2−4ブラン城星霜の間
最上階の通路は、美術館にも似た静謐な雰囲気を醸し出していた。
採光の為に穿たれている外壁側の天井近くにあるスリットから、柔らかな月灯りが射し込んでいる。
更に壁の両側足許の高さに設置されている、銅製の燭台に刻み込まれた彫金による定理のリングが、一行が間近に差し掛かると即座に反応して、間接照明風に通路を照らし出す。
――すごい、これも定理の力? リング内のあの文字は呪文みたいなもの?
その光景を目の当たりにして、雫の混乱はさらに増す。
やがて通路の最も奥に辿り着くと、一際豪華な木製の扉があった。
おそらくは国の紋章である細やかな浮き彫り(レリーフ)が施されたその扉の両脇には、背の高い侍女が二人立っている。
さらに、彼女たちに対峙するかのように佇む同じ制服姿のやや小柄な侍女が数名。
黒い膝丈のワンピースドレスに同色のタイツと革靴。レースとフリルがたっぷりの白いヘッドドレスとエプロンを合わせた彼女たちの姿は、現代的な日本人である雫の感覚ではとても愛らしく思えるが、向かい合った両者の間に漂うのは一触即発の緊迫した重い空気だった。
「侍女長はいるか? いたら返事しろ、シエロ=ティルリア! これは一体どういう訳だ。こんな場所で何をやってる」
「ジョルジュ様!」
ジョルジュが睨み合う侍女たちの集団に割って入ると、制服とは装いの違う黒のロングワンピース姿の女性が振り返り、ホッとしたような安堵の表情を浮かべた。
だが、それも束の間。彼女はトランシルヴァニア公レオンの姿を認めると、再びその身を固くして他の侍女たちと共に腰を深く折る。
「申し訳ありません、陛下。承った御託けを果たす事叶わず……」
「シエロ、何も言わずとも事情は分かっている。すまなかったな。後は我々に任せてもう下がっていい」
「ですが、このままではっ……! せめて陛下御入室の前に室内の検分を」
綺麗に結い上げられたブラウニッシュブロンドが弾かれたように跳ねた。
シエロはレオンに真っ直ぐな眼差しを向け、自身のやるせない気持ちを瞳で訴える。
その遣り取りに、扉の両脇に立つ背の高い侍女二人が過敏に反応した。
「お待ちください」
「聞き捨てなりませぬな、侍女長」
「ローゼ様の御側仕え我ら十三名」
「その手になる貴賓の間の下拵えを」
「信頼できぬと申されますか」
「それは、我らに信を置いてくださっている主」
「ローゼ様に対する不敬と見做してもよろしいか」
矢継ぎ早に息のあったタイミングで交互に言葉を重ねて、シエロに詰め寄る二人――だが。
「そこまでにしておきなさい二人とも。姫様の御前で畏れ多い」
二人の侍女たちの背後の扉が音もなく開くと、中から現れた侍女が彼女たちを諌めた。
その口調は淡々としてはいるが、誰にも有無を言わせない凜とした響きがある。
黒曜石のストレートボブと瞳を持った長身スレンダーなモデル体型、新たに現れたその侍女は二人を室内に下がらせると、自らは腰を深く折って礼の姿勢を執る。
「申し訳ありませんでした。姫様がお待ちでございます、どうぞお入りください。お集まり頂いた他の侍女の方々もよろしければ中へ――」
扉の奥には、緋の姫君の側仕えたちが六名ずつ向かい合わせに立ち、列を成している。
その中央を先導する黒の侍女に続いて、一行はようやく室内に招き入れられた。
星霜の間と呼ばれるその部屋は、石が積まれた白亜の壁が剥き出しで、贅を凝らした派手さはないが、絵画や家具などの調度品類でセンスよく纏められていて雫の好みに合っていた。
――教室を横に二つ並べた位の大きさかなー。
興味津々で室内のあちこちを見廻す雫の視界に、色鮮やかな緋の色が映った。
「待ちかねたぞ、皆。さ、近う寄れ」
血に染まったかのような紅い髪とドレスを身に纏った緋の姫君は、窓際に置かれたカウチ風のローソファに深く身を沈め、口許を扇子で隠したままそう言った。
彼女は肘掛けに左の肘を軽く置き、深紅色のドレスのスリットから覗く白い脚はすんなりと長く伸びて綺麗に揃えられている。
肖像画のように完成されたその佇まいに、雫は思わず溜息を漏らした。
ただ、ただ――、緋の姫君の艶やかさに見とれるばかりでいた雫は、だから“それ”に気付くのが遅れた。
再び場に張り詰めていく緊張の糸に。
最初に違和感を覚えたのは、レオンのすぐ間近、後ろに控えていたジョルジュの小さな舌打ちだった。
誰もが聞き逃してしまいそうなほんの小さな音だったが、雫の耳にはやけにはっきりとそれが届いた。
強烈な違和感。
何故これ程の違和感を覚えるのか、雫が考える間もなく、ジョルジュは緋の姫君の側近くにまで歩み寄っていく。
「待て、ジョルジュっ」
レオンのやや焦りを含んだ言葉は聞こえる事がなかったのか、ジョルジュは緋の姫君の足許に跪くと、左手を恭しく取って騎士の誓いのくちづけを落とす。
『ローゼ様、皆の目があります。正妃と言えども陛下の御前では御起立を願います』
『正妃ではない。妾はまだ婚約中の身なれば』
『だったら尚更です。これでは国は纏まらない。現にあなたの御側仕えは、誰一人として陛下に頭を下げない。他の者に示しがつかないとは思いませんか』
人の耳を憚りながら小声で交わされる二人のやりとりに、ソファーの後ろで控えていた黒の侍女が色をなして口を差し挟む。
「ジョルジュ様、姫様に対して御言葉が過ぎますぞ。お二方の格を考えれば、むしろ膝を折るべきは――」
「黙れっ、おまえたちのその態度が目に余ると言ってるんだ」
「そうじゃな、控えよディアナ」
「では――!」
緋の姫君の窘めるかのような言葉に、ジョルジュの声音が和らぎ、態度が軟化する。
「時に、ジョルジュ。おまえは近隣の国々にはレオンと並び、少しは名の知れた騎士らしいの。戦に出ていた頃は戦場で遅れを取った事はないそうじゃな?」
「それが、今何か?」
「いや何、妾の眼から見ればまだまだ隙だらけじゃと思うてな」
結論から言えば、ジョルジュに罪はない。
彼に後手を踏ませた相手の卓越したその技量をこそ称賛すべきであり、彼に剣の柄を押さえる暇さえ与える事のなかったその反応速度にただ驚嘆すべきだった。
「ディアナよ、思い上がった坊やの躾は妾がする。事が済むまで黙して見ているがよい」
緋の姫君ローゼ=ツェペシュは、そう言い終えるや否やジョルジュの剣を鞘からスラリと抜き放つ。
「――――――!」
完全に虚を衝かれ、剣を奪われた事を知ったジョルジュはただ屈辱に塗れ、口唇を噛む以外に為す術もなかった。
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