プロテジェ効果の代償
静寂が支配する自室。タブレットのクールな光だけが、俺の顔を青白く照らし出していた。画面に表示された『プラン“アセンション”』の進捗率は、昨日よりも数ポイント上昇している。その数字が、まるで俺自身の価値のように思えた。
スマホの通知ランプが、控えめに点滅している。昨日ケンタから届いた『ゲーセン行かね?』というメッセージ。既読の文字をつけたまま、俺は返信をしていなかった。今はそんな時間は無駄だ。そう判断した自分に、一片の後悔もなかった。
『プランの最適化を提案します』
アバターの合成音声が、思考を遮る。画面には、スタイリッシュなグラフとキーワードが浮かび上がった。
【プロテジェ効果(protégé effect)】
― 他者へ教える行為は、自身の知識を再構築し、記憶定着率を最大化する効果が確認されています。ティーチング対象の選定を推奨します ―
なるほど、教えることで学ぶ、か。脳科学的にも証明されているのか。俺の脳裏に、一度はライバルを思い浮かべたものの、彼らに教えるのは現実的ではない。もっと手近で、都合のいい相手がいることに気づいた。この前のテスト、数学が振るわなかったと嘆いていた、幼馴染の顔が。
ケンタを練習台にすれば、俺の学習効率はさらに上がる。まさに一石二鳥じゃないか。歪んだ優越感が、胸の内でじわりと広がっていくのを感じた。
翌日の休み時間、教室の喧騒は心地よいBGMだった。俺は人垣を抜け、窓際で友達と馬鹿話をしていたケンタに意図的に近づいた。
「よう、ケンタ」
「お、ハルト。なんだよ、昨日は結局返事なしかよ」
少し拗ねたような口調だったが、気にしていない素振りで笑う。俺はそんなケンタの肩を、馴れ馴れしく叩いた。
「悪い悪い。それよりさ、この前のテスト、悪かったんだろ? 俺が数学、教えてやろうか?」
言いながら、自分がひどく寛大な人間に思えた。これはお前のための提案なんだぞ、と。
しかし、ケンタの笑顔がすっと消えた。周囲の生徒たちの笑い声が、急に遠くなる。彼の目が、何か得体の知れないものを見るように、俺を捉えていた。
「……昨日、邪魔すんなって言ったのはお前だろ」
温度のない声が、鼓膜を静かに揺らした。空気が凍る。
「いや、それは……勉強に集中したかっただけで」
「ふーん」
ケンタは腕を組むと、俺を頭のてっぺんからつま先まで、値踏みするように眺めた。その視線に居心地の悪さを覚える。
「……お前、なんか変だよ」
静かな、しかし芯の通った声が続いた。
「俺は実験台か?」
その一言は、鋭い針となって俺の胸を貫いた。図星だった。
(違う、そんなつもりじゃ…! でも、どう言えばいいんだ…?)
言葉が喉に詰まる。見抜かれたことへの焦りが、冷静な思考を奪っていく。何か言わなければ。この気まずい沈黙を破らなければ。
「なっ……なんだよ、それ! せっかくお前のために言ってやってるんじゃないか!」
口から滑り出たのは、最悪の言葉だった。ケンタの目に、失望の色がはっきりと浮かぶのが見えた。彼の唇がかすかに震え、何かを諦めたように、ふっと息を吐いた。
「……もういい」
それだけを言い残し、ケンタは俺に背を向けた。伸ばしかけた俺の手は、行き場を失って宙を掻く。彼は一度も振り返ることなく、友達の輪に戻っていく。俺だけが、教室の真ん中でぽつんと取り残された。
ケンタが去った後、俺は自分の席に戻った。周囲の楽しそうな話し声や、部活に向かう黒崎リョウの「っしゃあ!」という声が、いつもと変わらない活気に満ちているはずなのに、俺にはやけに空虚に響いた。まるで、俺の世界だけが分厚いガラスで隔てられてしまったようだ。
今まで感じたことのない、明確な孤独感。
タブレットを開けば、アバターが示す学習計画の達成率は順調そのものだ。目標達成確率90%という数字も揺るがない。しかし、その無機質な数字と、今しがた失ったばかりの温かい関係性。その埋めがたいギャップに、俺は初めて戸惑いを覚えていた。
放課後の図書室は、紙の匂いと静寂に満ちていた。一人、アバターが表示する課題に没頭していると、不意に影が差した。顔を上げると、そこに立っていたのは、学年トップの秀才、綾瀬サクラだった。
長い黒髪を揺らし、涼しげな瞳で俺のタブレットを覗き込んでいる。
「佐々木くん」
凛とした声が、静かな空間に響いた。
「あなたの数学の答案、見せてもらったわ。あの問題であの解法を選ぶなんて……」
彼女は言葉を切り、少し考える素振りを見せる。見下されているのか? 俺は身構えた。
「非効率に見えて合理的。…少し、興味があるわ」
予期せぬ言葉だった。カンニングを疑われることはあっても、結果ではなく、その過程である思考法に興味を示されたのは初めてだった。驚きのあまり、俺は気の利いた返事もできず、ただ彼女の顔を見つめることしかできなかった。
綾瀬サクラはそれ以上何も言わず、静かに踵を返して自分の席へと戻っていく。彼女が残した言葉だけが、俺の頭の中で反響していた。
自室に戻り、タブレットを起動する。画面の隅に表示された通知に、心臓が小さく跳ねた。
【警告:対象『藤原 健太』との信頼スコアが閾値を下回り、危険水域に達しました】
赤い警告表示が、今日の出来事を無慈悲に突きつけてくる。アバターに問いかけたところで、返ってくる答えは分かっていた。
『感情的要因は、本システムの分析範囲外です』
無機質な合成音声が、俺の苛立ちを煽る。分かってる。分かってるんだよ、そんなことは。
俺はタブレットをベッドに叩きつけた。
「トップ10に入れば、親父もケンタも、みんな俺を認めるはずじゃなかったのかよ!」
部屋に響いたのは、自分の掠れた、情けない叫び声だけだった。学力だけでは、どうにもならない壁がある。万能だと思っていたアバターの力が、急に色褪せて見えた。
その時、ベッドの上で光るタブレットの画面が切り替わった。俺の叫びに応えるかのように。
『現状の社会的孤立リスクを打開する仮説として、対人関係構築スキル群『プロアクティブ・コーチング術』の基礎理論データが存在します。適用しますか?』
無機質なテキストが、俺に選択を迫っていた。友情を取り戻すための、未知のスキル。俺は、その画面をただ、じっと見つめていた。




