プロローグ4
アルマは、追い詰められていた――。
既に脚部は焼け爛れ始めていて、直に使い物にならなくなる。伸ばされた爪先があと僅かで石畳に触れたとしても、その表面を蹴って敵を振り切るどころか、自らの体重すら支え切れずに、下半身から瓦解して醜悪な姿を再度晒してしまいそうだ。
ネクロマンシーの禁術を無効果された現状で、〈メビウス〉に対抗する定理の解を早急に得なければならない。
だが、それには問題点があった。
「術式――走査」
術式走査の並列処理は人の限界を遥かに超える。
人が「神域」に迫る唯一の可能性として、その概念自体は旧くから存在するが、実際に成功した術者は誰もいない。
何故なら望んだ解を得る前に、脳細胞が高負荷に耐えきれず、重度の高機能障害を負って廃人と化してしまうからだ――。
だからこそ“敵”は、〈加速〉中の反撃は一切ないと切り捨て、あからさまに油断した姿を今はアルマに晒している。
〈メビウス〉発動後、アルマの〈加速〉による時間軸から、まさに一撃離脱していった蒼銀の少女。
躯にフィットした深蒼を基調としたブラウスの上から、淡くグラデーションのかかった蒼色の長布を腰に巻き付けマキシ丈のプリーツスカートを形作り、残された部分は左肩から垂らして右腰辺りにペチコートで留めている。
首と両手首には細く様々な径の装飾リングが幾重にも重なり、銀色に光っていた。
〈加速〉の世界の外に戻った蒼銀の少女の姿は、微動だにもせずに隙だらけで、ひどく無防備に見えて頼りなげだ。
仕掛けるなら、このタイミング以外にない。
死人であるアルマには、負荷に対する耐久性の問題はおそらくはクリアできる。
例え脳細胞が高速処理による排熱で灼け尽き、脳神経のネットワークがズタズタに寸断されたとしても、再生は可能だからだ。
ただしそれには、先にも記述したとおり、やはり〈メビウス〉によって無効果されている、ネクロマンシーの禁術を再起動させなければならない。
ここで、この難問はループする。
アルマにはしかし成算があった。
“敵”がアルマにとって逃れようのない瞬間を狙った事が逆に幸いした。常人であれば〈加速〉の効果が消え失せる前に躯が燃え尽きてしまうだろうが、アルマの死人であるが故の特殊性はこれを絶好の機会に変え得る事ができるのだ。
〈加速〉という名の解の限界――その“果て”への到達。
それこそが、アルマが“一瞬”の閃きに因って得た構想の必要条件であり絶対条件。
その限定的状況下に於いてこそ、活路は拓ける。
〈メビウス〉の能力が何か特定できない現状で、ネクロマンシーの禁術にリセットを掛けるには、一般定理と禁術の組み合わせによって、“敵”の攻撃に対する一種の自己保持回路を作る以外にない。
つまり完全に無効化はできないから、“敵”の攻撃を受ける前の禁術の式に自動修復する為のバイパスを開くのだ。
体細胞の蘇生さえ再び成れば、あとは脳がオーバーロードに悲鳴を上げようが構わず攻撃用定理の術式を走査、〈加速〉が終わる前に“敵”に向けて発動させればいい。
問題は容量不足をどう解消するかだ。
〈加速〉に加えあと一つの解までなら、禁術による力業の体細胞蘇生でぎりぎり凌げるかもしれないが、それでは〈メビウス〉の無効化に対抗し続ける為の自己保持回路を作るだけで終わってしまう。
この状況から脱出するには、更に攻撃用定理の解まで加えて計三つの解の同時運用が必要となるが、そうなれば懸かる負荷も乗数的に増す事は避けられず、最悪の場合は回路を維持する事さえ危うくなる怖れがあった。
禁術に依存した脳細胞の耐久性確保の問題と併せ、アルマの構想は複数の術式走査を同時に展開する事が前提条件となっている。
その根幹部分が成立しなければ、ただの机上の空論に終わってしまう。
彼女はその対抗策も既に捻り出していた。
「連続」を以て「同時」と為す――直列処理の術式走査を以て、疑似的並列処理と為せばいい。
脳細胞の容量及び処理能力の不足分を補う為に、〈加速〉によるブーストアップされた反応速度に因って得られる時間的余裕を、仮想メモリに充てるという発想だ。
アルマにとっての主観的時間と第三者による客観的時間に生じるタイムラグを利用し、術式走査で得られた解を、順次時間差運用する。
これなら、アルマの主観的には例えば二つの術式を連続して走査したに過ぎない結果が、第三者の客観的視点からは二つの術式を同時に走査したようにしか見えなくなるはずだ。
それでも脳を冷却する時間が充分に確保できない為にゼロリスクとは言えないが、懸かる負荷は大幅に軽減されるのは間違いない。
禁術さえ起動できれば、必ず耐え切れる。
耐え切って、再生能力を維持していられるであろう“一瞬”の間にケリをつける。
どのみち、伸るか反るかだ。かなり分の悪い博打だが降りる訳にはいかない。
もう直に〈加速〉の効果も切れる。
このままアルマが何も手を打たなければ、崩れた躯を無防備に晒す事になる。
ケルベロスも再び介入してくるだろう。
逃げ延びる確率は著しく低下する事になる。
それ以前に、このままの状態が続けばいずれにしろ、確実に訪れるであろう“死”から逃れる事はできない。
為らば、回避する為に選択すべき術式は――何れであるか。
〈再生〉ではダメだ。それでは蒼の焔を鎮火する事ができない。逆に、この煉獄に“永遠”に堕ちてしまう怖れがある。
思考はやがて一つの結論に向けて収斂していく。
迷っている時間的猶予はない。
「求め、訴えるは世界の真理、望み、導く解は〈逆行〉也!」
アルマは術式を走査した。
“敵”の攻撃を受ける前の状態へのバイパス――それが〈逆行〉の解だった。
アルマが逃げ延びる為に、必死に考え抜くお話でした。
次話、逆転なるでしょうか。