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3−2緋の姫君

 時は、十五世紀初頭――。


 公的には“ワラキア公国自治領トランシルヴァニア”と呼ばれるその地域は、東欧に位置する未だ独立国家として認知される事のない新興の小国である。

 北に東ハンガリー王国、南にワラキア公国という強国と隣接し、東からはオスマントルコ帝国、西からは神聖ローマ帝国という二大侵略国家の脅威に常に晒されている。

 ブラン城は位置的にも戦略的にも、権勢拡大を狙う各勢力がせめぎ合う最前線にある。

 無血革命による未だ混乱の醒めやらぬ城内には敵国の間諜が多数入り込み、隙あらば内乱を誘発し動乱制圧の為に派遣された義勇軍として大義名分を獲得しつつ、双方最小限の被害に抑えながら自国の手勢をトランシルヴァニアの中枢にまで一気に引き込むべく策謀を巡らしている。

 それは皮肉にも、レオンとジョルジュがブラン城を陥落させたのと全く同様の手法でもあり、正面からの攻城戦による無駄な消耗を避ける為の常套手段として、選択肢の最後に必ず残る作戦でもあった。


 敵味方が入り乱れる混沌としたその状況は、誰かが誰かに無条件で心を許せば即座に寝首を掻かれる怖れが常に付き纏う。

 それは戦場と何ら変わらぬ緊張を強いる、他者への疑念渦巻く極限的閉鎖空間だった。




  ◇ ◇ ◇




「見たか、これが神域の力じゃ。定理を超えた定理、まさに伝承どおりの術式。この世の因果律を司る、神属ならではのことわり。同時にあれだけの数の術式を走らせるなど、完全にこの世のことわりを超えている――さて、ディアナ」


「は。姫様」




 レオンから雫を奪い取ったローゼは、再びソファーに戻って腰を下ろすと、侍女の一人にブランケットを用意するよう指示を与える。




「あの刹那の折り、シズクは幾つリングを開いたかの?」


「発動した攻撃的術式の総数よりジョルジュ様の剣に命中した残数、一四九。その内訳は、火が三一九、水が二六三、土一六一、雷が二八七、風が十九でございます」


「レオンが剣で両断した分を差し引いても、千にも上る数という訳か。まさに一騎当千じゃな。いかに神属といえど、何故なにゆえにそのような事が可能であるか、分かるか?」




 ローゼは、侍女が用意したブランケットで雫の躯をくるむと、自らの膝枕を彼女に与えソファーに横たえさせた。

 やがて、おもむろに乱れた蒼銀の髪に手を伸ばすと、そっと指でき始める。




「アストライア様は――」


「違う!」


「シっ、シズク様は――」




 間髪入れず飛んだローゼの厳しい叱責に、ディアナは内なる動揺を隠しきる事ができなかったが、続く言葉の冷ややかさには、さらにその身をすくませるしかなかった。




「二度も言わせるな。今後はシズクの名で呼ぶよう命じたはずじゃ」


「は、仰せのままに」




 ディアナの返事に満足そうに頷くと、ローゼは室内をゆっくりと見渡す。




「皆もよいか? その方がシズクも喜ぶ」




 それまで二人の会話に取り残されていた人間たちの中で、最も焦れていた者がそこでたまらず声を上げた。

 ジョルジュである。

 彼は、自らはソファーに腰を落ち着けながらも、国主であるレオンにすら席を勧める素振りも見せないローゼの尊大さに対して、内心ではかなりの憤りを覚えていた。




「ローゼ様、その名は一体何処から? それがアストライアの真名なのでしょうか?」


「真名? ま、ある意味そうであるとも言えるし、そうでないとも言えるな」




 噛み付かんばかりの表情で詰め寄るジョルジュを、ローゼは軽くいなす。

 ますますいきり立つジョルジュに、見かねたレオンが会話を繋いだ。




「そう呼んだ方がシズク様が喜ぶのであれば、異存はありませぬな。それよりも我が婚約者殿、シズク様に一刻も早く湯浴みと着替えを」


「今、シエロ達も交えて湯殿と寝室周りを急ぎ仕度させている。それまではこのまま寝かせてやるがよい。見よ、この安らかな寝顔を。実に美しい」


「シズクは湖にて全身ずぶ濡れとなり躯が冷えきっている、このままでは肺炎になる怖れが――」




 冷静さをやや取り戻したジョルジュの言葉に、ローゼはいかにも耐えきれずといった様子で小さく吹き出す。




「これは異な事を申す。シズクはこのように安息の状態であると言うのに、そなた達の目は節穴か」




 ローゼの悪戯っぽさを含んだ口調に、ジョルジュは訝しげな視線を雫に向けると、その双眸を見開いた。 湖水をたっぷり含んで濡れていたはずの蒼銀の髪や、ブランケットから覗き見える衣装は、完全に乾いた状態だったからだ。

 雫の蒼白だった頬には僅かに朱が差し、紫がかっていた口唇にも艶やかさが戻っている。

 その可憐な口唇から漏れる吐息は穏やかで規則正しく、彼女の胸はゆったりと上下していた。




「――…乾いてる。湿ってさえいない。それどころか、完全に血色が戻っている」


「そんな!? 一体いつの間に、どうやって?」




 ジョルジュが茫然と漏らした言葉に、ユーリィが過剰に反応し、声を上げる。




「ディアナ、先程の続きを――」




 ローゼはちらりとユーリィに対して一瞥をくれただけで、それ以上は特に関心を示す事もなく、ディアナに向かって途切れた会話の続きを促す。




「……シズク様は、御自身の躯の周囲に不可視の術式を常時展開なさっています。その結界内に侵入するいかなる攻撃的術式にも反応、これを消滅せしめているのは間違いありませぬ。ですが、その術式構成・運用法はいかなるものか、その限界が何処いずこにあるのか、わたくしには伺い知る事すら叶いません」


「ふむ。やはりその辺りが限界か。では、そうじゃな。つい先刻の言葉ではあまり期待はできぬが、次はユーリィに問おう。

 そなたにならシズクの術式の構成が解けるか? 間近であれだけの数の神域の発動を見たのじゃ。辞書ディクショナリィと呼ばれる力、見せてみよ」


図書館ライブラリィです、姫様」




 ローゼの背後からディアナが、感情の抑揚を抑えた声でやんわりと訂正するが、彼女の主人はそれでも全く悪びれる様子も見せず、小さく顎を上げて鼻を鳴らす。




「アカシックレコードの前ではどちらも塵芥ちりあくたにすぎぬ。大した違いはないであろ」


「以前よりお尋ねしたかったのですが……。ローゼ様はやはり、アカシックレコードへの接触アクセスを許された“認証コード持ち”なのですか? 実はもう、全てを御理解なさっているのでは?」




 ともすれば挑発とも取れる言葉に、固く頬を強張らせていたユーリィが問い返すと、何処かからかうような響きを含んだ声で、ローゼが答える。




「ほう、アカシックレコードを知っておるか?

 そう気安く使えるものではないがな。消耗が激しすぎる。

 神属のように、未来方向からの情報を入手するのも妾には無理じゃ。もっぱら過去方向へのみの接触アクセスしか許されてはおらぬ。もっともそれは絶対的な“容量”の差でもあるが」


「容量?」


「誰でも一度に欲しい情報の全てを入手できる程、便利なものではないという事じゃ。さ、そういう訳で妾も少々疲れておる。続きがあるなら早々に答えよ」




 けだるげにソファーの背もたれに身を預け、肘掛けに左肘でしなだれかかるような仕草でもたれると、眉間にうっすらと皺を寄せ、思わせぶりに小さな溜息を漏らす。

 その仕草は実に優美で、いちいち芝居がかってはいるが、決して嫌みに見せる事はない。


 ユーリィはもし許されるなら、さらにアカシックレコードについての質問を重ねる心積もりでいたが、ローゼの態度がそれを拒絶しているのを知ると、それ以上の追求をあっさりと諦め、気持ちを切り替えた。

 とてもではないが、生半可な無理強いや駆け引きが利くような相手ではない。 今では切れ者の宰相として、他国にまで知られるジョルジュでさえ子供扱いされるのだ。




「畏れながら……。二重螺旋のリングに謎を解く鍵があるのであろうとしか。

 あのような神域ていりは初めて見ましたゆえ、わたしの知識に該当もしくは類似するものではなく。さらには、術式を構成しているのが未知なる文字・言語体系であれば、〈解析〉の糸口すら掴めず――」


「では質問を変えよう。個別に開かれた二重螺旋のリングがほんの一瞬の、可視状態となったのは?」


「シズク様の術式と皆様方がこの部屋の至る処に仕掛けられた攻撃的術式が、相互に作用した結果であると思われます。一方で癒し系などの補助的術式には、あれ程劇的な反応は示さないようです。ジョルジュ様の時がそうでした」


「それはつまり?」


「本来ならそれは自らに向けられる、敵意・殺意の排除が主目的であると思われます」




 ローゼは再び何処からか取り出した飾り扇子を口許で広げると、欠伸が漏れるのを隠した。




「――じれったいの。解析にも満たない考察程度じゃが、まあいい。他には何かあるか?」


「剣に対しては、反応する気配すらありませんでした。おそらく武器・武具全般においても同様でしょう。

 現在シズク様は記憶に混乱が見られ、御自由に神域を使いこなす事できぬ御様子。術式の他に護身のすべがなければ、かなり危険な状態にあると言えます」




 それまで押し黙っていたジョルジュが、二人の会話に割り込んだ。




「なるほど、だから星霜の間を定理による要塞と化したのですね。誰を護衛に付けても不安という事か。悪意のある存在なら、魔力を持たない者でも簡単にシズクを拉致できるし、その気になれば命すら奪えてしまう」


「ふむ、ようやくそこまで辿り着いたか。待ちかねたぞ。まだ材料は出揃ってはおらぬが、解る範囲でよい。ジョルジュ、その先を申してみよ」




 ローゼは扇子をぱちりと音を立て閉じると、ジョルジュに向けてそれを振るった。




「貴女はシズクをいたくお気に召したようですね。それも、彼女をひとときも手放したくない程に。

 さっきの芝居がかった茶番は、シズクには一切手を出すなという警告だった訳です。出しても無駄だと知らしめる為の。それも当然、この城には他国の間諜が多数入り込んでいる」


「神域の術式構成を解析できれば、膠着した戦局を一気に打開できるからの。無論、シズク自身戦力としても申し分ない。だが、対術式に於いては無敵だが武器の類いにはまるで無力。

 手に入れる事ができぬのなら、暗殺に切り替えてくる怖れもある。

 そうなれば我が国にとって大いなる痛手。国内にて至高の神を失えば、この大陸全てをも敵に回しかねぬ両刃の剣。

 今のシズクはわば、最強でありながら最弱。

 誰よりも強き存在であるのにも関わらず、庇護すべき稀有な存在という訳じゃ」




 ローゼの言葉をさらりと継いだ、レオンの次の発言が問題だった。

 室内の空気が一気に冷え、翳りを帯びる。




「何より、この世の物と思えぬ程美しく、魅力的だ」




 それを聞いたローゼが、妖艶なその紅く濡れた口唇から、異様に発達した犬歯を剥き出しに覗かせ嘲笑あざわらう。




「坊ぅぅや。女が欲しくば妾が相手をしてやろう。だがシズクはダメじゃ。他の誰にもやらぬ」




 室内が険悪な雰囲気へと一気に傾いていくのを救ったのは、寝室の扉口に現れたシエロだった。




「ローゼ様、湯浴みと寝台の仕度が整いましてございます」




 頷きをひとつ返して、ローゼはシズクを抱き上げソファーから立ち上がる。




「よいか! これより女神シズクの身柄は、このローゼ=ツェペシュが預かる。女神に仇為す者は何処いずこの誰であれ、ツェペシュ一族をも敵に回すと知れ」




 その迫力に、思わず誰もが息を呑み言葉を失う。




「ではディアナ、後は頼む」




 ローゼは最後に宣戦布告とも取れる、その何者にも有無をも言わせぬ言葉の響きを残してきびすを返すと、雫と二人寝室へと消えていった。

 いつもご訪問してくださり、ありがとうございます。

 お気に入り登録、励みになります。

 読んでくださる全ての皆様に、多大なる感謝の気持ちを。


 緋の姫君ローゼに手を焼いています。後から出てきたのに自己主張が激しくて、どんどん勝手に発言するし、動き回るし、自由気ままで作者のコントロールからも逸脱気味です。

 でも本筋から外れなければ、このまま行こうと思っています。

 キャラが勝手に動いてくれるようになると、物語が生きてくると思うので。

 ローゼ、今ではすっかり作者のお気に入りキャラです。


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