花束
「お兄さん、プレゼントかい?」
僕が家の近くにある花屋に訪れるなり、その店の女主人は見ていたテレビから目を離し、そんな台詞で訊ねた。
「いえ。お供えで」
僕はにっこりと微笑んで否定した。実のところ、自分でも不思議なくらい素直に笑えたにびっくりしていた。ここに来るまでは感情に不安定な部分があり、鬱状態だったのだが、ここにきて、人工の香料ではない、天然の花の香りのアロマで気分が良くなっていたのかもしれない。
この花屋は、二十年以上住む家から徒歩1分弱のところにあるのだが、女主人の顔を見たことがある程度にしか覚えてないくらい訪れたことはそれほどない。そのせいか、どのような規則で花が配置されているのか分からず、目的の花もどこに置いてあるのか分からなかった。
向こうの女主人も近所には住んでいるのは分かるが、誰だか分からないくらいには僕のことを認識しているみたいで、少し無遠慮に、「お供えだったら、鳳仙花とか彼岸花かねー」、とその種の花をまとめようとした。
それを僕は慌てて止めた。
「お供えなんですけど、この花を束でお願いできませんか?」
店内(お世辞にもあまり広いとは言えない)で見つけた目的の花を指差した。それは今この瞬間にも綺麗な紅色の花を咲かせていて、その気品さが様々な種類のある花の中でも取り分け格調高い花。社会人2年目の僕には1本辺りの単価も決して安いとは言えなかった。
しかし、それはもう決めたことだった。
女主人はお供えでその花を持っていく意味が分からない、という顔をした。それは当然かもしれない。その花はお供えにするにはあまりに派手過ぎるから。
「ほんとにこの花でいいのかい?」
女主人の最終確認に笑顔で応じた。
「ええ。その花です」
結局首を傾げてこちらの様子を伺いながらも、女主人はきちんと花を束にまとめてくれた。きっと女主人には最後まで意味は分からなかっただろう。
僕は代金を支払い、一抱え程もある花束を持って花屋を後にした。
そろそろ夏も終わりだというこの頃、セミの鳴声も聞かなくなり、家ではクーラーをいれることも少なくなってきていた。今年の夏はあっという間に過ぎ去ってしまって、夏が始まったのがつい昨日のように思える。主観的に感じた短期間に、夏の気配はどこかへ飛んでいってしまったのではないか、と思えるほど素早く季節の色が変わっていた。
会社に通勤する際、電車の駅までの7キロの道のりを毎日自転車で向かっているこちらの立場としては暑くないのは非常に助かるし、仕事前に汗をかくことを気にしなくてよくなるのは嬉しいことだ。真夏の日に途中自転車がパンクしてしまった時はどうしようかと思ったこともあるくらいだ。
仕事の同僚にはバイク持ってるんだし、バイク使ったら、と言われるが、確固として自転車を使うことに固執している。馬鹿だなあ、とよく笑われるが、それでもいいと思っている。
でも本当は、去年は電車の駅まではバイクで通勤していた。
今バイクを使っていないのは、免許を剥奪されるような事件を起こした訳でもなく、ガソリン代を惜しむ程守銭奴でもないのだが、1年前に旅行先で事故に巻き込まれたからだ。
駅までの道を自転車で通うのは、高校時代に彼女と駅まで一緒に通学したこの道の空気を少しでも長く吸っていたいからだ。
自転車から降りて駅の構内に入った。いつもなら会社までは定期を使うが(社会人になりたての時は、学生定期と一般定期の金額があまりに違うことに驚いた)、今日は目的の場所は会社ではないので、切符を買って改札を通る。
今日は部長に無理を言って有給にしてもらった。こちらとしては部長にも同僚の仲間には申し訳なかったのだが、理由を言ったらあちらの方が申し訳なさそうな顔をした。
花束を抱いたまま、電車が来るのを待つ。
彼女といた頃には、電車を待つ時間も楽しくて体感的に話しだしてすぐに電車が来たような覚えがある。何を話した、というわけでもないが、他愛もない話で盛り上がって、それは楽しかった。
電車が来た。
ボクはそれに一人で乗る。横に一瞬彼女の姿が見えた気がして、ぎょっとして振り向いた。しかしそこにいたのは、大学生だろうか、私服に身を包んだ若い女性だった。
一回ため息をついて、少しだけ興奮の余韻に浸りながら電車のシートに腰を下ろした。
そして、電車に揺られ目的地へと向かう。常日頃向かっている会社とは正反対の方角。
電車の中には花の良い香りが広がっていた。だからか、匂いに気がついた人や、気づかなくてもこんな大きな花束を持っているのに目を向けた人が大勢いた。自然と視線が集まるが、僕はそれを電車の外の景色を眺めることで受け流した。
小一時間乗った後、目的の駅で電車から降りた。真昼なせいか、それともまだ彼岸の季節からは遠いせいか、この駅で降りたのは僕一人だった。もともとこの駅は彼岸の日のためにある駅なのだから。
花屋のアロマの効果はとっくの昔に消えてしまい、すでに笑顔になれるほど喜怒哀楽の感心は持っていなかった。感情の宿っていない目で何となく駅名を見る。
白井参道霊園前。
確認したわけでも、疑ったわけでもなく、ただここがそうなんだな、と思っただけだった。
霊園へと至る階段を登って少し進んだところに彼女の墓はある。
僕の1週間だけ妻だった人の墓が。
黒色の墓石の下に彼女は眠っている。
今日で一回忌なのだ。
涙は彼女が亡くなった時に涸れてしまったのかもうでない。今では悲しいという感情すらなかった。結婚旅行で事故に巻き込まれるという最悪なパターンで、将来を誓いあった相手を亡くしたのに。
結婚生活は短かったが楽しかった。それゆえに突然失ったときの悲しみは大きく、人格に影響を与えるほど大きな出来事だった。
僕にはもう悲しいという感情はない。僕はもう彼女の死を嘆くようなことはしないし、嘆くような感情も持ち合わせていない。そのことを悲しいとも思わない。
彼女の墓石の前に、薔薇の花束をそっと置いて冥福を祈った。置いたその花は彼女が好きだった花であるのと同時に僕の最後の悪あがきだった。
薔薇の花言葉は『愛』。
彼女のことを想えない代わりに、そこに彼女への愛だけを置いて行く。沢山の薔薇と共に。
「まだ立ち直れてないけどさ、少しは前向いて生きてくよ」
その時一陣の風が吹いて薔薇の花束がなびいた。それが、頑張ってという彼女の返事である気がして、それだけで満足だった。