初音
照姫の櫻田御殿での初めてのお正月。
照姫は暗いうちから大垂髪を結い
新年を祝うに相応しい
紅に白を効かせた十二単姿に身を包む。
紅梅と白梅が
舞い零れるような美しさは
女神の如く。
松島に手を引かれ
夫婦の居間に現れた艶やかな照姫は
待っていた綱豊の心を時めかせた。
日に日に大人に近づいて
美しくなる照姫に
綱豊は想いを深めていく。
綱豊も裃長袴姿の正装なので
何時にも増して凛々しく
照姫の目に映る。
長い五色の糸の流れる衵扇を持ち
照姫が鈴の鳴るような声で
綱豊に新年の挨拶を奏上する。
「殿、
謹んで初春のお慶びを申し上げまする」
照姫の挨拶を受ける綱豊は
甘く妻を見つめ
柔らかい微笑みで応えた。
母を早く亡くし里子に出され
父にも先立たれた綱豊は
どこか寂しさを纏っていたが
最愛の妻が側にいる正月を迎える今
幸せを纏うようになった。
綱豊と照姫は
新年の挨拶と杯を交わし
新年を寿ぐ膳を共にする。
大きな尾頭付きの桜色の鯛や
関東風のお清ましのお雑煮に
照姫は江戸に嫁いだという実感が湧いた。
江戸の新鮮な鯛の美味しさに
虜になった照姫。
同時に白味噌に丸いお餅の京のお雑煮が
恋しくもあったけれど。
綱豊は照姫の御節料理を食べる表情が
愛おしい。
鯛を美味しそうに口にする時の顔と
馴染みのない醤油味のお雑煮を食べる照姫が
あまりにも分かり易く
それが可愛い。
そして、食事が済むと夫婦で
大広間に向かう。
大広間までの長い廊下を歩く一行。
十二単の照姫が転ばないかと
心配な綱豊は
何度も振り返る。
櫻田御殿の大広間の上段に到着すると
目を合わせながら夫婦で並んで座り
家臣達から新年の挨拶を受ける。
上段に並ぶ若い新婚夫婦は絵の如く美しく
家臣達は思わず息を飲んだ。
十七歳の美しい大名と
十三歳の生きた雛人形のような御簾中に。
主君綱豊の
御簾中照姫への寵愛も眩しく
家臣達の誰もが
この結婚を喜び安堵していた。
無事初めての
夫婦の共同作業が終わると
綱豊は千代田の御城に登城の予定。
綱豊は新妻照姫の美しい姿を
今暫く一緒にいて愛でたかったが
将軍の甥である綱豊は登城して
大名の務めを果たさなくてはならない。
登城の前に夫婦の居間に戻り
暫しの休憩と登城の支度。
照姫が調理法を持ち込んだ
花弁餅を食べ
お茶を飲み身支度を整えると
綱豊は暫しの別れを惜しみ
照姫を腕に包んだ。
「こんなに美しく愛しいそなたを置いて
登城するのは後ろ髪を引かれる思い。
この様な気持ちで登城する日が来るなど」
寂しそうに見下ろす綱豊とは対照的に
照姫は綱豊を見上げのほほんと微笑む。
「殿の御帰還、お待ちしております。
お帰り遊ばしたら御城のお話を
お聞かせくださいませ」
わたしが登城して留守にしても
照姫は寂しくないのか…
相変わらずのほほんな照姫の様子に
綱豊は複雑な気持ちになるが
その気持ちを掻き消すように
照姫を抱きしめる。
「そうしよう。
しかし戻ってからも来客や宴がある。
そなたはゆるりと過ごすが良い。
では行って参る」
照姫は小首を傾げ微笑み
登城する綱豊を晴れやかに見送った。
綱豊が留守の時は
御簾中の照姫は特にする事がない。
御簾中御殿に戻って
いつも通り気儘に過ごす。
お正月なので
侍女達と百人一首をしたり
春をお題に和歌を詠んでみたり。
一頻り遊ぶと
新年の準備で疲れている侍女達に
順番に局で休憩をさせ
御殿が静かになると
照姫はほっとした様子で
ゆったりと脇息に凭れて
可愛らしく秀小路に話し掛けた。
「秀、殿はお忙しいそうなの。
久しぶりに準備して」
秀小路は優美に準備をしながら
忠告も忘れない。
「はい、御簾中様。
でも殿は勘が御宜しいですから
くれぐれもお気をつけ遊ばせ」
「そうね、秀。気をつけるわ」
照姫は叔父の霊元天皇に贈られた
美しい文机で
秀小路の用意してくれた
書き物を始めた。
机に向かう照姫は楽しそうに筆を滑らせ
侍女達の少ない静かな時間は
京の実家の自室で過ごしているかのよう。
京に思いを馳せる至福の時間。
秀小路と交代する乳母の松島が戻っても
照姫はまだ筆を走らせていて
侍女達は微笑み合った。
夕餉も自室で食べ
のんびり湯浴みをして寝支度をして
夫婦の寝室で綱豊を待つ…のだが
綱豊は忙しく待てども来ない。
照姫は布団の上で
うつらうつら舟を漕ぎ始める。
こくん、として我に返る照姫。
いけない。殿はお仕事なのに
起きてお待ちしなくては
でもまだ十三歳の照姫の
普段の就寝時間は早く
本も読めず
唯待つだけの時間に睡魔が襲う。
遂に意識が途切れ、ころん、と崩れた。
綱豊は宴が終わると
急いで入浴をして寝室に来たが
照姫はすやすやと眠りの国に。
睡魔と闘っていた照姫の様子を
常磐や松島から聞かされた綱豊は
照姫の髪を愛しそうに撫でる。
「朝が早かったから眠かったのだな…
遅くなってすまぬ」
綱豊はあどけなく眠る照姫を
寒くないように引き寄せ腕に包み
そっと接吻して眠りについた。
朝目覚めると綱豊がいつもの如く
照姫の頬を掌で包み
甘く見つめていた。
「昨日は慣れない一日で疲れたであろう。
これからはわたしが遅くなったら
遠慮せず先に休むが良い」
照姫は頷いて答える。
殿はいつもお優しいのね
照姫は希望通りの優しい夫で良かったと
ほのぼのと思う。
綱豊は照姫に
昨夜のような無理をさせたくない。
「一月は御城での行事が多い。
そなたを一人にするゆえ心配だが
昨夜のように常と違う事あらば
常磐に相談するが良い」
「はい、殿」
素直な返事をする照姫の目が
一瞬、嬉しそうに綺羅りと輝くのを
綱豊は見逃さなかった。
密かに傷つく綱豊。
わたしがいないのが嬉しいのか?
まさか…
照姫は何か隠している…
恋する本能が照姫の何かに気づき
嫉妬と疑惑が綱豊を襲う。
綱豊が照姫に贈った番の文鳥が
白木の凝った組木細工の鳥籠の中で
仲睦まじく戯れ囀っていた。