歌
江戸時代、雲雀は贈答品で
将軍家綱は雲雀を度々贈っていました
一連の婚礼の儀が落ち着き
御歳暮の手配も終わり
甲府宰相御簾中の照姫の午後は
侍女達とのんびり気儘。
祖父の後水尾院や
伯父の後西院達からの
婚礼祝いの物語を
侍女達に読んで貰ったり
美しい御料紙に
和歌を詠み書き綴ったりと
優雅な時間を過ごしていた。
時折、昼餉の後に
綱豊が庭の散歩に誘ってくれるが
三十五万石の藩主なので
それなりに忙しいらしく
今日は弓の稽古だという。
まだ外は寒く
照姫達は入り側の障子も締め切り
暖かな部屋で和歌を詠んでいると
弓の稽古を終えた綱豊が
照姫の御殿の庭木に隠れながら
部屋の中の様子を窺っていた。
「今日も障子を締め切ったままで
照姫の様子がわからぬ」
悔しそうに松の枝を叩く綱豊。
その綱豊の藩主らしからぬ振る舞いに
伯父でじいの田中が呆れる。
「奥方を庭から垣間見などと。
御夫君なのですから堂々と
御部屋に行かれたら宜しいでしょう」
「そなた達家臣が若い女御を
私から遠ざけたゆえ、
妻とはいえ照姫に
どう話しかけて良いかわからぬのだ!
想いを素直に伝えれば
照姫は固まってしまうのだぞ」
八つ当たりする綱豊に
田中は困ったと黙るしかない。
家臣達は
綱豊が正室を迎える前に
側室をつくられては厄介と
徹底的に若い女を遠ざけた。
それというのも
綱豊は数奇な運命の持ち主だから。
綱豊は父の綱重と側室との間の子で
赤子の時に家老の新見に里子に出された。
綱重が京から正室を迎える直前に。
綱重の正室は
後水尾天皇と中宮徳川和子の間に生まれた
賀子内親王と五摂家二条光平の姫君で
それはそれは高貴な血筋の姫。
綱重に既に子がいると知られれば
祖父母の天皇と中宮の怒りは如何ばかりか。
綱重の兄である将軍家綱の顔にも
泥を塗りかねなかった。
体面を憚り、
跡継ぎ争いにならないよう
綱豊は里子に出された。
ちなみに二条の姫君と
照姫は従姉妹。
結局、二条の姫君は
子の無いまま若くして亡くなったので
綱豊は綱重の跡取りとして呼び戻されたが
綱豊が呼び戻されるに当たり
家老新見に嫉妬した家老二人が
綱豊は偽物と言い張り、お家騒動となった。
家臣達にとって
お家騒動の再来は懲り懲り。
だから
櫻田御殿の女中達の平均年齢は高い。
照姫が綱豊の正室として迎えられ
櫻田御殿に若い女性が大勢入ったので
雰囲気が一気に華やかになった。
しかし
綱重の正室と継室が亡くなり十年近く
若く高貴な女性に
縁のなかった甲府宰相家。
綱豊は正室の照姫に恋い焦がれており
仕事の合間の僅かな時間でも会いたいから
照姫の部屋に通う切欠が欲しい。
田中も綱豊のために知恵を搾る。
ぴーひょろー
鳥の鳴く声が聞こえる。
これだ!
二人は顔を見合わせ頷き合った。
次の日
昼餉の後のお茶を飲みながら
綱豊は照姫に話し掛けた。
「そなたに見せたい物があるゆえ
後程そなたの部屋に行っても良いか?」
「何でしょう?楽しみですわ」
照姫は可愛らしく小首を傾げて
夫の希望を受け入れた。
「この後、政務がある。終わり次第参る」
「はい殿、お待ちしております」
綱豊にはんなりと挨拶をして
照姫は御簾中御殿に戻った。
綱豊の政務が
いつ終わるのか分からないので
照姫は取りあえず
日課の書き物をすることに。
両親に似て筆まめな照姫は
つい書き物に熱中してしまう。
しかし、思いの外早く
綱豊の来訪を告げられ
照姫は慌てた。
「いっけない。秀、
これを急いで書棚の扉の中にしまって」
いつも所作がゆっくりな照姫が
書いた墨が滲まないよう手早く紙を載せ
御座所の茵に座り、何事も無かったように
綱豊を迎える。
「殿、ご機嫌よう」
綱豊は部屋に入るなり照姫を抱きしめるが
視界の端の秀小路が不自然に
書棚の側にいるのを見逃さなかった。
照姫の事となると
特に感覚が敏感に反応する綱豊。
書棚に何かを仕舞ったのか…?
照姫に秘密の匂いがする。
綱豊は胸騒ぎを覚えたが、追々探ろうと
今は見なかった振りをして
老女の常磐に運ばせた布の掛かった箱を
照姫の前に置かせた。
「照姫、布を取って見るが良い。
気に入ると良いのだが」
照姫は綱豊に促されるままに
しなやかな手で
怖ず怖ずと絹の布を取る。
ぴーひょろー
鳥籠の中の雲雀が
美しい声で啼いた。
「雲雀?雲雀ですの?なんて美しい声!
殿、嬉しい」
目を輝かせて雲雀を見る照姫に
綱豊は嬉しくもほっとした。
「そなたが鶴をあれ程喜んでくれたから
雲雀も気に入るのではと思ったのだ」
「殿、忝うございます。
大切にします」
照姫の侍女達も、雲雀の美しい声に
楽しそうにさんざめいた。
これで綱豊は、
雲雀の様子を見に来るという
照姫の部屋に通う口実を得た。
次の日もまた次の日も
僅かな時間ではあるが
綱豊は雲雀を見る口実で
照姫の部屋に通い
照姫を愛でた。
雲雀の世話の手伝いを
照姫の小上臈の菖蒲と菫という姉妹にさせることに。
二人は照姫より少し年下の少女で
簡単な身の回りの世話をさせながら
将来の上臈としての修養を積ませる。
菖蒲が鳥籠に敷いてある紙を取り替え
妹の菫が餌をあげる様子は楽しそうで
美しく着飾らせた少女達は
絵のように華やか。
菫は雲雀と遊ぼうとして
手乗り文鳥のように手に乗せようとした。
それを見ていた母親で侍女の楓が注意する。
「雲雀は手乗りではないのよ。
飛んでいってしまうといけないから
気をつけなさい。
殿からの贈り物は家宝なのですよ」
そう言われても子供の菫は
雲雀が可愛くて手に乗せてみたかった。
「あっ…」
菫は鳥籠の中に手を伸ばして
雲雀を乗せようとしたけれど
菫の手を伝い
勢いよく鳥籠から出て羽ばたき
部屋を飛び回った。
侍女達が雲雀を捕まえようと
部屋は大騒ぎ。
ばさっ
昼餉を終えた照姫が戻ると
顔の近くを鳥が横切った。
今のは何?まさか雲雀?
照姫は
事態を把握しようと部屋を見渡すが
阿鼻叫喚。
運悪く、騒ぎを知らない侍女が
庭に面した入り側から
生け花用の花を運んで来た。
明るい日の差し込む庭の方向に雲雀は飛び
侍女の側を通り抜け開いた障子の隙間から
雲雀は外に飛んでいってしまった。
雲雀を簀の子縁まで追いかけ
見えなくなった雲雀に呆然とする照姫達と
泣く菫と、菫を叱る楓。
「菫、雲雀は殿が
御簾中様に贈られたのですよ。
どうお詫びすればよいのか…」
「ごめんなさい…
だって雲雀が可愛かったの。
京のお家の文鳥みたいに
お手々に乗せたかったの。おたたさん、
私、殿にお手討ちにされちゃうの?
怖い…どうしよう…ごめんなさい…」
ごめんなさいを繰り返しながら
菫は泣きじゃくった。
見かねた照姫が
主として菫に声を掛ける。
「殿はお優しい御方。心配要りません。
菫の失態は主の私の責任。
でもこれからは気をつけなさいね。
慎重であることは
そなたを守るのですから」
母親の楓は
照姫への申し訳ない気持ちと
京の家を懐かしむ娘の不憫さと
解雇の恐怖に襲われていた。
夫を亡くした寡婦である楓は
困窮した家を支えるべく二人の娘と共に
照姫の随行侍女に志願して
生まれ故郷の京を離れ江戸に来た。
もしこの件で解雇されたら
将軍家連枝の不興を買った母娘と警戒され
娘共々、再就職は絶望的。
照姫も楓達の境遇を知っているから
なんとか守ってやりたい。
照姫は
雲雀が戻って来るかもしれないと
一縷の望みをかけ
簀の子縁に餌を置いた鳥籠を置かせる。
照姫の御殿の騒ぎを知らされた綱豊は
密に庭からその様子を見守っていた。
残念ながら
日が沈んでも
雲雀は帰って来なかったと
照姫の警護をさせている家臣から
綱豊は報告を受ける。
夕餉の時も
いつもは、のほほんと食事を楽しむ照姫が
心非ずな儚げな風情で箸も進まない。
御飯を箸の先にほんの少しのせて
梅の花のような口に運び僅かに噛み
ぼんやりと膳に目を落としている。
綱豊は隠れて見ていたとは言えないから
照姫を心配しつつ
いつも通りに食事をする。
照姫に会いたくて雲雀を贈ったが
まさかこの様な事態になるとは…
それに、照姫の部屋を訪ねる次の手は
どうしようか…
そんな事を思いながら綱豊は
吸い物の椀に隠れて照姫を見つめる。
その夜、
夫婦の寝室に向かう照姫の表情は固く
覚悟を滲ませていた。
菫には綱豊は優しいから
心配ないといったものの
照姫は綱豊の事をまだ殆ど知らない。
もしかしたら豹変して
烈火の如く怒り狂うかもしれないのだ。
それに、今回は殿からの贈り物だけれど
これが将軍からの御下賜品だとしたら…
甲府宰相家の名誉に関わり
御簾中である照姫の管理能力と
侍女達の教育不足を問われる失態。
寝室の襖の前で
照姫は深呼吸する。
照姫の到着が告げられ寝室の襖が開くと
其処には綱豊が立っていて
逆光で表情がわからない。
照姫は綱豊を見上げて固唾をのむが
ふわりと優しく抱きしめられた。
「殿、もう…しゎ…」
照姫が謝ろうとするけれど
綱豊の白羽二重の寝巻に
視界と言葉が塞がれる。
「謝るには及ばぬ」
そう言うと照姫を抱き上げ
夜具の上に運び、綱豊の膝の上で
赤子をあやすように腕に包んだ。
「雲雀は啼く時期が過ぎたら
そなたと共に空に放そうと思っていた。
それが少し早まっただけだ。気にするな」
思い詰めた表情の照姫を安心させようと
綱豊は愛おしそうに照姫の頬を掌で包む。
「殿…」
見上げる綱豊の心配そうな微笑みと言葉に
緊張の糸が切れた照姫は気が緩み
涙が頬を伝った。
照姫は菫の代わりに
どんな罰でも受けようと思っていたのに…
夫がこんなに優しい
仁の心ある藩主であることに
照姫は嬉しくて涙が止まらない。
「照姫がこれほど泣き虫とは以外だな」
その言葉に
照姫は涙と感情が溢れて
綱豊の胸に顔を埋める。
綱豊は子供のように泣く照姫に苦笑しながら
照姫の体を横たえ胸に抱き
あやすように優しく背中を撫で
照姫は湯上がりの綱豊の香りに包まれて
いつものように、
いつの間にか眠った。
綱豊は
仄かな蝋燭の灯りに照らされた照姫の
寝顔の涙の跡を指で拭ってやり
午後の簀の子縁で
女主として振る舞う照姫を重ねる。
庭から見ていた照姫は
若干十三歳でありながら
菫を慰めつつ諭していた。
御簾中としての照姫の資質に
綱豊は照姫への信頼と愛を深める。
次の日の午後
綱豊は常磐に鳥籠を持たせて
照姫の御殿を約束無しに訪れた。
鳥籠の中には
番の手乗り文鳥が。
綱豊は魔法使いのように
菫が懐かしむ文鳥を連れて来た。
照姫は嬉しさのあまり
綱豊の胸に飛び込む。
「殿、嬉しゅうございます」
不意を突かれた綱豊は驚いたが
自ら胸に飛び込んでくれるようになった
照姫の変化が嬉しくて
そのまま照姫を袖で包んだ。
「この鳥は逃げぬから安心せよ」
照姫は綱豊の袖の中で
何度も頷く。
菫と菖蒲は
手を取り合って喜び歓声を上げ
母親の楓は
安堵と有り難さで涙ぐんでいる。
乳母の松島、秀小路達も貰い泣き。
それから、侍女達が総出で
厳重に御殿中の扉を閉めると
菫と菖蒲は
綱豊に勧められるままに
小さな可愛い手に文鳥を乗せた。
照姫は綱豊の腕の中に体を預け凭れて
侍女達の幸せそうな様子をうっとり見守る。
遠くで雲雀の啼く微かな声。
綱豊は照姫が愛おしくてならず
腕の中の照姫だけを見つめるのだった。