第1話 悪役令嬢に転生してまず、家計簿から
あの日も、終電だった。
駅のホームは冷え込みが強く、私の足元にはすでに黒く凍った雪がへばりついていた。
胸ポケットには、コンビニで買った見切り品のサンドイッチ。レジ横の値引きシールを何度も見直して、ようやく買った198円の晩ごはん。
「もう……二月だよ。寒すぎ……」
吐く息は白く、身体の芯まで冷え切っている。
残業、残業、残業。終電で帰ってシャワーを浴びて、気づけば午前二時。睡眠時間は三時間。
今日も、明日も、その次も。
“これが普通”になったのはいつからだったっけ。
国立大を出たのに、大手には全部落ちた。
面接で「氷河期なので厳しかった」と言ったら、「言い訳ですか?」と鼻で笑われた。
ようやく内定をもらったのは、社員20人足らずの小さな商社。
給料は手取り14万。家賃と交通費を差し引いたら、毎月使えるお金は4万円もなかった。
それでも、生きていくしかなかった。
親には頼れない。恋人もいない。結婚? 出会いすらない。
投資? 貯金? なにそれ、美味しいの?
年金の支給開始がまた延期になるって聞いたときは、本気で未来が怖くなった。
日々の仕事も、評価されない。
上司のミスをかばって、部下に怒られて。
それでも「私は間違ってない」って、自分に言い聞かせながら、毎日を耐えた。
ああ、そうだ。
社会保険料高くなりすぎ。もう生活できないよ。
通帳の残高を見て、ため息が出た。先月よりマイナス5,000円。
何もしてないのに、何かが奪われていく。
生きてるだけで、お金が消えていく。
(こんな人生……私、間違ってたのかな)
ふと、そんな考えが頭をよぎった。
足元のマンホールが光った気がした。
次の瞬間、視界が真っ白になった。
目を覚ましたとき、私はふかふかのベッドの上にいた。
天井には見たことのない彫刻が施されていて、壁は白い石と金色のモールディングで飾られていた。
手触りの良すぎるシーツ。起き上がると、絹の寝間着がするりと肌をなでる。
「……ここ、どこ?」
そうつぶやいた私の声は、いつもより高く、柔らかかった。
扉が音を立てて開き、ひとりの少女が飛び込んできた。
レースのフリルをたっぷりあしらったドレスを着て、栗色の髪を二つに結んだ、まるで絵本から出てきたようなメイド。
「お、お嬢様っ! ご無事で……っ!」
少女――ミリーと名乗るメイドは、涙を滲ませながら私に抱きついてきた。
そのとき私は、完全に確信した。
(……これ、転生してる)
鏡に映った自分は、金髪碧眼の美少女。
身体は10代前半くらい。だけど頭の中は、32歳ブラック企業勤めアラサー女子のまま。
状況を整理すると、私は侯爵家の長女「セリーナ・ミルフォード」として生まれ変わったらしい。長女とは言っても跡取りの兄と妹がいる。
しかもこのセリーナ、貴族界隈では“悪役令嬢”として有名だった。浪費癖と高慢な性格で婚約破棄され、没落寸前の実家に戻され、倒れて高熱を出していた……らしい。
(ってことは、あれか。死んで入れ替わったパターン)
アラサーの理屈っぽい脳みそは、すぐに情報を分析した。
私が今いるのは、領地にある屋敷。とはいえ経済状況は思わしくなく、もはや“没落寸前”。
メイドの人数も減らされ、馬車も修理できず、食卓の品数も明らかに減っているという。
つまり、私が最初にすべきことは――
「ねぇミリー、この家の帳簿って、見られる?」
「え……帳簿、ですか?」
「うん、支出とか収入とか、家の経済状況を知りたいの。あと、台所の備蓄も確認したい。お米ってある? あ、米じゃないか。主食はパン? 麦?」
ミリーがぽかんと口を開けた。
「せ、セリーナお嬢様が……そんなことを……?」
「うん。ちょっと色々、考え直したいの」
私の目には、あの月末の通帳がはっきりと浮かんでいた。
もう、あんな風に、何もしなくてもお金が減っていく生活はいやだ。
「まずは、収支の見直し。次に支出の削減。節約は、私の得意分野よ」
私はベッドを降り、袖をまくった。
「悪役令嬢? 浪費家? そんなの、全部過去の話。今の私は――」
言いかけて、口角を上げた。
「“節約令嬢”よ。覚悟しなさい、家計簿」