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将軍家綱が

天空の御台所顕子の元に旅立ち

凡そ三十年の長きに渡り

君臨した将軍を失った重々しい悲嘆は

広大な千代田の城を覆い

それは溢れ

御城を幾重にも守り囲む大名屋敷へ

大江戸の町に広がってゆく。


仁愛で世を治めた将軍家綱を偲ぶ千代田の城は

悲しみに耐えながら

次の将軍を迎える準備に動き出す。


刻一刻と国情は変わり続け

止まる事を許されない政治。


次期将軍に指名された綱吉は

老中達の案内で二の丸に入った。


綱豊や御三家、幕臣達は

二の丸にいる綱吉に伺候。


家綱の葬儀

綱吉の将軍宣下に向け

粛々と事は進められる。




綱豊は夜更けに

漸く、照姫の待つ寝室に着いた。


寝室の中央に敷かれた

幾重にも重ねた豪奢な(しろぎぬ)の床に眠る

最愛の妻のあどけない寝顔に

静かな悲しみが胸の奥から染み出す。


妻の元で伯父を失った一人の甥としての

綱豊に戻ることができた。


照姫を起こさないよう夜具に横たわり

華奢で柔らかな体を胸に抱きよせるが

何時戻るかも分からない夫を待ち

浅い眠の中にいた照姫が

綱豊の温もりに目を覚ます。


蝋燭の朧気な灯りに浮かぶ綱豊の

美しく憔悴した目に流れる涙。


声も出さず、唯

涙の流れるまま照姫を見つめている。


お悔やみを言わなくてはと思う照姫だが

小刻みに揺れる黒曜石の瞳で見つめ返し

涙を流す夫の頬を白くしなやかな指先で

そっと包むことしかできなかった。


二年前に父の綱重を亡くしたばかりなのに

今また父代わりと可愛がってくれた

伯父を亡くした夫の気持ちを思うと

胸が潰れそうに痛む。


二人の間の静かな悲しみの沈黙に

慰めの言葉さえかけられず

照姫は白い羽二重の寝間着の袖で

綱豊の止め処なく流れる涙を優しく拭い

綱豊は憔悴した美しい顔に

愛しさを宿し照姫を抱きしめ

思い詰めた声が洩れる。


「上様がそなたをわたしにくれたのだ。

 そなたを…」


「はい…わたくし、殿のお側にいます」


幼子のように縋る綱豊の胸に

照姫は深く顔を埋め

武将として鍛え上げた綱豊の背中に

しなやかな白く細い手を重ねた。


頼る親戚のない江戸に

京から一人嫁いだ照姫には

今の綱豊の心細さが痛いほど伝わり

数奇な運命の肉親と縁薄い綱豊に

生涯寄り添いたいと願った。


唯、側にいたいと。


愛し慈しんでくれる夫の側に。





照姫が目覚め、半身を起こすと

床の傍らは空。


綱豊は登城の準備のため

夜明け前には寝室を出ていた。


「殿…」


夫を案じる照姫の微かな声は

広い豪奢な寝室に消えて行った。



日が高くなる頃には

櫻田御殿の隅々にまで

将軍家綱の薨去の知らせは巡り


屋敷内には将軍を失った悲しみと

綱豊が次期将軍に指名されなかった落胆と

これからの世を心配する空気が漂う。



「御簾中様には驚かれましたでしょう。

 亡き上様はまだ四十歳、それに

 御自ら調えられ指揮を執られた

 殿と御簾中様との御婚儀から

 半年しか経っていないというのに」


照姫の朝の支度が終わるのを見計らい

綱豊の祖母の順性院が心配して訪れてくれ

美しい尼姿のその声には

優しい一族の長を失った悲しさが滲む。


照姫には将軍の代替わりは初めての事。

順性院は奇しくも

二度目の将軍代替わりに巡り合わせ

こうして心配して側に居てくれる。


どれほど心強いことか。


「はい。亡き上様には

 いつかお目にかかりたいと

 思っておりました」


「上様がお健やかなれば

 千代田のお城で遠からず

 お目にかかれたでしょうに」


江戸に着いた雪の降るあの日に

ほんの少し開けた輿の窓から見上げた

壮麗な千代田の御城。

その御城の主、将軍家綱に

いつかは会えると思っていたのに

その機会は、もう永遠に来ない。


華奢な肩を落とし

長い睫毛の瞼の陰に

悲しみと寂しさを湛える照姫に

順性院は申し訳なさげに

憂いた言葉を紡いだ。


「それにしても

 殿には難しいお立場になりました。

 次の上様の綱吉様は

 わたくしのお生み申し上げた

 綱重様の弟君ですが

 お二人は年が近く

 綱重様は左馬守

 綱吉様は右馬守と遇され、それが

 比べられることになってしまって。

 わたくしも母君の桂昌院様も

 家光公の御寵愛を競わされておりました。

 桂昌院様の殿へのお気持ちは複雑なはず。

 これからは

 家綱公の時のようには参りますまい」


「そうなのですか…

 殿がお気の毒ですわ」


綱豊を庇護してくれた伯父を失い

もう一人の叔父は

綱豊を好ましく思っておらず

幕府内で難しい立場になる、と。


「それに…

 綱吉様はなんといいますか…

 御立派であられますが御意見の強い所が

 おありだと聞いておりますのよ。

 先代の家綱様は鷹揚な方で

 殿は家綱様に似ておいでですから…」


順性院は言外に

綱豊の将軍就任が叶わなかった事と

綱吉の治世への不安を零した。


照姫も父の左大臣から

綱吉の噂を聞いていて

それは順性院の話と同じ。


将軍の性格は治世に反映される。

家綱の治世は安定していたが…


照姫と順性院は

不安を浮かべた目で見つめ合い

将軍家綱の早過ぎる薨去を悼んだ。





「櫻田殿」


千代田の城の松の廊下を

玄関へと向かう綱豊の後ろから

色気のある渋い声が呼び止めた。



綱豊が振り向くと

其処には銀髪(ロマンスグレー)の美男が寂しい笑みを浮かべ

近づいて来ていた。


徳川一族の長老、水戸の光圀だった。


光圀は綱豊の側まで来ると

綱豊を将軍に出来なかった無念を

小さな声で伝える。


此度(こたび)は力及ばず」


綱豊は威儀を正し

悲しさを纏いながらも

真っ直ぐな瞳で光圀を見つめた。


「水戸の中納言様には

 忝う御座いまする。

 某には勿体なきことに御座いますれば」


将軍職を逃した綱豊が

平然と、しかし端正な礼で応えると

光圀は無念を滲ませた笑みを

腑に落ちた穏やかな笑みに変えた。


「左様に申してくださるか。 

 して、櫻田殿。

 御簾中様とは仲睦まじいと

 耳にしておりまする。

 我が亡き簾中も近衛の姫。

 落ち着きますれば

 この爺の屋敷にて

 上様と我が簾中を偲んでくれまいか」


「某で宜しければ」


「男と男の約束ですぞ」


光圀は慈愛に満ちた笑みを浮かべ

その場を去った。


今なお亡き正室の泰姫を

深く愛している光圀は

泰姫の大姪である照姫を娶った綱豊を

綱吉から陰日向に守ってゆく事となる。


照姫は綱豊の守護神なのだった。

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