垂
寒さが柔らぎつつある日の午後
綱豊が照姫に贈った番の文鳥が
白い組木の鳥籠の中で
仲睦まじく戯れる。
その文鳥を見る口実で
綱豊が最愛の妻の
照姫の住まう御簾中御殿を訪れた。
「殿、ご機嫌よう」
淡い桜色の重ねの白い袿が
ふんわり広がり
蓮の花台に座るような
照姫の纏う空気は
華やかで愛らしく
そこにいるだけで綱豊を癒す。
綱豊は蜜に吸い寄せられるように
いつものように隣に座ると
照姫を優しく腕に包み
甘く見つめながら文鳥の様子を聞いた。
「そなたに文鳥は慣れたか?」
照姫は目の前に置かれた鳥籠に手を伸ばし
白くしなやかな指に文鳥を乗せ
潤んだ黒い瞳で綱豊を見上げる。
「はい、文鳥はこんなに人懐こいのですね」
贈った文鳥を
照姫が気に入ったのが嬉しくて
綱豊は言葉を続けた。
「文鳥に名前は付けたのか?」
照姫はちょっと困ったように
自信なさげ。
「織姫と彦星と名付けました」
綱豊は照姫の名付感覚に
少々面食らう。
織姫と彦星…
わたしと照姫が離れ離れになったら
どうするのだ…
照姫は綱豊の反応にしょんぼり。
上目遣いに怖ず怖ずと綱豊に聞く。
「あの…文と鳥丸の方が
良かったでしょうか?」
文と鳥丸、合わせて文鳥。
照姫…それもどうかと思うぞ?
「やっぱり文と鳥丸にしましょうか?」
引いたままの綱豊に
照姫は不安になり
縋るような声で繰り返し
照姫を不安にさせた綱豊は内心慌てて
でも、藩主らしく
夫らしく鷹揚に慰めるべく
にっこりと微笑を作る。
「織姫と彦星、良いではないか。
しかし、何故その名にしたのだ」
「今年の江戸での初めての七夕に
天の川を見たいのです。
織姫と彦星とが会えるよう
願いを込めましたの」
うっとりと天の川に思いを馳せ
手の上の文を愛でる照姫に
綱豊は新たな口実を思いつく。
しかし、
執務の時間が迫っている綱豊は
明日の予定を照姫に伝えなければならない。
「照姫、明日は登城するゆえ
帰宅が昼餉に間に合わぬかもしれぬ。
わたしを気にせず
こちらでゆるりと昼餉をとるが良い」
食いしん坊の照姫を待たせ
空腹を我慢させるのは忍びない。
「はい、殿」
素直な返事をする照姫の瞳が
やはり一瞬嬉しそうに輝くのを
綱豊は見逃さなかった。
深く傷つく綱豊。
見間違いではなかった
照姫はわたしが留守にするのが嬉しいのだ
わたしは照姫と僅かな時間でも
離れるのが辛いのに
照姫、そなたの秘密は何なのか…
綱豊は照姫を問い詰めたかったが
そんな品のない振る舞いをして
東男は不粋と嫌われたくない。
複雑な思いを押し隠して
照姫を抱き寄せた後、
御簾中御殿を出た。
表の執務室に向かう
長い畳敷きの廊下を歩きながら
綱豊はある疑問に気づき
呆然と立ち尽くす。
織姫と彦星…?
もしや、照姫は京で言い交わした公達(上級貴族の青年)がいて
年に一度、天の川を眺めながら
愛を確かめ合おうというのか…
照姫を疑いたくはない
だが、この胸の苦しみ…耐えられない
確かめずにはいられない
執務を終えた綱豊は
大叔父で家老の藤枝を呼び、静かに問う。
「照姫に何か変わった事はないか?」
藤枝は綱豊の祖母の順性院の弟。
三代将軍家光の側室の
美しい順性院に似た
白髪混じりの髪が渋い美男な家老。
藤枝は唐突な綱豊の質問を
怪訝に思いながらも暫く考えたが
深窓の照姫に変わった事など
思い当たる筈もなく。
「特にございませんが
御簾中様は京の御実家との御文や
お届け物が多いように存じまする」
平静を装う綱豊の細面のこめかみが
ぴくりと微かに動く。
京からの届け物が多いだと?
綱豊は疑いを募らせる。
「そうか。
照姫は左大臣様にとって御一人娘。
遠い江戸に嫁がせ御心配なのだろう。
京から使者が来たらわたしにも知らせよ」
沸々と滾る嫉妬の炎が
綱豊を焦がすが
暫く様子を見るしかなさそうだと
綱豊は長期戦に臨む。
一方、京からの届け物が着く度に
櫻田御殿の表で受け取った早川のじいが
照姫の御殿に届けてくれた。
「御簾中様、京より届きました」
両手を合わせて
飛び切りの笑顔で喜ぶ照姫。
「ありがとう、じい。
やっと届いたのね、嬉しい。
待ち遠しかったの」
照姫は漆塗りの文箱から文を取り出すと
軽い足取りで簀の子縁にでて
文を胸に当てて嬉しそうに
咲き始めた白い木蘭を見上げた。
「また奥方を垣間見でございますか?
隠れるなど情けのうございますぞ」
綱豊に厭々ながらも
付き添うじいの田中が
呆れてぼやいた。
京から届け物があったと
報告を受けた綱豊が
庭の松の枝に隠れながら見守っていたが
嬉しそうに木蘭を見上げる照姫を目撃して
綱豊の胸に鋭い恋の痛みが走る。
あの様に嬉しそうな照姫の表情
まだわたしには見せたことはない
「照姫には京に言い交わした公達が
いたのではないか?
あれほど美しいのだ。
恋人がいてもおかしくは無い」
恋に苦しみ絞り出すように呟く綱豊に
田中は溜息をつき宥める。
「考えすぎでございましょう。
御簾中様はまだ十三歳ですぞ」
「照姫は京から文が届く度に
そわそわしているのだ。
恋文以外考えられぬではないか。
何処の誰だ…わたしの妻に…許さぬ」
綱豊は握り締めた拳を
松の枝に叩きつけた。
「奥方を思うお気持ちはわかりますが
まだ政務が残っておりまする。
いい加減部屋に戻りましょう」
田中は埒があかないと
綱豊を宥め賺し連れて帰った。
綱豊は心乱れながらも平静を装い
夕餉の席につくが
照姫はふわふわそわそわ嬉しそう。
微笑みながら京の千枚漬けを
花弁のような口に運び美味しそうにして
それが綱豊の心を剔る。
「照姫、京から文が届いたそうだが」
綱豊が軽く話題を振るが
照姫は驚いて箸の動きが一瞬止まった。
どうして殿はお気付きになるの?
なんとか誤魔化さないと
照姫は心に冷や汗をかきつつ
はんなり小首を傾げ答える。
「はい、京の実家から文とお菓子が
届きました。後ほど殿の御殿に
お届け申し上げます。
御休憩の時にお上がり遊ばされますと
嬉しゅうございます。
お口に合うと良いのですが」
照姫、なぜ一緒に食べようと言わぬのだ
綱豊は落胆し哀しくなったが上辺を装い
会話を続ける。
「そうか。御父上と母宮はお健やかか?」
「はい、お蔭様で変わりないようですわ」
照姫と綱豊は
お互い本心を隠し、にっこり微笑み合う。
その夜、
嫉妬の炎を隠したつもりの綱豊は
夜具に横たわり
照姫を胸に抱き、見つめ
その綱豊の眼差しは
婚儀の頃の思い詰めた眼差しで
照姫を不思議にさせた。
どうして殿はそんな風に御覧になるの?
照姫はいつもの如く
綱豊の体温に温められて
うとうと途切れそうな意識の中で
考えていたが
疑心暗鬼な嫉妬に苦しむ綱豊は
想いを抑えられない。
照姫がまだ幼さを残すので
無理をさせないよう頻度を抑えていたが
恋の痛みに耐えられなかった。
照姫は夫の希望の為すがまま
そのまま綱豊の腕の中で
すやすや眠る。
のほほんと眠る照姫の髪を撫でながら
想いを遂げた綱豊が囁く。
「照姫、そなたはわたしの妻なのだぞ。
わたし以外見てはならぬ」
夢の国の照姫に夫の言葉は届かない。
それから数日後の
麗らかで暖かな日
綱豊が芝浦の甲府徳川家別邸の濱屋敷に
鷹狩りに行くという。
「照姫、そなたの好きな鴨を
土産に持って帰るゆえ
ゆるりと楽しみに待っているがよい」
凛々しい狩装束姿の綱豊は意気揚々と
照姫にそう告げ出掛けたが
見送る照姫が嬉しそうなのを
綱豊は見逃さなかった。
綱豊を見送った照姫は
静かになった部屋で
上臈の秀小路に指示。
「殿のお帰りは夕刻かしら?
ゆっくりと仰ってくださったから
秀、準備をお願い」
「はい、御簾中様。
久しぶりの殿の外出ですわね。
でもお気をつけ遊ばせ」
秀小路が優美な仕草で
道具を並べた準備の整った机で
照姫は京に思いを馳せながら筆を滑らせ
至福の時を過ごす。
でも、まだ日が高いというのに
夕刻まで帰らないはずの綱豊が
帰宅したという知らせが。
綱豊は濱屋敷まで馬を駆って
鴨と鴻を一羽づつ弓で射て
また馬を駆って帰って来た。
綱豊的には
目的を果たして予定が早まっただけ
嘘はついていない。
「殿のお越しにございます」
常磐が照姫の部屋の外で
綱豊の訪れを告げ
照姫は予想外に早い
綱豊の帰宅に慌てる。
「えっ?こんなに早くお戻りに?
みんな早く隠して!」
照姫が書き散らして乾かしている紙が
部屋中に置かれていて
侍女達が急いで回収したが
間に合わなかった。
綱豊が柔やかに足早に部屋に入るなり
畳の上の紙や本を拾う。
「照姫戻ったぞ。ん?これは文か?
この本は…」
綱豊は紙に書かれた文字を読み
本をぱらぱらとめくり絶句した。
照姫が紙に書いていたのは
王羲之の書体で書いた貞観政要の写しに
本は王羲之の書のお手本とされる蘭亭序と
十七帖。
科挙の回答は王羲之の書体でなければ
正解しても不合格だったという。
空海が唐に留学する船が嵐に遭い
目的地外の港に着いた時
役人が書いた書類で入国拒否されたが
空海が王羲之の書体で代筆し
入国許可されている。
「参ったな…」
綱豊は胡座をかいて座り込み
その長い指で額を支えた。
京から届けられていたのは
何処ぞの公達の恋文などではなく
近衛の実家から届いた漢文の名著と
照姫の父の左大臣直々の解説書。
綱豊が嫉妬の炎を燃やした恋仇など
何処にもいなかった。
座り込む綱豊に照姫が恐る恐る聞く。
「怒らないの…ですか?」
綱豊は額を支える長い指の間から
照姫を見る。
「何故怒らねばならぬのだ。
我が妻がこれ程賢いというのに」
そう言うと綱豊は立ち上がり
照姫に近づき抱き上げた。
「まったくそなたは…目が離せぬ。
何故、隠していた?」
潤む瞳が泳ぎ戸惑いながら説明する照姫。
「女が漢籍を学ぶのを嫌う武家の殿方が
いると聞きました。
もし殿がお嫌いな方だとしたら…
禁止されるのが怖かったのです。
でも、上様が貞観政要がお好きと
殿が教えてくださったので学びたくて…
京のおもうさんに内緒で借りて
書き写していました」
綱豊はふっと微笑むと
照姫に優しく言い聞かせる。
「そなたはわたしの妻。
そなたの望む物はこの甲府家で賄うゆえ
遠慮せずに申すが良い。
京の左大臣様にはわたしから御礼をしよう。
それと、これから漢籍の講義があるが
そなたもわたしと一緒に受けるか?」
照姫が信じられないと綱豊を見上げる。
「殿、誠に?誠に漢籍の講義に御一緒させて
くださるのですか?」
綱豊は照姫を覆うように包み甘く見つめた。
「一緒の部屋にいれば
そなたを心配せず(疑わず)にすむからな」
「殿、大好き!」
照姫は嬉しくて
子供のように綱豊の胸に潜り
綱豊の脳内に勝利の花吹雪が舞う。
大好き…照姫がわたしを大好きだと?
やっとまた一つ信頼を勝ち取ったぞ
綱豊は照姫への愛しさと勝利の喜びで
照姫をきつく抱き締めてしまい
照姫が藻掻く。
「殿…苦しい…」
「あぁすまぬ。
そなたが嬉しい言葉を言ってくれたから
つい。照姫、では参ろう」
綱豊は照姫の肩を抱き支えながら
漢籍の講義を受ける応接室に案内。
綱豊の応接室の襖や障子にも
櫻田御殿にちなんだ満開の桜が描かれて
桜の森を通り抜けるが如く
綱豊は照姫を上段の間から
日の光で明るい簀の子縁まで連れて行く。
綱豊の微笑みの向こう側には
庭を囲む満開の枝垂れ桜が咲き誇り
まるで桜の滝のように
庭中を桜色に染め
綱豊に包まれた照姫は
枝垂れ桜にも包まれ
夢の如き美しさにうっとりと見蕩れる。
「照姫、気に入ったか?
父が枝垂れ桜が好きで植えさせたのだ。
ここは陽当たりが良く桜が咲くのが早い。
今日鷹狩りから早く帰ってきたのは
この枝垂れ桜を
そなたに見せたかったから」
鷹狩りからの早い帰宅は
照姫の秘密を暴くのが
一番の目的だけど
綱豊の嫉妬に駆られた腹黒い企みと
花好きの照姫を喜ばせたい想いは
どちらも誠の綱豊の心。
「なんて綺麗な枝垂れ桜でしょう。
殿…嬉しい」
綱豊の優しさと
枝垂れ桜の見事さと
漢籍を綱豊と共に学べる嬉しさに
照姫は涙ぐむ。
「誠にそなたは泣き虫なことよ。
漢籍の講義が終わったら
ここで花見をしながら夕餉にしよう」
綱豊はそう言って
照姫の涙を指で拭き
抱き寄せ桜を愛でた。
日が落ち
広い簀の子縁に緋毛氈を敷き
照姫と綱豊の初めての花見。
綱豊が狩った鴨が羹や旨煮として
艶やかな光沢の黒塗りの膳に上がる。
朧月のような紅い雪洞が
夜桜を浮かび上がらせ
昼の光の中で見た枝垂れ桜とは趣の違う
妖しいまでの美しさに
照姫は心を奪われた。
咲き誇る枝垂桜と
雪洞の淡い灯りが
雛人形の如く美しく愛らしい照姫を彩り
綱豊は隣に座る妻の照姫に心奪われる。
次の日の午後
綱豊から照姫の御殿に
真新しい貞観政要全四十冊と
蘭亭序と十七帖が届けられ
そして、京の近衛邸には
照姫が内緒で借りた書籍一式と
綱豊から御礼として絹の反物と金子が
丁重に贈られたのだった。