紅
名実共に夫婦になった朝
綱豊は新婚の夜具の上で、照姫への愛を込めた
櫻田御殿にちなんだ桜の描かれた豪奢な檜扇を
照姫に贈った。
照姫が広げた扇には、桜と近衛の紋の牡丹と
生涯番の変わらない二羽の鶴が描かれていて
照姫は贈り物を貰った嬉しさと
綱豊の生涯照姫だけを愛する宣言に
戸惑い固まる。
綱豊は腕の中の照姫が愛おしくてならず
照姫を見つめ抱いたまま離そうとしない。
朝の支度を自室でする照姫を迎えに来た
照姫の乳母の松島は、そんな綱豊に苦笑しつつ
照姫に純白の袿を着せ掛けてやんわりと
綱豊から照姫を引き剥がした。
綱豊は照姫と離される寂しさに
照姫が扇で顔を隠して立ち去ろうとするその袿の上から、優しく手を掴んで引き留める。
「照姫、昨夜の約束を覚えているか?
昼餉の後、庭に参ろう」
照姫は綱豊を振り返り
にっこりと嬉しそうに小首を傾げ
頷いて部屋を出て行った。
照姫のその仕草が余りにも華やかで愛らしく
綱豊の心は甘く囚われる。
御簾中御殿に戻り
照姫は朝湯に身を沈めながら
またしても不可解な
綱豊の生涯愛する宣言について考える。
妻になった体の羞恥心など吹っ飛ぶ難題。
綱豊様はわたくしだけを
生涯愛してくださると仰ったけれど
どういう意味かしら?
まさか側室を置かないおつもりなの?
それとも側室は妾だから妻ではないと?
大名の殿方に側室がいないなど
聞いたことがないわ…
照姫にとって、この政略結婚は任務。
もし照姫に跡継ぎが生まれなければ
側室をおいて産んで貰わなくてはならない。
照姫はまだ十三歳だが
名門五摂家筆頭近衛の姫である。
夫に側室がいても当然という感覚で
十七歳の綱豊には既に側室がいても
おかしくないとさえ思っている。
溺れそうなほど湯に浸かり悩む照姫を見た
秀小路の呆れ声。
「御簾中様、
そんなにお湯に浸かっていては
ふやけてしまいますわよ」
中々湯殿から出て来ない照姫を心配して
上臈の秀小路が迎えに来たというのに
照姫はお湯を掬っては掌から流しながら
解せぬ想いを零す。
「だって秀、
殿がまた不可解な事を仰ったのですもの」
一夜明けて
さぞ恥ずかしがっての長湯かと思いきや
まだ綱豊の謎々を解いているとは。
秀小路は正妻照姫に片思い中の綱豊が
ちょっと気の毒になり溜息をつく。
「殿は御簾中様に夢中ですのよ。
さぁ、もう直ぐ朝餉にございますれば
お上がり遊ばせ」
秀小路がさらりと謎々を解いてみせ
湯船から上がる照姫の体を
真新しい木綿の浴衣でふわりと包む。
「殿がわたくしに夢中?」
照姫は不思議そうに
秀小路の言葉を反芻した。
照姫は湯殿から部屋に戻り
手間のかかる朝の身支度を整え朝餉を終え
婚礼の返礼品の打合せ等をしていたら
あっという間に昼餉の時間である。
照姫が夫婦の居間に着くと
綱豊が昼餉の膳を前に待ってくれていた。
「殿、ご機嫌よう」
はんなりと挨拶をして席に着くと
照姫の顔が輝いた。
御膳には金目鯛の煮付けと鰤のお造り
ふわふわの玉子焼、根菜の煮物に青菜のお浸しや柴漬け、甘味は羊羹…などが並べられて
どれも照姫の好きなものばかり。
綱豊が膳に箸を付けると照姫も続き
お吸い物の温かさにほっこりしている照姫を
綱豊は甘く見守る。
照姫は綱豊に見つめられて恥ずかしいけれど
食事が進むにつれ美味しさの方に気を取られてしまう。
綱豊は美味しそうに食事をする照姫を見る。
誠に照姫は食べるのが好きなのだな
食事中の照姫の幸せそうな表情も愛おしい
ゆったりと食事をする照姫に綱豊は合わせ
甘味の羊羹を食べ終わりお茶が済むと
甲府家老女の常磐と照姫の乳母の松島に
目配せする。
照姫は松島に付き添われ
散歩の準備をするため照姫専用の隣室に。
照姫は紅を引き直し
侍女達に手早く袿袴道中着を着付けて貰う。
照姫の準備が整い襖が開かれた瞬間
綱豊は桜色に彩られた照姫に釘付けに。
いつもは裾を長く引き摺る優美な袿姿だが
目の前にいる照姫は緋色の切袴に
たくし上げた桜色の袿の軽快な装いで
綱豊は新鮮な衝撃を受けた。
照姫の透き通るような白い顔を
艶やかな光沢の桜色の袿が殊更美しく映し
重ねの淡い草色が柔らかな早春を纏わせ
照姫の愛らしい若妻を薫らせる。
照姫は綱豊の相変わらず絡み付くような甘い視線に戸惑いながらも
待ちに待った櫻田御殿の庭の散歩が嬉しい。
はにかみながらそっと綱豊の側に座る。
「殿、お待たせいたしました」
「うむ。では参ろうか」
綱豊が照姫のしなやかな白い手を取って
立ち上がり、居間上段から幾つもの豪華な
絵が描かれた座敷の襖を抜け
簀の子縁の階から庭に降りる。
白い上等な草履と
黒い光沢を浮かべる沓が並べられており
綱豊が先に草履を履くと振り返り
照姫の手を支えたまま沓を履くのを待った。
ここ数日降り積もっていた雪は少し融け
雪を掃いた庭の飛び石は濡れている。
綱豊は照姫が滑って転ばないように
照姫の肩を抱き支えながら歩くが
照姫にとっては身動きがし難い。
僅かに眉根を寄せてしまった。
殿、歩き難うございます…
照姫は心の中で呟くが
綱豊の気遣いを無下にはできない。
決して口に出してはならないと呑み込んだ。
照姫の固い表情を心配する綱豊。
「照姫、寒いのか?大事ないか?」
照姫は綱豊の言葉に内心驚いた。
殿はなんて敏感にお気付きになるのかしら…
隠し事などしたら
直ぐ見抜かれてしまいそう
肩をしっかり支えられて歩き辛いけれど、
わたくしが慣れるしかなさそうだわ…
「いいえ、殿のお袖の中は温うございます」
はんなり微笑み安心させようとする照姫に
またしても心を鷲摑みされる綱豊。
「そうか。良かった。
照姫そろそろ見えるぞ」
綱豊の視界の先を辿ると
濃い緑色の中に
赤や薔薇色の点のようなものが。
しばらく歩くと
急に空間が開け
両側に聳えるそれは
雪を戴きながら
咲き誇る椿や
山茶花の花々が照姫を囲み
諸国から集められた珍しい種類の花々が
美しく咲き散りばめられて照姫の心を奪う。
「殿、なんて美しいのでしょう。
見たことのない花ばかり」
大輪の赤い椿や
八重桜の薔薇色の椿
白くふんわりと可愛い山茶花の花々に
照姫の瞳が輝き
綱豊は生き生きと嬉しそうに喜ぶ照姫に
満足そうな優しい微笑みを浮かべ
腕の中の照姫を甘く見下ろす。
「気に入ったか。
徳川の者は庭木や花が好きなのだ。
わたしの曾祖父の秀忠公は
特に椿がお好きだったと聞いた」
「そうでございますの?
秀忠公の姫君の東福門院様も
御庭がとてもお好きであらしゃいました」
東福門院とは徳川和子で
照姫の祖父の後水尾天皇の中宮。
東福門院は照姫にとって公式な祖母であり
照姫は母の品宮と御所に度々遊びに呼ばれ
可愛がられていた。
綱豊にとっても東福門院は大叔母。
綱豊の祖父の家光と
照姫の祖母の東福門院は兄妹。
綱豊と照姫は親類。
共通の話題を持ったようで
新婚夫婦に付き従う家臣達も
二人の睦まじい様子に
安堵の表情で頷き合った。
椿や山茶花を愛でたあと
照姫は池に浮かぶように建つ
大きな茶屋に案内された。
茶屋の中には所々に陶製の火鉢と
上段の間には
二つの御殿火鉢が置かれていて
思いの外暖かい。
夫妻が席に着くと温かい煎茶と
白玉を浮かせた
さらりとしたお汁粉が出された。
大名屋敷の庭は広い。
照姫が疲れないように
軽いおやつで労る。
おやつが済むと
池に面した障子が静かに開けられ
向こう側の浅瀬には
丹頂鶴が数羽舞っていた。
照姫は驚いた。
「鶴?殿、あれは鶴ですの?」
驚きのあまり綱豊の腕を
袿の袖先で、ぱふぱふと叩く。
綱豊は
照姫の子供のような無邪気さに苦笑。
「あぁ、丹頂鶴だ。珍しいのか?」
「こんなに近く鶴を見たのは
初めてでございます」
目を綺羅綺羅させて
興奮している照姫。
鶴如きで
照姫がこれほどに喜ぶとは思わず
綱豊は照姫を庭に誘って
良かったと嬉しい。
綱豊は照姫の手を取って
窓の近くに連れて行った。
「夢を見ているようですわ」
大きな翼を広げて優美に舞う鶴に
うっとりと見蕩れる照姫。
綱豊はにやりと悪戯っぽく微笑むと
種明かしをする。
「今朝、鶴を買いに行かせたのだが
そなたが気に入ったようで何よりだ」
照姫はまたも驚いた。
高価な生きた鶴を
思いつきで数羽買い付ける財力に。
流石、二十五万石の甲府宰相家!
照姫は驚きを隠したくて
微笑みながら扇で顔を半分ほど覆った。
「今朝贈った扇を使ってくれているのだな。
そなたを妻合わせてくれた上様には
感謝しきれぬ。
上様も鶴がお好きなのだ」
上様…あの壮麗な千代田の御城に
住まう御方…
綱豊の伯父である四代将軍の家綱。
綱豊の父の綱重亡き後
家綱は綱豊の父代わりを自認して
照姫との婚儀には
照姫が京から連れて来た家臣達や
甲府徳川家の家老の子供にまで
祝儀を贈るほどの力の入れようだった。
「上様はどのような御方ですの?」
照姫がゆっくり扇を閉じ
膝に置きながら尋ねた。
「上様は物静かな方で大層学問がお好きなのだ。
良い君主であらんと貞観政要という書物を
いつも手元に置いておられる」
貞観政要ですって?!
照姫がぴくりと反応するのを
綱豊は見逃さなかった。
「そなた貞観政要に興味があるのか?」
照姫がはんなりと微笑み躱す。
「あの…確か…
帝王学の書物と父から聞きました。
難しい御本なのでしょうね」
「ほぅ流石、有職故実にお詳しい
近衛左大臣様の姫君よ」
綱豊は照姫に手応えを感じた。
照姫は照れ隠しのように、再び鶴を見る。
「丹頂鶴のおつむは誠に紅いのですね」
照姫はうっとりと呟いた。
綱豊は照姫の肩を引き寄せ囁く。
「丹頂鶴に餌付けをさせているから
来年もこの庭に来るだろう。
これから幾年も共に鶴を見よう」
綱豊はそう言うと照姫の体を袖で包み
胸に抱いたのだった。
綱豊と照姫の結婚当時、綱豊は中将で、翌年に宰相にになったのでこちらで統一しました。