いろはにほへと
夢で見たものをほぼそのまま描き下ろしました。
「よく来てくれたね」
博物館の日本庭園。和服姿で日傘を差しているサヤさんに呼び出されていた。サヤさんの髪は緩やかにウェーブがかかり、肩にかかる前にカットされていた。
「そりゃぁ、タエちゃんからの頼みですから」
「思ったとおり、よく効くじゃぁないか。さて、それじゃぁ行ってもらおうかね」
「は?」
サヤさんは帯の端から扇子を取り出すと、開き、大きく円を描いた。
「行くってどこに?」
そう答えている間に、サヤさんの数m先に六角形が七つ現れた。中央にはそれぞれ「いろは」が描かれており、右の二つには「にほ」、左の二つには「へと」とあった。
「サヤさん、これはいった」
「ほれ、行っといで」
その言葉とともに、私は六角形へと引き寄せられ、引き摺られ、そして……
倒れた。
「痛ってぇ!」
クレオソートの匂いが鼻を突いた。
「床? え?」
両手を突っ張り、体を起こす。古びた列車の客車。近くにある左右のボックス席には数人の子どもたちが座っていた。
体を叩き埃を落とす。そうしている間に子供たちを観察した。どういう状況であるにせよ、子どもたちは私を見ていた。
「タエ……ちゃん?」
一人の少女に目が止まった。間違いない。だが、その少女は十代前半くらいに見える。
「来たんだね」
別の少女が、窓の外を見ながら言った。その少女の髪は軽くウェーブがかかり……
「サヤ……」
私は戸惑った。この状況よりももっと単純な問題だった。
「ちゃん?」
「その呼び方でいいよ」
サヤちゃんはこちらを向いた。
「てことは、誰かが寄越したんだね」
そうだ。日本庭園でサヤさんが扇子で円を描き……
「それならできるってことだ」
サヤちゃんは立ち上がると、窓の上に張られたロープを引いた。カランカランと鐘が鳴り、私は……
「おあっ!」
バランスを崩し、客車の先頭へと叩きつけられた。
「見てご覧」
サヤちゃんは、さっきまで見ていた方向を指差した。その先には、白黒斑の球体があった。
「今は時間を止めているからあぁ見えるけどね。あいつらのせいで、ここが壊れそうさ」
「ここ? そうだ、ここはどこなんだサヤちゃん」
「時間軌道の結節点。ほらご覧よ」
指差した方向には、何本もの軌道があった。反対側に目を向けると、そちらにも何本もの軌道があった。上に向かい、下に向かい、右に向かい、左に向かい。
「好奇心で聞くんだけどね。あんたを送ったのは私だろう? どうやって開いた?」
開いた? 思い当たるのを「いろはにほへと」だった。
「扇子で円を描いて」
「ふぅん。そりゃぁ、趣味なのかね。まぁ、いいさ。じゃぁ、送るから。結節点を守ってみなよ」
サヤちゃんは人差し指を伸ばし、円を描いた。また「いろはにほへと」が開いた。
「守るって! なにを! どうやって!」
私は引っ張られながら訪ねた。
「あんたにできる方法でかまわないさ」
そして……
倒れた。
「ぶはぁ!」
体を起こす。さっき見ていたのとは様子が違う。白黒斑は薄ぼんやりとしたものとなり、全体的に灰色がかっていた。なにより、風が強かった。
「ここでなにを守れって?」
周囲を見渡す。そして気づいた。上に軌道が何本も集まっている。それが揺れていた。
「せぇのっ!」
私は軌道が安定する様子を思い描いた。
「それにしても、ありゃぁいったい何なんだ?」
白黒斑の球体を見ようとするが、そのたびに軌道が揺れるのを感じる。気にしている場合じゃない。
「せいやっ!」
「おうおう、よくおやりじゃないかい」
聞き慣れた声が聞こえた。
「サヤさん」
「そのまま頑張りな。後はあたしらが片をつけてやる」
「あたしらって?」
「ほれ、頑張りなって」
軌道の揺れを感じ、意識を戻す。
次第に風が弱くなっていく。そして、風がやんだ。
「はぁっはぁっ」
私は肩で息をしていた。
「よくおやりだ。タエのお相手だけのことはあるもんだね」
「サヤさん。えぇっと、僕を送ったサヤさん?」
息を整えるよう意識しながら訪ねた。
「さぁ、どうだろうね」
「あれは…… さっきのあれはなんだったんですか?」
「あれかい? そうさね、迷惑な厄介者共がどういうわけかここに入り込んだってわけさ」
「それで、どうなったんですか?」
「さてね? みんなが勝手に開いたからね。それにあんな状況じゃぁ、どこに狙いを定めたらいいものかもわかるもんかい。どこのいつに飛んでったんなら、運がいいんじゃないかねぇ」
サヤさんは悪戯っ子のような笑みを浮かべた。
「さてと。それじゃぁ、戻してやらないとね」
サヤさんは扇子を取り出し広げた。
「サヤさん! ここは、ここ自体はなんなんですか!」
「あたしらが作り出した秩序さね。長い時間をかけてね」
そう言いながら円を描いた。
引き寄せられる。
「いいかい、『ろ』に入りなよ。悪くても『い』か『は』だ。ほかは絶対ダメだよ」
引き寄せる力が強くなる。
「ほかは、ほかはどうな……」
「混沌かねぇ」
そして……
「痛ってぇ!」
目を開けると、日本庭園に倒れていた。
「おや、お戻りだね。てこたぁ、なんとかなったってことかね」
体を起こし、立ち上がった。
「サ、サヤさん。あそこがなんなのか教えてもらっていません」
「ふぅん。じゃぁ、知らなくていいことなんだろうさ」
サヤさんはまた円を描いた。
「ちょっ」
私は身構えた。
「なぁに。今度は私の番さ」
そしてサヤさんは消えた。
「サヤさん…… そうだ、タエちゃん、タエちゃんなら」
私は駆け出していた。
タエちゃんの部屋の前で、私は息を整えていた。
「よし」
私はタエちゃんの部屋のドアをノックした。すぐにタエちゃんの返事があった。
「タエちゃん、僕だ」
「いらっしゃい。どうしたの? なんだか疲れてヨレヨレに見えるけど?」
「タエちゃん、聞きたいことがある。サヤさんのあれはなんなんだ?」
「サヤ……さん?」
タエちゃんは不思議そうな顔をしていた。
「そう、タエちゃんのお姉さんのサヤさん」
「お姉ちゃん? 私の? なにを言ってるの?」
「いや、いるじゃないか。タエちゃんにお姉さん。サヤさんがさ」
「なに、それ? なんの冗談なの?」
「冗談じゃ……」
言いかけて思い出した。
『なぁに。今度は私の番さ』
サヤさんはあそこに行ったんだ。そして、なにかが起きた。さもなければ、なにかを起こした。
「いない……んだな」
「そう言ってるじゃない。変なことを言うなぁ」
「いや、ごめん。変な夢を見たんだ。それが頭から離れなくて…… 現実と混同してしまった」
「はいはい。お茶くらいは飲んでいけるでしょ?」
「あぁ、そうだな。ご馳走になっていくよ」
私は玄関に入り、ドアを後ろ手で閉めた。
サヤさん、あなたはいったい…… その考えを、頭を降って振り払った。