘えた。


初めて乗務した日のことを思い出す。


無我夢中で先輩からの叱責もロクに耳に入らなかった。


でも、これから乗り込む航空機を『シップ』と呼べるようになった自分がうれしかった。


もう、あの頃には戻れないのに。


わあわあと、声を上げて泣いている自分は、まるで幼子のようだと、遠くで眺めるもうひとりの自分がいる。


そして、そのふたりを引いてみる、三人目の自分が、こう言った。


人生の折り返し地点に立ったことを自覚しなさい。


これから、もっとたくさん失うものがあるだろう、その最初が、仕事だったということなのよ、と。




じんましんは翌日には落ち着いた。けれどその翌日には高熱を出した。


こんなに高い熱を出したのは何年ぶりだろう。勤め始めて以来のことだった。


病院ではインフルエンザと診断された。


同僚や家族が罹っても自分だけは難を逃れていたのに。


薬が効力を発揮するまで48時間。その間熱にうなされた。


長く寝込み、やっと医師から出勤許可が出た時、彼女の心は決まった。


職場復帰をした朝、上司に業務命令を受ける旨を伝える。


移動日は4月1日。


年度末の3月31日が、秋良のラストフライトとなった。



◇ ◇ ◇



年度末で移動するのは秋良だけではない。


この日を限りに職場を、会社そのものを去る同僚がいる。


定年を迎える人もいる。


新旧切り替わりの日だ。


かつて乗務していた747と一緒のリタイア。宿縁というものはないのだろうけど、なぜかしんみりしてしまう。


いつものようにデブリーフィングをし、いつものようにロッカーへ向かう。


乗務から退けて、ロッカーを開けたら、手紙と箱が入っていた。五十嵐機長からだった。同期の桜のパイロット。若い頃を乗り切った仲間だ。



『今日中に帰国できそうにないから、花を託す。とうとう君と一度もフライトを共にすることがなくて残念だった』



くどくど書かず、短く言葉を綴るところが彼らしい。


無理でしょ。だってあなた、国際線を飛んでるし。今はどこの国の空の下にいるの? 私は国内線担当だもの。縁がなかったってことよ。


小さな段ボールの中には小さなフラワーアレンジメント。ちょこんとウサギと卵のフィギュアが添えられていた。


これ、イースターにかこつけているのかしら。でも残念。今年のイースターは4月の中旬なの。知ってる? でもウサギがかわいいから。許してあげるわ。


そういえば五十嵐は折に触れて小さなプレゼントを秋良や他の乗務員に用意していたっけ。女性が好きそうな品を選ぶのが上手で、男性には珍しく気配りに長けていた。同僚達の受けもよかった。


手紙をバッグにしまって「さあ」と立ち上がりながら自分にひと声。


あとは帰宅するだけだ。普段ならここで「お疲れさま」と声をかけて出る。けれど、今日はロッカーの中身が空かどうか、忘れ物がないかどうかを確認し、扉から名札を外した。そして普段より少し多めの荷物を抱えていた。


明日の入社式には参列するよう指示が出ている。その時にはもう、客室乗務員の肩書きはない。制服を着ることもない。


すれ違う同僚達に挨拶をし、出口へ向かう道すがら、かつて乗務を共にした仲間達に何度も声をかけられ、足を止めた。


「先輩、本当にいなくなってしまうんですか」


後輩達は半泣きになっている。「お化粧が落ちてしまうわよ」と口にして、かつて自分も今目の前にいる彼女たちのように去って行く先輩を引き留め、同じことを言われたことを思い出す。


「会社を辞めるわけではないから。また会える。これからはあなたたちを後ろから支えるわ、だから、安心して飛んでね」


笑顔でひとりひとりに答えて、別れを告げた。


大きな花束と小さなフラワーバスケットを抱えて、秋良の、客室乗務員最後の乗務は終わった。


これが最後という日は、もっと感傷的になるかと思っていた。


でも、日常の延長上に終わりが添えられているだけなのだ。


きっと自分の中で区切りがついたから、切り分けができたから淡々と過ごせるのだと思いたい。


もし……辛くて暴れたくなったらどうしよう。


誰かを傷付けずに過ごせるのだろうか。


秋良は振り返り空を見上げる。


今、まさに飛び立とうとする旅客機が、暗闇の中、わずかな表示灯の明かりと共に駆け抜けていた。




◇ ◇ ◇



明けて翌日、空は冴え冴えと澄み渡っていた。


格納庫には、関連企業も含めた数百人にのぼる新入社員達が並んでいる。


秋良は新人達の顔を見ながら思った。


彼女の同級生たちの子息も、今年採用されたと聞いている。世代交代だ、と感じ入らないわけにはいかない。


スーツの胸ポケットに手をやる。


入っているのは、桜色の花びら。


昨日、いつもより早めに退けた道すがら、自宅近くの最寄り駅に降り立ったら、自動改札機のほぼ真向かいにいる夫の姿を認めた。


ガードレールに腰掛けて、本を無心に読んでいる。脇にはバラの花束を携えている。


ごろごろと引くキャリーバッグの音に目を上げた慎一郎は、ぱたんと本を閉じる。


「お帰り」


「ただいま戻りました。あなた、学校の方は?」


「ああ、滞りなく無事何事もなし、だ」


「明日は入学式なのですよね」


「皆にとって、新たな門出を祝う日だ」と言って、慎一郎は花束を差し出す。


桜色を纏った大輪の花は華やかに薫った。


11本のバラ。


夫は節目に決まってバラの花束をくれた。


彼が贈るバラの色は毎回違う。種類も違う。大輪だったり、一重だったりする。ほとんどがモダンローズだが、ある日、珍しいオールドロースを花束にした。結婚して日が浅かった頃だ、ポタニカルアートにこぞって描かれるボタンの花のような姿は可憐で思わず息を飲んだ。が、翌日あっさりすべての花が萎れ、花びらがばたばたとリビングのテーブルや床の上に散っていた。


もらった方も贈った方も唖然とした。


「花屋の言う通りだったな」と慎一郎はぽつりとこぼした。


店頭で、オールドローズはクラシカルな容姿は美しくても、刺身なみに花保ちしないからプレゼントには向かない、と強くアドバイスされたけれど気にしなかったのだと。広く人の目に触れにくい理由がとってもよくわかった。流通に適さないのだ……


以来、彼は行きつけの花屋のアドバイスを尊重し、一番美しい盛りの花を見繕ってもらうようになった。自分では選ばず、色もアレンジも花屋のセレクトに任せているが、本数だけは別。


別の日にひとりで買い物に立ち寄った花屋からこっそり教わった、先生は本数だけは必ず指定するんですよ、と。


以来、気にして数えてみた。


夫から贈られるバラの本数はきっかり11本。必ず11本。


彼がどこで聞きかじったのかはわからない、けれどちゃんと意味がある。


11本のバラの花言葉は、『最愛』。


秋良は顔を近づけて香りに浸りながら心からの笑みを浮かべた。嬉しかった。


今日、その花びらを1枚、胸元に忍ばせている。


新たな門出を祝う花だから。


入社式は滞りなく進み、最後に、新人も社員も役員も、集うすべての人が、手に持つ紙飛行機を飛ばした。


皆にとって、明るい未来が届くようにと、紙飛行機の翼に願いをかける。


見上げながら、秋良は思う。


大丈夫、私なら大丈夫。ひとりじゃないもの。支えてくれる人たちがいる。だから、楽しいことも辛いことも乗り越えていける。


ここに集うあなたたちも、様々な山や谷が待ち構えているかもしれない、でも、今日の日を思い出して。


望んで、望まれて、この場に立てた誇りを忘れないで。



格納庫に、数多の紙飛行機が舞う。


その白い姿を眺める彼女の顔には、齢を隠せない笑い皺が浮かび、輝いていた。



後書きという名のあがき


はじめましての方も、二度目、三度目…それ以上の方も。


作者です。


ここまでお付き合いくださいまして、本当にありがとうございました。


年度末ですねー、そして、春になりましたねー。

サクラの季節です、けど、春っていろいろと…寂しかったり

体調崩したりしますよねー。


皆さん、お体には気をつけましょうねー。


ちょっとセンチメンタルな作風になってますが、

わりと今の心境ずどん、直球でして、

あー、もう、明日からどうしよう、仕事! って気分を浮上させようと

明るめな終わりにしてみました。


でもさあ。現実って、こうは…


いいや。


あまりシリアスに考えたくないやー。


今日はお恥ずかしながら、当方の誕生日です。

気分一新は難しくても、自分が望む世界を

1本のペンで書き続けたいなと改めて思う次第。


もたくたとのたうち回るかたつむりのような遅筆ぶりですが、

よろしければお付き合いくださると…うれしいです!!!


では、この辺でいつもながらの結びの言葉を。


ここまでの御拝読、本当にありがとうございました。

いつも感謝しています、もう、読んで下さる方がいらっしゃるから

ここまでがんばれます。

拙い本作ではありますが、少しでも皆様の時間つぶし以上のものになっていれば幸いです。


次は、何度も書いてますが、「オオイヌノフグリの花」のヒロインサイドで1作。

追い風1000kmで中断してた作品をばちばち入力してるところです。

推敲するから…GW頃頃に上梓できればいいなと思っています。



作者 拝



そうそう、追記。


作中でちらっと書きましたバラについて。


一般的なバラは、モダンローズと呼ばれています。


最近(でもないかな?)流行したのが、

クラシカルな容姿を持つイングリッシュローズ。

これはオールドローズをベースにしたモダンローズの一種ですが、

大変美しい姿でありながら、

生花店で切り花として店頭に並ぶことはまずありません。


何故か。


一時、バラにはまり、一頃は20品種ぐらいのオールドローズ・イングリッシュローズを相手にしていたからわかります。


きゃつらは、とっても美しい姿をもちながら、

1日ぐらいしか花が保ちません。

ひどい時は朝咲いたら夕方には花びらが分解してしまいます。


モダンローズは蕾のまま出荷しても、水を吸い上げて開花しますが、

オールドローズやイングリッシュローズは蕾で切ってしまうと

花が咲かないというところがなんともくやしい。


最近はクラシカルな容姿を誇る様々な商標でバラが販売されてますので

トレンドに疎くなってますけど、

あの美しさと香りがもっと身近になればいいのにな、と思います。


バラは、一般的なバラの香料のような香りを放つ花だと思ってはいけない。


さまざまな香りの種類に分類され、それぞれ芳香が違います。


フルーツ香やミルラ香のすばらしさといったら、もう…


へたな香水、つけられなくなりますよー。


以上、何の役にもたたない蘊蓄話ふたたびでした。

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