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仮面舞踏会で「運命の女性よ」と口説いてくる騎士様、どう見ても私の「旦那様(推し)」なのですが。~「別人になりきって妻を口説け」と部下に唆された堅物騎士団長、正体バレバレな上に愛が重すぎて隠せてません~

作者: 文月ナオ
掲載日:2026/03/02

 

 仮面舞踏会。


 それは年に一度、王城で開かれる、貴族達が待ち望む超人気イベント。


 参加者は全員、目元を隠す仮面をつけることが義務付けられている。


 ドレスはもちろんだが、この日の主役は『仮面』。


 皆、一年かけて作った自慢の仮面を持ち寄り、身分を隠し、あるいは偽り、一夜限りのアバンチュールを楽しむ大人の社交場だ。


 ……まあ、私には関係のない話だけれど。


「……はぁ。帰りたい」


 私は会場の隅、分厚いベルベットのカーテンの陰に隠れるようにして、小さくため息をついた。


 私の名前はイリス・ヴァンデル。


 この国の騎士団長を務める公爵、クルーゼ・ヴァンデルの妻だ。


 ここだけの秘密だが、前世の記憶を持つ異世界からの転生者でもある。


 そして、ここは前世でプレイした乙女ゲームの世界。


 そしてそして、なんと夫は、その推しキャラ。


 状況だけ聞けば、最高の環境!


 ……なのだが。


 今日私がここへ来た理由をまず説明すると、公爵夫人として、顔つなぎのためにどうしても参加してくれ、と夫であるクルーゼ様に頼み込まれたから。


(いや、そもそも身分を隠すために仮面を付けて夜会をしてるのに、顔つなぎってどういうことなの? 矛盾してない?)


 肝心のクルーゼ様は、今ここにはいない。


「今夜は警備の指揮を執る。君のエスコートはできないが、楽しんできてくれ」


 朝、仕事に向かうために屋敷を出ていく彼に無表情でそう言われたのだ。


 クルーゼ様は「氷の騎士」と呼ばれている。


 整った顔立ちに、煌めく銀の髪、そして凍てつく冬の湖のような灰色の瞳。


 仕事人間で、無口で、感情を表に出さない。


 政略結婚で結ばれた私たち夫婦の間には、必要最低限の会話しかない。


『おはよう』『行ってくる』『茶を頼む』『寝る』


 これくらいだ。


 目が合っても、すぐに逸らされる。


 プレゼントを渡しても、「あぁ……」とだけ言って、すぐ自室に持って行ってこもってしまう。


 冷遇されているわけではないけれど、愛されている実感もない。


 いわゆる「白い結婚」というやつ。


 けれど、私は彼を好いている。


 推しキャラだというのはもちろんそうなのだが、それ以前に。


 結婚したのなら、それが政略結婚だとしても、やっぱり愛してほしいし、愛したいから。


 ……ゲームでは彼は、モブに毛が生えたような存在。


 声も、仕草も、ふとした時に一瞬だけ見せる、子供のような純粋な瞳も、全てゲームでは見られなかった、この世界だからこその素晴らしい光景。


 つまるところ、私は今……夫に絶賛片想い中なのだ。


(……せっかく新しいドレスを仕立てたのに、見てもくれなかったな)


 私はグラスの中のジュースを揺らした。


 今日のドレスは、深いミッドナイトブルーのシルク。


 背中が大きく開いた、少し大胆なデザインだ。


 私の地味な顔立ちが少しでも華やかに見えるように色々と工夫したつもりだったけれど。


 見せる相手がいなければ、ただの布切れだ。


 いや、見てほしい相手ならいた。


 でも、見せても彼は何も言ってくれない。


『似合ってる』とか『綺麗だ』とか、その一言だけで、私はスキップで空も飛べるというのに。


「……そろそろ、退出してもいい頃か」


 壁の花として十分な時間は過ごした。


 誰とも踊らず、誰とも話さず。


 このまま誰にも気づかれずに帰ろう。


 そう思って、グラスを置こうとした、その時だった。


「――そこの、美しき貴婦人よ」


 不意に、目の前に影が落ちた。


 低く、よく通る、バリトンボイス。


 驚いて顔を上げると、そこには一人の騎士が立っていた。


 長身だ。190センチはあるだろうか。


 仕立ての良い黒い燕尾服に身を包み、顔には顔の上半分を覆う、黒い狼の仮面をつけている。


 仮面の奥から覗く瞳の色は、薄暗くてよく見えない。


「……私、でしょうか?」


「ああ、そうだ。会場に入った瞬間から、君しか目に入らなかった」


 騎士は芝居がかった仕草で、私の手を取った。


 そして、手袋の上からではなく、手首の内側の素肌に、熱い口づけを落とす。


「こんな日陰で、美しい花が萎れているとは。……私でよければ、水を差し上げても?」


 キザだ。


 鳥肌が立つほどキザなセリフだ。


 普通の令嬢なら、「まあ素敵!」と顔を赤らめる場面かもしれない。


 けれど、私は違った。


 私は、固まっていた。


 なぜなら。


(……え、待って)


 その声。


 その、鍛え上げられた肩幅。


 聞き覚えのある声。


 そして何より、ふわりと漂ってくる、森の木々を思わせる独特なコロンの香り。


(……どう見ても、クルーゼ様なんですけど……)


 間違えるはずがない。


 毎日、朝食の席で向かい合い、同じ屋敷で暮らしている夫だ。


 彼に片想いしている私だぞ。


 仮面をつけたごときで、見間違うはずがない。


 警備の指揮を執るって言ってたのに。


 なんでここにいるの?


 しかも、なにそのキャラ作り!?


「……あの、あなたは?」


 私は動揺を隠して、あえて他人のフリをして尋ねた。


 すると、彼はニヒルな笑み(のつもりらしいが、口元が引きつっている)を浮かべて答えた。


「名乗るほどの者ではない。……強いて言うなら、君の美しさに囚われた、哀れなとりこだ」


(ぶふっ……!)


 吹き出しそうになるのを、必死でこらえた。


 虜って。


 家では「茶を頼む」しか言わない人が、なに言ってんの!?


「……一曲、願えるだろうか。運命の女性(ひと)


 彼は優雅に手を差し出してきた。


 断る理由はなかった。


 というか、面白すぎる。


 この堅物旦那様が、一体どこまでこの「謎の情熱的な騎士」を演じきれるのか、純粋に見てみたくなった。


 私の中の小悪魔が、この演技に全力で乗っかれ! と囁いている。


「……喜んで」


 私はそっと、彼の手を取った。




 ◇◆◇




 フロアの中央へ進み出ると、オーケストラがワルツを奏で始めた。


 クルーゼ様の手が、私の腰に回される。


 ぎゅっ。


 強い力だった。


 普段のエスコートは、触れるか触れないかくらいの、礼儀正しい距離感を保っているのに。


 今の彼は、私を自分の体に縫い付けるかのように、強く引き寄せている。


 近い。


 仮面越しの瞳が、至近距離で私を見つめている。


 ドキドキする。


 ずっと、こんな風に見つめてほしかった。


「……ダンスは得意か?」


「嗜む程度には」


「そうか。……なら、私についてもこれるな」


 彼はそう言うと、情熱的なステップを踏み出した。


 リードが上手い。


 力強いけれど、決して私を振り回すことはなく、まるで私が羽毛になったかのように軽やかに踊らせてくれる。


(すごい……)


 家ではこんな風に触れてこないから、知らなかった。


 彼の腕の中が、こんなに安心感があって、熱いなんて。


 踊りながら、彼の手が背中の開いたドレスの素肌に触れる。


 彼の指先が熱い。


 そこから伝わる熱が、私の体温まで上げていくようだ。


「……君のような素敵な女性を放っておくなんて、パートナーの男は目が節穴だな」


 踊りながら、彼が耳元で囁く。


 吐息がかかって、背筋がゾクゾクする。


 私は少し意地悪な気分になって、彼を見上げた。


「……夫は、仕事熱心な方なのです。私になど興味がないようで」


 私がそう言うと、クルーゼ様の眉間(仮面の下)に深い皺が寄ったのが分かった。


「馬鹿な男だ」


 彼は吐き捨てるように言った。


「私なら、君を片時も離さない。仕事など投げ出して、一日中君のそばに侍るだろう」


「あら。それでは国が守れませんわ」


「国などどうでもいい。……世界中の宝石を集めたとしても、君の笑顔一つには敵わないのだから」


「…………」


 私は絶句した。


 どこで覚えたの、その口説き文句。


 まさか、部下の騎士たちに「女を口説くにはどうすればいい?」とか相談したの?


 想像したら可愛すぎて、萌え死にしそうだ。


 それを、私のために顔を真っ赤にしてやっていると考えたら……キュンで即死しそうだ。


「……お上手ですね。きっと、たくさんの女性を口説いてこられたのでしょう?」


「まさか」


 彼は即答した。


「私は不器用な男だ。……妻一人満足させられない、情けない男だよ」


 ふと、彼の声のトーンが落ちた。


 キザな演技が剥がれ落ち、素の、苦渋に満ちた声色が漏れる。


「……本当は、毎日愛していると伝えたい。その美しい髪に触れたいし、その柔らかい手を握りしめたい」


「……え?」


「だが、怖くてできないんだ。……嫌われるのが怖くて。冷たい男だと思われている私が、急に触れたら、君……彼女は逃げ出してしまうかもしれない」


 君って言ってますよ。


 クルーゼ様の手が、私の指に絡まる。


 恋人繋ぎ。


 震えていた。


 あの、魔物さえ一撃で葬る最強の騎士団長が、私の手を握るだけで震えている。


「だから、こうして仮面をつけて、別人になりすまして……やっと、本音が言える。全く……みっともない男だな、私は」


 彼は自嘲気味に笑った。


「愛する妻に、自分の顔で愛を囁くこともできないなんて」


 ドクン。


 私の心臓が、大きく跳ねた。


 興味がないんだと思っていた。


 でも、違ったんだ。


(……なにそれ)


 愛おしさが、爆発しそうだ。


 今すぐ彼の仮面を引っ剥がして、「私もです!」と叫びたい。


 でも、彼は私を『妻』だと分かってるけど、私は一応『気付いてない』設定だし……。


 もう少しだけいいよね?


 もう少しだけ、この「素直なクルーゼ様」の言葉を聞いていたい。


「……きっと奥様も、待っていらっしゃると思いますわ。その言葉を」


 私が精一杯の声でそう伝えると、彼は嬉しそうに、でも少し切なそうに目を細めた。


「そうだといいのだが」




 ◇◆◇




 何曲踊っただろうか。


 私たちは踊り疲れ、人目を避けるようにバルコニーへと出た。


 夜風が火照った頬に心地いい。


 月明かりの下、仮面をつけた騎士様と、私。


 まるで恋愛小説のワンシーンだ。


 バルコニーの手すりにもたれかかり、彼は私の隣に立った。


 近い。


 肩が触れ合う距離だ。


 彼は私の顔をじっと見つめ、ためらうように手を伸ばし、私の頬に触れた。


「……綺麗だ」


 ぽつりと、零れ落ちた言葉。


「君の夫は、幸せ者だな。……こんなにも美しい妻を持って」


「……夫がいると、なぜわかるのです?」


「そっ……そ、それは……か、勘! そう、勘だ!」


 いやいや、無理無理。


「と、とにかく……君はそれくらい素敵な女性だということだ」


 彼は断言した。


 そして、苦しげに顔を歪める。


「……君は、夫のことを、好き……か?」


「え?」


「……ど、どうなんだ?」


 この人は、なんて不器用で、なんて愛おしい人なんだろう。


「愛しています。今は、私の片想い中ですが」


「なっ!? 両想いに決まっているだろう!!」


 この人、隠す気あるのかないのか、どっちなの?


 でも……嬉しい。


 ――その時、ゴーン、ゴーン……と、鐘の音が響いた。


「……0時だ」


 クルーゼ様が、遠くの時計塔を見上げて呟いた。


 0時。


 それは、仮面舞踏会の終了の合図。


 仮面を外し、魔法が解ける時間。


「名残惜しいな」


 彼は私の手を取り、再びその内側に口づけた。


 今度は、長く、甘く。


 まるで、名残を惜しむかのように。


「……最後に、一つだけ願いを聞いてくれるか」


「はい。何でしょう」


「その仮面を外して、君の顔を見せてほしい。……この一夜の夢を、君の笑顔で締めくくりたいんだ」


 なんというロマンチスト。


 家では本を読みながらコーヒー飲んでるだけの人が、ここまで進化するとは。


 私は小さく頷いた。


「……わかりました。でも、条件があります」


「条件?」


「あなたも、仮面を外してください。……同時に」


 クルーゼ様は一瞬たじろいだ。


「そ、それはっ……」


「断るのなら、私の方もお断りします。仮面舞踏会での仮面は、ドレスや下着と変わりません。女である私にだけ、それを脱ぎ捨てて裸になれとおっしゃるのですか?」


「……しかし……」


 彼は少し震えて、私と目を合わせようとしない。


 クルーゼ様。


 そう呼びたかった。


 けど、彼はきっと勇気を出してこの仮面舞踏会に現れた。


 そして、仮面をつけて私への愛を囁くために、わざわざ私をここに来させたんだ。


 今はまだ、気付いていない振りをしてあげるのも、愛情だ。


 それに……もっと早く私に愛を囁いてくれなかったことが、ちょっとムカつくから意地悪したい。


「……幻滅しないか? 仮面の下の……私の素顔を見ても」


「しません。絶対」


「……約束できるか?」


「はい」


「……分かった」


 私たちは向かい合った。


 時計塔の鐘が、ゴーン、ゴーンと鳴り響いている。


 一つ、二つ、三つ……。


 私たちはゆっくりと手を伸ばし、お互いの仮面の紐に指をかけた。


「……い、いくぞ」


「はい」


「せーの……」


 仮面が外れ、月明かりの下に素顔が晒される。


 私の目の前には、見慣れた、でもいつもより少し耳が赤い、愛する夫の顔があった。


 そして、彼の目の前には。


 彼の妻である、私の顔がある。


 その瞬間。


 クルーゼ様は、私と目を合わせない。


「…………ッ」


 言葉が出てこないようだ。


「ま、まあ!? ……ク……クルーゼ様だったのですかぁ!?」


 私は棒読みで精一杯の驚いた演技をする。


「……イ、イリス……その……」


 彼の顔がどんどん真っ赤になっていく。


 無理もない。


 キザなセリフを連発し、愛の告白までして私を口説きまくっていたんだから。


 公開処刑にも程がある。


「……よかったぁ……」


「へっ?」


「……あなたがクルーゼ様でよかったです」


「イリス……?」


「……あなたのその愛の囁きに心を奪われてしまっていたので、あなたがクルーゼ様でなければ……私は不貞をおかすところでした」


 私はとびきりの笑顔を彼に向けた。


「『世界中の宝石よりも、私の笑顔が見たい』のでしたよね?」


「あ……う……あぁ……」


 彼はパクパクと口を開閉させ、後ずさった。


 完全にキャパオーバーだ。


 いじめすぎたか……。


「……なーんちゃって。本当は気付いていましたよ、あなたがクルーゼ様だということなんて」


 私は舌を出して微笑んだ。


「はっ……!? いつから……!?」


「最初からです。そのコロンの匂い、私がプレゼントしたものでしょう? それに、声だってそのままだし、そもそも、妻である私が気付かないわけがないでしょう」


「~~~~ッッ!!」


 クルーゼ様は両手で顔を覆い、その場にうずくまってしまった。


 大きな体が小さくなっている。


 震えている。


「しかし……どう考えてもバレるでしょうに……。何故こんなことを?」


「……部下が、『仮面舞踏会なら別人になりきって口説けますよ! 奥様も雰囲気で落ちますって!』なんて言うから……」


 な……なんだその部下……。


 それでいけると思ったこの人もこの人だが……。


「恥ずかしすぎる……いっそ殺してくれ……」


「嫌です。死なれたら困ります」


 私はしゃがみ込み、彼の顔を覆う手を優しく退けた。


 指の隙間から、涙目になった灰色の瞳が私を見る。


 可愛い。


 この人、こんなに可愛い顔ができるんだ。


「……幻滅、しただろう」


 彼は消え入りそうな声で言った。


「冷たいやつだと思っていた夫が……こんな、気色の悪いキザな男だったなんて。……私はただ、君に愛されてないと思って……。仮面をつけて、別人になれば愛してもらえるかもと……」


「どうしてそんなに極端なんですか……」


 私は首を振った。


 そして、彼に近づき、そっと抱きしめた。


「……ちゃんと愛していますし、仮面のない素顔でもっと愛を囁いてください。そっちの方が、100倍嬉しいし、萌えます」


「……萌え?」


「あ、えっと、ときめくって意味です!」


 この世界、『萌え』通じないんだっけ。


 でも、伝わったようだ。


 クルーゼ様は、呆気にとられた顔をして、それからゆっくりと、私を抱きしめ返してきた。


 恐る恐るだった手が、次第に力を増し、最後には痛いほど強く。


「……イリス」


「はい」


「……囁いてもいいのか……愛を……もっと、毎日でも……!」


「囁くだけじゃなく、むしろぶつけてください。毎日、私がおばあちゃんになっても」


「……愛してる! 本当は、頭がおかしくなりそうなほど……君を愛してるんだ! 毎日毎日毎日……君の事しか考えられない!!」


 ようやく聞けた。


 仮面越しの演技じゃない。


 素顔の彼からの、本気の愛の言葉。


 私は嬉しくて、涙が溢れてきた。


「私はもう、おかしくなってますよ? でなきゃこんなところで、こんな風にイチャイチャしていませんから」


「……ふっ、ははっ!」


 クルーゼ様が笑った。


 氷が解けるような、とびきり明るい笑顔。


 初めて見た、彼の本当の笑顔。


「負けていられないな……」


 彼は私の顎を持ち上げると、今度は手首ではなく、唇に、深く熱いキスを落とした。


 0時の鐘が鳴り止む。


 シンデレラなら、ここで魔法が解ける。


 でも、私の魔法は解けない。


 むしろ、ここからが始まりだ。


「……帰ろう、イリス」


 彼は私の腰を抱き寄せ、熱っぽい瞳で見つめてきた。


「屋敷に帰って……続きをしよう。この愛を、全て注ぎ込みたい」


「……はい、あなた」


 私たちは夜の闇に紛れ、手を取り合って王城を後にした。




 ◇◆◇




 屋敷に帰り着き、寝室に入った瞬間だった。


 ガチャリ。


 鍵をかけた音が、妙に大きく響く。


 次の瞬間、私はクルーゼ様の腕の中にいた。


 お姫様抱っこだ。


「クルーゼ様?」


「……もう、我慢できない」


 彼は切羽詰まったような声で言うと、私を天蓋付きのベッドへと運んだ。


 ふわりと、シーツの上に私が降ろされる。


 すぐに彼が覆いかぶさってきた。


 月明かりに照らされた彼の瞳は、舞踏会の時よりもずっと濃密な、蕩けるような熱を帯びている。


「イリス……」


 名前を呼ばれるだけで、体が痺れる。


 彼は震える手で、私の頬を、髪を、そして唇をなぞった。


「ずっと、触れたかった。……こうして、君を私の腕の中に閉じ込めたかった」


「……私もです。ずっと、あなたが欲しかった」


 私が素直に伝えると、彼は嬉しそうに目を細め、そして深いため息をついた。


「今まで待たせた分……覚悟してくれ」


「え……?」


「今夜は、朝になるまで……いや、明日の夜まで、愛をぶつけるからな」


 甘い囁きと共に、再び唇が重なる。


 舞踏会の時のキスよりも、ずっと深く、濃厚で、所有欲に満ちたキス。


 ドレスのリボンが解かれる感触。


 私は彼の首に腕を回し、その熱に身を委ねた。


 氷の騎士はもういないし、白い結婚もない。


 ここにいるのは、ただお互いに、愛されたくてたまらない二人だけ。


「……もっと、言ってください」


 再びのキスの合間に、私はねだった。


「あのキザなセリフ、もう一度」


 クルーゼ様は一瞬赤面したが、すぐに愛おしげに微笑んだ。


「……世界中の宝石を集めたとしても、私のその太陽みたいな笑顔には敵わない」


「ふふ、合格です」


 私たちは笑い合い、そしてまた、終わらない愛の口づけを交わした。


 彼がキスマークをつけたら、私もお返しをする。


 吸血鬼にでもなった気分。


「……少し、妬いていた」


「えっ……?」


 私の胸元にキスをする彼がこちらに顔を上げ、見つめてそう言った。


「君が、舞踏会で私を……いや、仮面の男からの好意を否定しなかったことを、妬いていたんだ」


「……だから、それは言ったでしょう? 最初からあなただと気付いていて……」


「そうだが……! そうだが……それでも、嫉妬してしまったんだ、自分に」


「あなたでなければ、触れられた時点で拒否しています」


 私は彼の両頬を優しく両手で包み込んだ。


「あなただから、好意にも応え、この身を委ねられるのです」


「……イリス」


「本当に可愛い人ですね。あなたは」


 再び深いキスを交わす。


 彼の唇にさえキスマークを作ってしまいそうなほど、深く熱いキスを。


 仮面はいらない。だって、素顔のままで、十分すぎるほど甘いから。


「来年の仮面舞踏会、どうします?」


「行かない」


「良いのですか? また仮面をつけて愛を囁かなくても」


「ここでこうしている方がいい。明日も、明後日も、来年も、再来年も」


 お知らせします。


 ヴァンデル公爵家は、来年以降の仮面舞踏会のお誘い、全てお断りします。


 ここでこうしてずっと、愛に抱かれていたいので。


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