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2−1ブラン城星霜の間

 額に置かれた掌が離れていくと、トランシルヴァニア公に横抱きにされ、それまで心地よく感じていた馬上の揺れが、激しい振動へと変化した。

 馬の駆ける速度が上がったのだと、雫は気付く。それと共に頭の芯が疼く程に痛んだ。躯に熱が籠もっているせいだと彼女はぼんやり思う。

 背筋に悪寒が走り、思わず身震いする。冷気が容赦なく肌を刺す。




「陛下!? 如何されました?」


「アストライア様が発熱なさっている。弱った御身に負担をおかけする事になるがやむを得ん。この斜面を上がれば城まで僅かだ。先を急ぐぞ。後に続け!」




 公爵とイシュトバーンが交わす言葉が、やけに遠く聴こえた。

 瞼をそっと開けると、辺りは既に薄暗く、宵闇が迫っているのが分かる。

 この土地は今の時期、陽が落ちると気温が急激に下がるようだった。

 日本ではもう夏真っ盛りだったのに、寒くて凍えそうだ。




 ――だから言ったじゃない。アストライア? 女神様が熱を出すなんてありえないし。




 雫が熱く細い溜息をゆるゆると吐きながら、公爵の端正な顔を見上げると、雲間から姿を覗かせた月が煌々(こうこう)と、一行の後をずっと追ってきているのが見えた。




『月が紅く見える時は凶事が起こるんだよ――』




 何故だか不意に浮かんだ、遠い昔の記憶。

 地上を照らす三日月がやけに紅く禍々しくて、母の田舎に一人で暮らしいた祖母が、幼い頃によく話してくれた迷信を思い出す。

 躯の震えが止まらないのは、寒さのせいだけではないかもしれない。

 雫の予感は望むと望まざるに関わらず、どんな時にでもよく当たる。




「ですが馬を速駆けさせては、今は姿を消しているあの三頭は、我々を見失わずに後を付いて来れるでしょうか? 畏れながら、殿しんがりの一頭を残していくべきでは――」


「構わん! 真実伝承が事実なら、馬ごときで振り切る事などできるはずもない。何時如何なる時も、使い魔は主の身近に共にある筈だ。城の守りなど苦もなく突破してくるだろう。また、そうでなくてはな。それこそ、アストライア様がアストライア様であられる何よりの証だ。

 これを機に、五月蝿く騒ぎ出すハエ共がどれだけいるか楽しみだ」




 右側面を白い馬で併走するイシュトバーンの問いにそう答えると、公爵は馬に鞭を一度くれ、さらに速度を上げさせた。




「おまえたちこそ、我が“黒竜”の俊脚から遅れるな!」




 声を張り上げ、公爵が再度馬に鞭を入れると、それを合図に後続の騎士達も一斉に鞭を振り上げた。

 馬群の速度は一気に上がり、山間の針葉樹林の間を走る街道にしては整備されている路面を、まるで縫うようにして突き進んで行く。


 雫は右肩を公爵の胸に預け、振り落とされないよう控えめにそっとしがみついた。 大きな掌で掴まれた華奢な左肩が、躯を包むマント越しにも関わらずやけに熱く感じてしまう。

 どうやら熱は上がっていくばかりのようだと、雫は朱に染まった頬に当たる風の冷たさを感じながらそう思った。




  ◇ ◇ ◇




 瀟洒な雰囲気で纏められたその室内空間は、今や戦場にも似た喧騒で満ち溢れていた。

 慌ただしく動き回る、黒の制服に白いフリル付きのエプロンを合わせた侍女たち数人に、窓際に置かれたソファーに座りながら次々に指示を飛ばす、緋色の長い巻き髪に同色の瞳を持った妙齢の女性が一人そこにいた。

 目許のほくろが一際魅力的な彼女は、愛玩用の高級猫を連想させる美貌に、気怠げで退廃的な雰囲気をその身に纏っている。

 だが、その外見的な印象とは裏腹に、彼女は左手に持った飾り扇子で部屋の調度品類を順を追って指し示し、淀みなく差配していく。




「壁に掛けられた絵画類は全て外すのじゃ。ああ、そんな一人でも裏を確認できそうな小さな号数の物はよいであろ。――いや、待て。これ見よがしの罠も“撒き餌”として必要かの? まあ、よい。そのまま続けよ。特に影響がないと思われ、簡単に見つかりそうな場所には、これより以降は隠蔽工作は要らぬ。

 後はそうじゃな、クローゼットや棚の引き出しの裏、ティーカップにソーサーの裏、応接セットの下に敷かれたラグの裏。

 ええい、妾の指示を待たずとも、仕込める処には手当たり次第に仕込んでおくがよい。

 そうそう、寝台の周辺も忘れぬようにな。それから、各扉に窓、侵入経路は必ず抑えておけ」




 ソファーの肘掛けに右肘を付き、手の甲に軽く頬杖を付いたその表情は何処か憂いに満ちているが、彼女の美しさは些かも損なわれてはいない。

 肉感的な弾力ある躯を、マキシタイプの深紅のドレスに無理矢理押し込めながらも、蠱惑的なその魅力を零れんばかりに発散させ続けている。

 そのとめどないフェロモンは、例え相手が枯れた老人であろうと屈服させ、跪かせてしまうに違いない。




「――姫様。おいでになられたようです」




 窓際にいた、長身にスレンダーな体型の、黒髪を顎のラインで切り揃えた侍女が振り返って言った。


 緋の姫君は、扇子を開いて口許を隠すと目を細めて頷く。




「分かっておる。城内に入る前から神気がこのように離れた場所にまで漏れ伝わってくるとは、何とも迂闊な。これでは一介の民草にも容易に気取けどられてしまうのう。厄介な客人を招き入れてくれるものじゃ。

“神属を地に這わす事のできるのは神属のみ”

 最後までかくまい切るなど、到底無理な話であろ。神殺しの礼装でもあれば、退ける事も出来るであろうが」


「畏れながら、少々不用意にすぎるのではないかと。正式には未だこの城は御老公様、ひいては姫様の所有物ものであると言うのに。ツェペシュ一族の不興を買えばワラキア軍が何時でも動く事を、きちんと理解されているのかはなはだ疑問です」


「坊やだからねぇ、可愛らしいじゃないか。だが、それでよい。それでこそ愉しめるというもの。グラスの中のワインの液面に、さて、どんな波が立つであろうな?」


「姫様は人に甘過ぎます。逆賊相手の御婚約など、破棄されてしまえば宜しいものを。気が早くも、あの者が陛下と呼ばれているのを聞くたび忌々しく感じます。何も無血で城を明け渡さずとも、我らは血の一滴から肉の一片に至るまで、全てをツェペシュの御一族様方に捧げるつもりでおりましたのに」


「人の身である者の方が財を成すのが上手だからのう、この辺境の地で何処まで出来るか、暫くは間近でじっくりと見させてもらえばよいであろ。せいぜい贅沢をさせて貰おうではないか」




 長身スレンダーの侍女が悲痛な心情を吐露した言葉を、特に咎める様子も見せずに、緋の姫君は目を一層細めて答える。


 その気配は、飼い慣らされた高級猫のものではない。


 もしも彼女に“牙”があったなら、今は扇子で隠されている紅く濡れた口唇の両端から“それ”を剥き出しにしながら、獰猛な笑みを浮かべているに違いなかった。


 今回もまた、お読み頂いてありがとうございます。

 お気に入り登録も少しずつ増えてきて、嬉しく思っています。

 重ねてお礼を申し上げます。


 雫の全く知らないうちに、様々なフラグがあちこちで立てられています。

 頑張れ、雫w


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