選択
「あ~あ、あともうちょっと長めに切っておいてくれればなあ。」
佳代はそう呟きながら、美容院からの帰り道を歩く。
左手には百貨店で購入した化粧品のショップ袋が握られ、右手で前髪を抑えるようにして歩いていた。
あの美容師、私にはちょっと個性的すぎるんだよね。私は篠原ともえか!
アラサーにしか分からない感覚で先ほどの美容師に突っ込み、佳代はため息をついた。
花音ちゃんは、篠原ともえって言ってわかるのかな。
唐突に疑問が湧いてきた。
花音ちゃんとは、最近入社してきた新卒の後輩で、佳代とは10も年が違った。
肌も髪も若々しく、キラキラと輝いて見える。垢抜けた今風の雰囲気を纏っている彼女は、佳代には羨ましく思えた。
佳代は一人、コーヒーショップに立ち寄り、カウンター席でホットラテを手に、一口こくりと飲んだ。
お一人様だと、大体席取りに困ることはない。ラーメン屋でも焼き鳥屋でもカフェでもどこでも、一人席は回転も早いし、佳代はそういう楽さが気に入っていた。
アラサーか。もう明日で33なんだけど。寧ろアラサーじゃなくてアラサーティーファイブって感じの気持ちだわ。
そんなことを思いながら、窓の外をぼーっと眺めていた。
すると、隣の空席に男性が座った。そして、視線を感じる。
外が暗くなったので、前のガラスにはこちら側がしっかりと映り込んでいる。
ふと、隣の席に座った男性のほうに目をやった。
「千堂さん。」
柔らかく、優しい口調で佳代を呼んだのは会社の後輩の矢野君だった。
「矢野君!なんで?」
「いやー、ここ入ろっかなーって店見てたら、千堂さん座ってたんで。隣空いてたし!」
「えー!びっくりしたー!」
「ていうか、前髪切りました?」
「うわー、今一番気にしてるんだけどそれ。」
「良いじゃないですか。結構似合ってますよ。」
「そうかな…ありがとうって言っとくわ。」
矢野くんは8個下の後輩で、花音ちゃんの教育係だ。
二人が仲が良いのは部署でも有名で、付き合っているんじゃないかと噂が立つほどだった。
花音ちゃんが入ってくる前は、私が一番矢野くんと仲良かったのにな。
「すみませんなんか。お休みの日にまで後輩の顔見せちゃって!」
「えー。全然良いよ!寂しく一人でコーヒー飲んでただけだし。」
「本当ですかー?この席誰かのために空けてたとかじゃないですよねー?」
そう言って矢野くんは周りを見渡す素振りを見せる。
「ないない。そんなのいたら、普通に言ってるよ。」
矢野くんは笑いながら「せっかく美人なのに勿体ないー。」と軽くお世辞を言う。そして、「ま、俺も一人なんで安心してください。」と、冗談めかしてまた笑う。
矢野くんは、いつもこんな風に気軽に話せるし、笑わせてくれるし、冗談でも綺麗だって言ってくれる。
どうしてこんなに年が違うのに惹かれてしまったんだろう。こんなおばさんになってしまっては、望みなんかないって分かっているし、相手もそんな気全くないって分かっている。
だけど、私は矢野くんが結構 好きだ。
「矢野くんなんか、まだ25でしょー?まだまだこれから恋愛楽しい時よねー。」
「何言ってんですか。千堂さんだってまだまだいけますよ。」
「いやいや、もう明日で33だもん。もう最後の最後って感じよ。」
「大丈夫!普通の33より若く見えるし!」
「…大丈夫じゃないんだってば。」
佳代はため息をついた。
「あと少しだけ、若かったらな。」
泣きそうになる。もう次付き合う人が絶対結婚する人になってくれないと。
私にはあとがない。
「じゃあ、俺も。あと少しだけ早く生まれてたらな。」
「え?」
「そしたら、恋愛対象に見てくれました?千堂さん。」
矢野くんの目は少し揺れていた。
あんまりにもじっと見るので瞬きが出来ない。
「明日、一緒に過ごしませんか?千堂さんの誕生日。」
もう後がない。
次に付き合う人は結婚してくれる人じゃないと。
まだ25の彼の手を取りたい。
だけど、これで上手くいかなかったら、きっともう結婚のチャンスはない。
だってもうアラサーティーファイブだもん。
あと、少し勇気が持てたら。
佳代は、優しく笑った。