第50話。時計仕掛けの残照と、母が遺した最後の針。
第50話:時計仕掛けの残照と、母が遺した最後の針
「アサヒ、僕の隣を離れないで。何が来たって、僕が君の無敵の盾になるから!」
右隣に立つソルが、私の右手をその細い手でギュッと、痛いほどに強く握りしめてくれた。
朝、目覚めたときは神々のプログラムによって私の顔を忘れられていても、今の彼の魂は、本能で「アサヒを絶対に誰にも渡したくない」と熱く叫んでいる。
その一途で不器用な手のひらのぬくもりが、私の胸を優しく締め付けたとした、まさにその瞬間だった。
ゴ、ゴゴゴゴゴゴゴ……!!
聖女の隠れ家全体が、まるで巨大な生き物が身震いをするかのように激しく揺れ動いた。
大きな暖炉の奥、カチリと音を立てて回転を始めた茜色の時計の文字盤。
そこから溢れ出した光は、もはや部屋を照らすレベルを超えていた。凄まじい重力のような引力が、私たちの身体を容赦なく暖炉の奥へと引きずり込もうとする。
「くっ、光の魔力が……時空の歪みに呑まれていく……!」
アレン様が白銀の魔導衣の裾を激しくなびかせながら、必死に杖を地面に突き立てて防壁を展開しようとする。
しかし、その黄金色の双眸には、明らかに焦りの色が浮かんでいた。
世界の理を超えるレベルの時空の奔流を前にしては、高名な魔導士であるアレン様の魔力をもってしても、抗いきれない。
「アサヒ! 手を離さないで……絶対に、離さないでっ!」
ソルが少年の必死な声を張り上げ、私の手を文字通り壊れそうなほど強く握りしめる。
けれど、そのソルの身体からも、黄金の『朝日の魔力』が粒子となって、暖炉の奥のゲートへと吸い取られていくのが見えた。
「ソル! アレン様――!」
私の叫び声は、鼓膜を破らんばかりの轟音にかき消された。
次の瞬間、私たちの足元の床が、まるでガラスのようにパリンと砕け散った。
重力から解放され、私たちは三人揃って、茜色のまばゆい光が渦巻く『始まりの時空ゲート』の深淵へと、真っ逆さまに落ちていった。
――どれほどの時間が経ったのだろう。
1秒のようでもあり、100年のようでもあった。
気づけば、私はどこか奇妙な空間の中に、ぽつんと一人で立っていた。
足元には、透き通った水面のような床が広がっている。
見上げれば、空は異様な光景に染まっていた。
東の空には、目も眩むような鮮烈な朝日が昇っている。
しかし、西の空には、血のように赤い夕日が同時に沈もうとしていた。
一つの空に、始まりの光と終わりの光が同時に存在している。
それだけではない。空のあちこちに、巨大な『時計の歯車』のような透明な紋様が浮かび上がり、ギチ、ギチと、軋んだ音を立てて逆回転を始めていたのだ。
「ここは……どこ……? アレン様? ソル?」
いくら叫んでも、二人の姿はどこにもない。ただ、
私の手には、あの隠れ家で見つけたお母様ユウコの『白紙の預言書』が、いつの間にかしっかりと握られていた。
その時、預言書の白紙のページから、さらさらと茜色の文字がさらに溢れ出し、私の目の前の空間へと浮かび上がった。
それは、文字の形をした、お母さんの『魂の残照』そのものだった。
『過去と他人は変えられない。けれどね、アサヒ。今を変えることは、あなたならできる。未来はいつだって、今のあなたの手が選ぶものよ』
地球にいた頃、お母さんが手作りしてくれたあの絵本。
『あさひとゆうひの、まほうのじかん』
に書かれていた、あの優しい言葉が、私の脳裏に直接響き渡る。
「お母さん……?」
水面のような床に、一粒の温かい涙がぽとりと落ち、波紋を広げた。
その波紋が広がるにつれて、私の頭の中に、これまでどうしても思い出せなかった、前世の『最後の記憶』が、濁流のように一気に流れ込んできた。
あの雨の日。激しいブレーキ音。視界を覆った真っ赤なテールランプ。
トラックが私に迫る中、私は自分の未来を変えることができずに、あの地球での短い生涯を終えてしまった。
私は死の間際、大好きな母を一人残していくことを、自分の運命の弱さを、心の底から激しく後悔した。
けれど、真実は違ったのだ。預言書から溢れる茜色の光が、私にすべての『因果』を見せる。
私が死んだあの瞬間、お母さん――ユウコは、ただ悲しみに暮れて立ち尽くしていたわけではなかった。
お母さんは、娘である私の魂が消え去ってしまうのを防ぐため、そして私の死という最悪の『過去』を裏側から救うために、自らの命と引き換えにして、世界の理を司る『時間の神々』と恐ろしい契約を交わしていたのだ。
お母さんは、私よりも先に、この異世界へと転生していた。
そして、この世界に存在する『朝日の国』と『夕日の国』の精霊たちの力を借りて、時空を超えるための完璧なシステムを作り上げた。
すべては、後からこの世界に令嬢アサヒとして転生してくる私の魂を迎え入れ、神々の追手から守り抜くために。
お母さんが作ってくれたあの絵本の
「朝日くんと夕陽ちゃんがトンネルですれ違いざまにハイタッチをする」というお話は、単なるおとぎ話ではない。
この世界で『朝日の精霊ソル』と『夕日の精霊クレピュスク(夕陽)』が交わり、世界の理を書き換えるための、命がけの「メッセージ」だった。
「お母さんは……私を救うために、ずっとこの世界で戦ってくれていたんだ……!」
胸が張り裂けそうなほどの愛しさと、切なさが、私の心を埋め尽くしていく。
地球での私は、自分が死んだことをずっと後悔して、お前は無力だと自分を責めていた。
けれど、お母さんは私の未来を諦めていなかった。
今を変える力を、私に託してくれていた。
その時、ギギギギギ……と、空の巨大な歯車が不気味な音を立てて静止した。
中央からピキピキと亀裂が入り、そこから色彩を持たない、圧倒的な「虚無」の光が溢れ出す。
光の中から、幾千もの時計の針を模した槍を背負う、巨大な異形の存在――『時間の神々』の影が姿を現した。
神々は、お母さんが私のために用意してくれたこの世界を「歪み(バグ)」と見なし、すべてを巻き戻して消し去ろうと動き出したのだ。
世界を無に還すための、1秒刻みのカウントダウンが始まろうとしていた。
「――させない」
私は涙を乱暴に拭い、立ち上がった。
私の心の中にあった暗い後悔は、もう完全に消え去っていた。
胸にあるのは、お母さんから受け継いだ、溢れんばかりの愛と、未来を切り開くための強い覚悟だけだ。
「アサヒ様!!」
「アサヒお姉様!!」
背後から、懐かしい声が響く。
振り返ると、茜色の光の結界を破り、アレン様とソルが、ボロボロになりながらも私の元へと駆けつけてくれた。
アレン様は白銀の魔導衣を破らせながらも、その黄金色の双眸に私への強い執着と守護の意志を宿している。
「時空のゲートの最奥か……。君がどこに墜ちようと、俺が必ず見つけると言っただろう、アサヒ」
その大人の包容力に満ちた言葉が、私の震える背中を温かく支えてくれる。
「アサヒお姉様!」
ソルが私の元へ飛び込んできて、再びその細い手で、今度は絶対に離さないと言わんばかりに私の手をギュッと握りしめた。
「神々のプログラムなんて関係ない……!
僕は思い出したよ、お姉様。
地球にいた頃も、僕は君の後ろをずっと追いかけていた、朝日なんだ。今度こそ、僕が君を守る太陽になる!」
少年の瞳には、記憶の呪縛を打ち破った、狂おしいほどの忠誠と愛の炎が灯っていた。
アレン様の圧倒的な魔力。
ソルの本能が思い出した、眩い朝日の光。
そして、この世界のどこかにいるであろう『夕日の精霊』の力。
すべての因果が、お母さんの遺したメッセージの元に、今ここに集結しようとしていた。
「アレン様、ソル。私、もう逃げない。過去を後悔して立ち止まるのは、もう終わりにするわ」
私は二人の手を強く握り返し、空に君臨する時間の神々を毅然と見据えた。
「お母さんは私に言ってくれた。『今を変えることは、あなたならできる』って。神様がこの世界とお母さんの想いを巻き戻して消そうとするなら、私は私の『今』の力で、その時計の針を止めてみせる。……私に、二人の力を貸して!」
「御心のままに、我が光。たとえ神の法に背こうとも、俺の全魔力を君に捧げよう」とアレンが言った。
「もちろん! 僕の光は、全部お姉様のものだから。誰にも邪魔させない!」ソルが言った。
すべての伏線が「ここ」で繋がった。
お母さんユウコが命をかけて遺してくれた、時計仕掛けの神話。
世界の理をひっくり返す、壮絶なバトルの幕が、今、静かに上がろうとしていた。
(待っていて、お母さん。私、絶対に負けないから――!)
アサヒはドレスの裾を翻し、神々に向けて最初の一歩を踏み出した。
(第50話 完)




