扇 その四
三日目の朝も目が覚めると
照姫はやっぱり綱豊に見つめられていた。
でも昨日の朝とは少し様子が違って
思い詰めた表情で照姫は困惑。
綱豊は辛そうに
照姫の髪を撫でながら呟く。
「昼餉まで会えぬのだな」
日に日に
照姫への想いを募らせる綱豊。
朝の身支度のため
松島と秀小路が照姫を迎えに来た。
御簾中御殿に戻る照姫は
藤と牡丹の花が描かれた檜扇で
顔を隠して立ち去ろうとするが
綱豊は照姫を引き剥がされたような感覚に陥り
その絡み付く綱豊の視線に
後ろ髪を引かれる気がして
照姫は振り返る。
お昼なんてすぐなのに…
殿はどうしてそんなお顔をなさるの?
照姫は疑問を抱えながら
衣擦れの音とともに寝室を後にした。
照姫にとって朝は忙しい。
湯浴みをして楽な小袖を着せてもらい
髪を整え
朝餉を美味しく済ませ
歯磨きとお歯黒をして化粧を仕上げ
また着換えて
結婚祝いの事務的な確認などしていると
昼近くになってしまう。
昼餉と夕餉は
夫婦の居間で綱豊と一緒に摂るから
居室の外で家臣に会っても恥ずかしくない
御簾中に相応しい華やかな袿に着換えた。
昼餉を告げる声を待つ間
源氏物語を読む。
照姫は綱豊に会う前に
少しでも綱豊の自分に向けられた言動を
理解したかった。
照姫のような身分の姫達にとって
結婚とは任務。
見つめられ
天女と言われ…
松島や秀小路に聞いても
わたくし共がお答えするのは不粋と
躱されてしまうし。
考えに考えて
もしや殿のそれは
物語の中の恋というものかしら?
という考えに至る。
十三歳の照姫は経験に乏しいながら
手掛かりを掴もうと
祖父の後水尾法皇から結婚祝いに贈られた
源氏物語に手を伸ばしたのだ。
恋とは何ぞや、と。
照姫は綱豊から気に入られているのは
なんとなくわかった。
でも、光る君が口説く場面を読んでも
腑に落ちない。
光る君が口説くのは
人妻や行きずりの姫達で
北の方の葵の上は口説いていない。
わたくしはもう殿の妻なのに…
夫が妻を口説くのかしら?
ふぅむと考えていると
秀小路が声が。
「昼餉のご用意が
整いましたそうにございまする」
照姫が居間に着くと綱豊はまだおらず
席には婚礼の豪華な昼餉の膳が
並べられていた。
鱚の塩焼き
鯛のお刺身
海老のうま煮
鮑
お吸物
蕪と人参の炊き合わせ
香の物など
鯛のお刺身は
淡く透き通りほんのり桜色。
つの字の姿で並ぶ尾頭付きの海老は
お醤油と水飴と生姜で煮含めてあるらしく
艶やかな光を纏い香り爽やか。
御膳の美しい料理を眺めていると
綱豊が入って来た。
「殿、ごきげんよう」
照姫の鈴の音の麗しい声が迎える。
白い生地に夫婦和合の縁起物の
緑の鴛が向かい合う絵柄の
桜の重ねを纏った照姫の姿に
綱豊は釘付け。
綱豊は愛しい妻を抱きしめたい衝動を堪え
平静を装い席に座り昼餉に手を付けた。
お吸物を一口味わい
傍らの照姫を見つめる。
照姫は綱豊に続いて箸を取り
お吸物の次に鯛のお刺身を
その梅の花のような口に含む。
照姫の口の中に
鯛の新鮮な旨みと甘さが広がり
程よい弾力の食感。
なんて美味しいの!?
思わずふふっと微笑んでしまう。
くるくると表情の変わる照姫に
綱豊は魅入られる。
誠に照姫は美味しそうに食べる
それに食事をする姿さえ
上品で愛らしいとは
静かな昼餉の時が流れ
綱豊は会話を、と思い
照姫に優しく話しかけた。
「江戸の料理はそなたの口に合うか?」
照姫は美味しそうに
鱚の塩焼きを飲み込むと
小首を傾げはんなり微笑む。
「はい、海のお魚が
新鮮で美味しゅうございます」
「そうか、それは良かった」
綱豊は嬉しそうにそう言うと
常磐に告げる。
「台所に伝えておくように」
美味しそうに昼餉をする照姫を見つめながら
綱豊は幸せな食事に浸った。
そしてその日の
結婚して三日目の夜
照姫は侍女達から
念入りな支度をされた。
湯殿では糠袋で身体中を磨き上げられ
時間をかけて髪を梳かれ
丹念に薄化粧を施され
馨しい匂い袋で指など香りつけられ
極上の香を焚きしめた白羽二重の寝巻と
袿を着付けられた。
その美しさたるや
白い羽衣を纏う天女の如く。
寝室の部屋の襖が開いた瞬間
待っていた綱豊の胸をときめかせた。
綱豊は当然のように
部屋に入って来た照姫の手を取り肩を抱き
布団の上に優しく座らせると
腕の中に照姫を包む。
今宵は契りを交わす。
綱豊は照姫を安心させようと試みた。
想いを抑えるがゆえに
視線と声が甘くなる綱豊。
「そなた好きな物は何か?」
照姫は潤んだ黒曜石の瞳で
綱豊を見上げる。
「御庭のお散歩や物語を読むのが
好きでございます。和歌も」
「庭の散歩か。
それでは明日の午後庭に参ろうか」
「御庭に?
殿、嬉しゅうございます」
まだ見たことの無い櫻田御殿の御庭に
連れて行ってもらえる!
照姫の表情が輝く。
婚儀の一連の行事が終わる迄は
風邪でも引いたら一大事と
部屋から庭を見ることさえ
早川のじいや侍女達に禁止されていたから
綱豊の散歩の誘いは
照姫にとって何より嬉しい。
腕の中で照姫の輝く容に
綱豊は想いを抑えられなくなった。
照姫の髪を撫でると
そっと華奢な体を横たえる。
照姫は少し驚いた表情。
もう…ですの?
照姫の視線が訴えるが
ようやく名実共に夫婦になれると
待ちに待った綱豊は抑えられない。
「そなたはわたしの宝
生涯そなただけを慈しむと誓う」
綱豊は照姫の頬を掌で包み
ゆっくりと唇と重ねた。
まだ幼さのある照姫を
傷つけないよう優しく。
照姫は綱豊の唇を
何故か知っているような気がして
そして湯浴みのお湯の香りのする綱豊が
照姫を安心させた。
甘い夜が更けてゆく。
翌朝
やっと想いを遂げた綱豊は
腕の中の照姫を遠慮なく抱きしめ
照姫を見つめる眼差しにも
安心感が宿る。
照姫は昨夜の出来事もあり
見つめられるのが恥ずかしい。
視線を避けたくて逃げたいけど
綱豊の力強い抱擁で逃げられず
咄嗟に綱豊の胸に潜った。
寝乱れた姿で
恥ずかしそうにするその仕草が愛おしく
綱豊はニヤリと笑うと
一層力強く抱きしめてしまい
照姫が藻掻く。
「殿…苦しい…」
「あぁ、すまぬ
そなたが愛し過ぎるゆえ」
綱豊は照姫を腕に抱いたま起き上がると
枕元に置いていた葵の紋の高蒔絵の
漆塗りの箱を照姫に贈った。
照姫が膝の上で
赤い組紐を解き箱を開ける。
中には檜扇が入っていて
それは一見して高価とわかる品。
照姫の細く白いしなやかな手が扇を開くと
満開の桜が咲き誇り濃い桜色の牡丹と
小さな二羽の空飛ぶ鶴が描かれていた。
鶴の番は生涯 唯一羽
綱豊の照姫への想いを込めた檜扇。
思いがけない贈り物に
照姫は嬉しさと戸惑いで固まる。
「そなたはこの櫻田御殿の女主
桜の扇も持っていてほしいのだ」
そう言うと
綱豊は照姫を引き寄せ
甘く接吻した。