プロローグ1
詩月と言います。初めての投稿、初めてのファンタジーです。いろいろ拙い部分があるかと思いますが、この作品一本に専念して、完結を目指します。どうか、よろしくお願いします。
※時代考証は最低限押さえますが、基本的にパラレル・ワールドでの出来事だと考えてください。
――月齢満ちる時。
それが約束の夜だった。満月から降り注ぐ月光は無限の銀糸となり、歴史あるその小さな教会の影を、古ぼけた石畳の上に落としている。
呼吸を整えながら、両開きの重厚な飾り扉をゆっくりと押すと、年期の入った蝶番が小さく鳴いた。やけに響くその音に、彼はまだ若干あどけなさの残る端正な顔を微かに歪めるが、むろんその動作を途中で止める事はない。
身寄りのない孤児や浮浪者が、雨露と冬の寒さを一時的にでも凌ぐ仮宿として使えるように、この教会の扉は夜間でも鍵が掛けられる事はなかった。
硬い革靴の底を鳴らして教会の中に足を踏み入れると、髪と同色の彼の琥珀の瞳は、一枚の宗教絵さながらの情景に否応なく捉えられてしまう。
月灯り射し込む壮麗なステンドグラスを背景に佇む、等身大のイエス=キリスト像。その足許に蹲るようにして祈りを捧げる純白のワンピースドレスに純白のベールの花嫁姿。
その様が、今にも神に召されてしまいそうな儚さで、彼は思わず娘の名前を呼んだ。
「――…アルマ」
「マテウス様!」
振り向いた娘――アルマ=クリスティンが、花が咲き綻ぶように微笑んだ。声も、そして雰囲気も、まるで砂糖菓子のように甘い。
彼――マテウス=オスヴァルトはたちまちアルマの放つ匂い立つような艶めいた呪縛に絡め捕らえられてしまう。たった数歩の距離でさえもどかしげに駆け寄ると、アルマは自らマテウスの腕の中に飛び込んできた。
「お逢いしたかった! マテウス様」
甘い言葉と態度とは裏腹に、マテウスの腕に伝わるアルマの身体には硬さが残っていた。何時ものような、極上のシルクを思わせるしなやかさはない。
戸惑うマテウスは不安混じりの声音で、再びアルマの名前を呼んだ。
「アルマ……」
「マテウス様。今宵は王都騎士団の正装でわたしを迎えに来てくださるはずだったのでは? もしや選抜試験の結果が芳しくなかったのですか?」
アルマが顔を上げる事はなかった。マテウスの胸元に右の頬を押しあてたままにさりげなさを装い、恋人が身に付けている物を間近で観察する。
装飾品の類は過度に目立ちすぎる事はない。布地は肌触りがよく、染色や縫製の技術は高かった。裁断のセンスや仕立ての程度もよく、王都に向かうより以前の姿に比べれば、垢抜けしているのは間違いない。
だが、それはアルマの待ち望んだ騎士の正装ではなかった。
シャツにジャケットとサー・コートを併せ、膝丈のパンツにタイツのありふれた姿。
「すまない……」
消え入りそうなマテウスの言葉に、アルマの肩が小さく震えた。
「できればわたしもそうしたかったんだが、理由もなく隊から外れて騎士服のまま王都を離れるのは許されていないんだ。これは一般市民の帯刀を規制するためでもある。仮に許可を求めてもかなり時間がかかるらしくてね」
「! ――…それでは」
「ああ、採用された。これで、わたしも王都騎士団の一員だ」
「では、御生家であるオスヴァルト商会の後を継がなくてもよろしいのですね」
「いかに豪商とは言え、地方の一商人にすぎない父の圧力など王都にまでは届くまい。生活の糧も確保した。これで、おまえとの結婚を阻む障害は何もない」
くちづけ。そこでようやくマテウスにアルマの口唇が与えられた――そう、まさしく与えられたのだ。
だが、アルマの巧みな舌使いと蜜のように甘さを含んだ唾液に、脳髄の芯まで痺れさせたマテウスには、それはとるに足らない些事にしか過ぎなかった。
「その花嫁衣装は自分で用意したのかい? もっとよく見せてくれないか」
「はい……送金して頂いた仕度金から用立ていたしました」
コクリと頷き、恥じらうアルマの爪先から頭頂部に向かい、マテウスはさっと視線を走らせる。
「とてもよく似合っている。恥ずかしがる事はない」
「似合っているでしょうか? わたしは、マテウス様に相応しい花嫁らしくありたいのです」
ウェーブの掛かった豊かなブルネットと小柄だが肉感的でバランスのとれたアルマの柔らかな姿態を、マテウスはそっと引き寄せる。
「おまえ以外に、わたしの花嫁は考えられない。受け取ってくれるかい?」
ジャケットの内ポケットから手のひらサイズの小箱を取り出して、アルマに恭しく開いて見せる。
「素敵…――」
納められていた翡翠色の宝石の光沢に、小箱の中身を覗きこんだアルマの瞳が煌めく。
「気に入ってくれたようだね。おまえと同じ瞳の色だ。美しいだろう? さあ、手を。わたしに、それを嵌めさせてくれないか」
アルマは左手を差し出し、翡翠の指輪が薬指に嵌められる様を、潤んだ瞳で瞬きもせずに見つめ続けている。
「これで我々の旅立ちは駆け落ちではなくなる。街の外れに馬が繋いである。出かけようか、わたしの花嫁。新婚旅行をかねて、このまま王都へ!」
「はい! マテウス様」
指輪を嵌め終えたマテウスの改めて問うた求婚の言葉に、アルマは即座に答える。
幼いロジック。だがそれ故に、ロマンチシズムを感じさせる言霊となり、二人を酔わせた。
手に手を取り合って、飾り扉に向かった、その時。
ポッ――と。
蒼い焔が灯った。そして一気に燃え上がる。
アルマの躯が。
「ギッ! イッイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア―――――――――ッ」
呪詛にも似た断末魔。
髪と爪、そして肉が焼け焦げ、アミノ酸から発生する硫黄が悪臭を撒き散らす。
マテウスは振り払われた腕もそのままに、立ち尽くしていた。
ただ、茫然とする以外に何の術も持たなかったのだ。
ただ、胸を吐く嘔吐感に耐えるしかなかったのだ。
『アルマは生きながらにして、地獄の業火に灼かれた』
ただ、その思考がもたらす恐怖に、マテウスは慄然とするしかなかった。