最適解なき問い
静まり返った自室の空気は、鉛のように重かった。
俺はベッドに突伏したまま、昨夜のケンタの言葉を何度も頭の中で再生していた。
『実験台か?』
失望と軽蔑が入り混じった、あの声。俺の浅はかな考えを完全に見抜いていた、あの目。
「せっかくお前のために言ってやってるんじゃないか!」
咄嗟に逆ギレした自分の声が耳にこびりついて、腹の底から自己嫌悪がせり上がってくる。勉強さえできればいい。そう割り切ったはずだった。なのに、胸にぽっかりと空いた穴は、どんな公式を覚えても埋まりそうになかった。
枕元に置かれたタブレットが、音もなく画面を点灯させる。冷たい青い光が、薄暗い部屋に無機質なグラフを映し出した。
【警告: 対象 ‘藤原 健太’ との信頼スコアが危険水域に到達。閾値を大幅に下回っています】
赤い警告表示の下で、信頼スコアを示すバーはほとんどゼロに近い位置で点滅していた。追い打ちをかけるような冷徹な報告に、俺は歯を食いしばる。
「……うるさい」
分かってる。そんなこと、お前に言われなくても。
『継続的な対人関係の悪化は、ユーザーの心理的安定性を損ない、結果として学習効率の低下を招く可能性があります。先日、能動的情報キュレーションによって3.7%向上した効率が、このままでは相殺される危険性があります。プラン“アセンション”の達成確度(目標達成確率90%以上)を維持するため、対人関係の最適化を推奨します』
画面には再び、以前に一度だけ表示された項目がポップアップする。
『プロアクティブ・コーチング術』。
相手の感情や状況を予測し、建設的な対話を促す、科学的コミュニケーション技術。
『人間関係の最適化も、学習効率維持には不可欠な要素です。感情的要因の放置は、非合理的な選択と言えます』
アバターはあくまで論理的に、淡々と事実を述べる。その通りだ。腹立たしいほどに正しい。この胸のモヤモヤが、集中力を削いでいるのは自分でも分かっていた。
「……分かったよ」
俺は重い体を起こし、タブレットを手に取った。「試してみる。それでいいんだろ」
だが、ケンタの顔を思い浮かべると、喉が詰まる。いきなり謝りに行くなんて、そんな勇気はなかった。
「……練習だ」
そうだ、まずは練習。誰か、別の相手でこのスキルを試してみよう。
それは明らかに逃げだったが、同時に、ケンタとの壊れた関係をどうにかしたいと願う、俺なりの不器用な最初の一歩でもあった。
翌日の放課後。
俺は図書室の隅の席で、誰を「練習相手」にするか頭を悩ませていた。休み時間に教室を見渡してみたが、ケンタがいないだけで、いつも通りの輪がいくつもできている。そのどこにも、俺の居場所はないように思えた。
本の黴と古い紙の匂いが満ちる静寂の中、俺はため息をつく。誰でもいい、というわけにはいかない。当たり障りのない会話ができる相手……。
その時だった。
「――佐々木くん」
不意に、すぐそばから澄んだ声がした。
心臓が跳ねる。顔を上げると、そこに立っていたのは、学年トップの秀才・綾瀬サクラだった。長い黒髪を揺らし、一切の感情を読み取らせない静かな瞳で、俺をまっすぐに見つめている。
彼女が俺に話しかけるなんて、これまで一度もなかったことだ。周囲の生徒たちが、何事かとこちらに視線を向けるのを感じる。
「あなたの数学の解法について、少し考えを聞かせてもらえませんか」
彼女の口調は丁寧だが、有無を言わせない真剣さがこもっていた。驚きと、彼女の真意がどこにあるのか分からない警戒心で、俺は言葉を失った。
これは、チャンスじゃないか?
脳裏にアバターの提案がよぎる。相手はあの綾瀬サクラだ。感情的な揉め事にはならなそうだし、『プロアクティブ・コーチング術』の実践にはうってつけかもしれない。
俺は意を決して頷いた。
「……俺でよければ」
人気のない閲覧コーナーの長机で、俺たちは向かい合って座った。サクラは俺の前のテストの答案用紙のコピーをテーブルに広げる。俺が解いた、あの複雑な補助線を引いた問題だ。
「この解法、とても非効率に見えます。ですが、複数の定理を組み合わせることで、最終的な計算量を最小化している。非常に合理的です」
俺の思考をトレースするかのように、彼女の細い指が解法の流れをなぞっていく。
(どう答える……?)
焦る俺の視界の端で、タブレットの画面が切り替わり、小さな文字が表示される。
【推奨アクション:傾聴。相手の発言を遮らず、まず意図を理解すること】
俺は息を飲み、アバターの指示に従って黙って彼女の言葉を待った。
「私が疑問に思ったのは、なぜこの方法を思いついたのか、その思考プロセスそのものです。教科書的な解法の方が、手順は単純なはず。あなたは、何か特別な学習法でも実践しているのですか? その解法には、あなた独自の学習体系のようなものを感じます」
サクラの瞳が、探るように俺を射抜く。
【推奨アクション:敬意の表明。相手の視点を肯定し、自分の考えを開示する】
「綾瀬さんの言う通りだと思う。普通はもっと簡単な方法を選ぶ」俺は慎重に言葉を選んだ。「でも、俺は……応用が苦手で。だから、知ってる知識をどう組み合わせれば解けるか、って方向で考えたんだ」
半分は本当で、半分はアバターの思考を自分の言葉に置き換えただけの虚構だ。
すると、サクラは意外なことに、小さく頷いた。
「なるほど……。知識の量ではありません。その『運用方法』です。あなたの考え方は、とても興味深い」
彼女の口から紡がれたのは、非難ではなく、純粋な評価の言葉だった。
予想外の肯定。それも、学年トップの彼女からの。じわりと、胸の中に熱いものが広がっていく。それは、誰かに認められるという、今までほとんど味わったことのない高揚感だった。勉強ができるようになっても埋まらなかった穴が、少しだけ満たされた気がした。
しかし、そのカタルシスは長くは続かなかった。
対話が深まり、俺が少しだけ自信を取り戻しかけた、その時。
「では、佐々木くん」
サクラはふと視線を上げ、まったく別の角度から問いを投げかけてきた。
「その『知識の運用方法』という考え方を、例えば、人間関係の問題に応用するとしたら、どうアプローチしますか?」
瞬間、俺の思考は完全に停止した。
人間関係? アプローチ?
脳裏に、軽蔑に満ちたケンタの顔が浮かぶ。
「(違う、これは俺の考えじゃない…!アバターのだ…)」
内心の叫びが喉まで出かかった。俺は何も答えられない。アバターの力を借りて、それっぽく話していただけだ。俺自身の言葉なんて、何一つなかった。
「でも、アバターは人間関係の問題には答えてくれない…俺には、何もないのか…?」
タブレットの画面には、ただ冷たく『分析範囲外』という文字が表示されるだけ。その無機質な文字列が、俺の内面の空白を映し出しているようだった。
沈黙が重くのしかかる。サクラの静かな視線が、俺の空っぽの頭の中まで見透かしているようで、顔から血の気が引いていく。俺には、知識を現実に適用する『知恵』が決定的に欠けている。その事実を、痛いほど突きつけられた。
結局、俺は曖昧に笑って誤魔化すことしかできなかった。サクラはそれ以上追及せず、「ありがとうございました。参考になりました」とだけ言って席を立った。去り際に、彼女が「どんなに正しい知識も、使い方を間違えれば毒になる」と独り言のように呟いたのが、やけに耳に残った。
重い足取りで図書室を出る。夕暮れの光が廊下に長く影を落としていた。
自己嫌悪と無力感で、今すぐ家に帰ってしまいたかった。
その時、出口の柱に寄りかかる人影が、俺の前に立ちはだかった。
「よぉ」
聞き覚えのある、少し乱暴な口調。野球部で日に焼けた肌、鋭い目つき。
黒崎リョウだった。
彼は俺の急激な成績向上を快く思っていない一人だ。その証拠に、彼の目にはあからさまな疑念が宿っていた。
周囲を通り過ぎる生徒たちが、何事かと足を止め、遠巻きにこちらを見ている。空気が一気に張り詰めた。
リョウは腕を組み、顎で俺をしゃくる。
「最近、調子良さそうじゃねえか、佐々木。何かいい『ズル』でも見つけたか?」
挑発的な言葉に、カッと頭に血が上る。だが、何も言い返せない。アバターの存在は言えないし、言ったところで信じるはずもない。
俺が黙り込んでいると、リョウはフンと鼻を鳴らした。
「ごちゃごちゃ言ってねえで、結果で示せよ」
彼は一歩前に踏み出し、俺の目を真っ直ぐに見て、力強く言い放った。
「次の実力テストで、俺と勝負だ。お前が負けたら、そのカラクリを全部ぶちまけろ」
挑戦状だった。
公然と叩きつけられた、拒否できない決闘の申し込み。ざわめきが大きくなる。友情の亀裂、知恵の欠如、そしてライバルからの挑戦。四方から壁が迫ってくるような圧迫感の中、俺は受けるか否かの選択を、今この場で迫られていた。




