翼
初夏の爽やかな風が吹き抜ける
千代田の御城
将軍家綱は
このところ疲れ気味とのことで
表の朝会は出席せず
中奥の御座之間にて
御三家達や老中達に面会。
綱豊も日光参拝の報告を兼ねて参上した。
金色に輝く絢爛たる上段の間の
緑美しい大きな堂々たる松の絵を背に
将軍家綱は泰然と座す。
四十の御賀を迎え
綱豊の親代わりを自認する
愛情深い伯父の家綱は
日光で大名の務めを果たし
江戸に帰還した綱豊を心から喜び労う。
「綱豊、日光参拝の名代、大義であった。
同行した畠山民部大輔が
大層立派であったと誉めておったぞ」
「某には誠に勿体なき御言葉
祝着至極に存じ上げまする」
綱豊が恭しく平伏して答えた。
可愛い甥の綱豊の成長ぶりに
生来優しい家綱の
慈愛の眼差しと言葉が注がれる。
「若狭守より、夫婦仲睦まじいとも聞いて
安堵しておる」
「はっ。上様には
縁組を調えていただきましたこと
御礼の申し上げようも御座りませぬ」
照姫と綱豊の結婚は
家綱の鶴の一声で決まった。
内々の縁談はあったものの
家綱は突然、江戸城にて正式な縁組を発表。
数日後、その命を受けた武家伝奏が
近衛邸を訪問したので
近衛家にとっては青天の霹靂。
将軍直々の声掛かりとあっては辞退も出来ず
照姫の父の左大臣は忸怩たる思いで受けたが
綱豊にとって照姫以外の妻は考えられず
家綱の人選に感謝の言葉も無い。
家綱は我が身と重なる境遇の
綱豊に思い入れが深い。
家綱も綱豊も父母に早く先立たれ
共に危うい目に遭った。
僅か十歳で将軍に就任した家綱を
幼君と侮った浪人達の乱が露見。
綱豊も八歳で養子先から
父の綱重に呼び戻される最中に
家老二人から偽者呼ばわりされ
その存在を無き者とされ
歴史の闇に葬られる危機に襲われた。
だから
可愛い甥の末長い幸福を願ってやまない。
結婚して幸せそうな
ひとつ年を重ね頼もしさを増した綱豊に
家綱は満足げに頷き脇息に凭れると
寛いだ様子で続ける。
「綱豊、表を上げよ。
そなたの正室は東福門院様(中宮徳川和子)の
お目に叶ったお気に入りの姫君じゃ。
公家の姫はな、余所余所しいようで
実は情が深く世話好きなのだ。
のう、綱吉。
そち達夫婦も仲睦まじいからの」
「御意に御座いまする」
家綱の腹違いの弟で綱豊の叔父である
館林宰相の綱吉が
綱豊に視線を移しながら同意すると
家綱は綱吉にも優しい眼差しを送り
再び綱豊に話しかける。
「そなたは正室に遠慮などせず
仲睦まじゅうするがよい。
世は若い頃、御台が情の深い女御とは
見抜けずに遠慮してしまった。
もっと早う寄り添っておればと悔いておる」
「亡き御台様は誠にお優しくあられました。
幼い頃、初めて大奥でお会いした折も
痘瘡の時もお気にかけていただきましたこと
この綱豊、生涯忘れませぬ」
養子先の家老の子として一生を送るはずが
父の綱重の跡取りとして将軍連枝に加えられ
将軍と御台所に御目見得するため
大奥に招かれた幼い綱豊を
御台所の浅宮顕子は
優しく心を尽くして迎えてくれた。
京の姫宮は近寄り難いと緊張していたが
御台所のたおやかで温かな人柄に
綱豊は顔さえ覚えていない生母を思い
国母の気高き慈愛に心打たれ
そして、長年連れ添った仲睦まじい
将軍夫妻の姿に憧れた。
「誠に御台は慕わしい女御であった。
我らには子が授からなかったゆえ
そなたを息子のように思っていたのだ。
そち達夫婦の幸せを
あちらで喜んでいるであろう」
家綱はそう言うと
寂しさを滲ませ微笑んだ。
幸せそうな綱豊をみていると
亡き御台所の思い出が鮮やかに蘇り
傍にいないことが堪らなく寂しい。
家綱もまた
今は亡き愛しい御台所を
心の奥深く恋い慕い焦がれている。
家綱の寂しそうな姿に
疲労を隠くす、その赤く光る目に
綱豊は胸騒ぎを覚え、微かに拳を握り締めた。
千代田の御城から帰邸した綱豊は
照姫の縫った黄八丈の着流しに着替えると
早速、照姫の御殿に向かった。
いつものように
老女の常盤の知らせの声と共に
綱豊は疾風の如く照姫に迫る。
照姫の前に立ち塞がり御簾の下りきらぬ内に
愛しい妻を抱き締めるが
いつもとは違い甘くは無く
幼子が母に縋る抱擁と照姫は気づく。
「殿?如何なさいましたの?」
綱豊にしか聞こえない小さな声で問うと
綱豊もまた、芳しい豊かな黒髪の奥の
照姫の耳に囁く。
「わたしの今の姿は誰にも言ってはならぬ」
「…上様に何か?」
御城から帰って直ぐの綱豊の異変。
そこから導き出す心配事と言えば
敬愛する伯父の将軍家綱の健康問題だけ。
照姫の読みの正確さに
綱豊は一瞬、目を見開いた後
こくりと頷いた。
将軍の健康状態は国家の最高機密
誰にも漏らしてはならない掟。
五摂家筆頭近衛家の姫である照姫は
皇后にもなる身の上で
その重要性を幼い頃から教えられている。
「わたくし、墓場まで持ってゆきます」
綱豊の大きな背中をしなやかな両手で包み
微かに囁く。
照姫の思いがけない言葉に
綱豊は、ふ、と微笑う。
「わたしと一緒にいたら
抱えきれないほどになろう」
「わたくし、そんなにたくさん重い物は
持てませんわ。
殿がわたくしの分も
持ってくださいますでしょう?」
そう言いながら
背中をそっと撫でる照姫の両手が優しい。
「まったく、そなたには叶わぬ」
綱豊は照姫の芳しい髪に首筋に溺れながら
伯父の将軍家綱の言葉を噛み締める。
『正室には遠慮せず仲睦まじゅうせよ』
恐ろしいほどの孤独を背負う将軍家綱と
唯一人心を許せたであろう御台所顕子の
仲睦まじい姿を思い出しながら。
綱豊の不安は不幸にも的中して
間もなく、将軍家綱は死の床につく。
照姫と綱豊の婚儀が成った次の日から
家綱は薬を飲むようになっていた。
そして
綱豊に日光参拝を務めさせ
立派な大名に育て上げて
将軍として伯父として責任を果たし
安心したかのように病に伏した。
御台、そなたとの約束果たしたぞ
もう、そなたの元に行っても良かろう
家綱は胸の痛みに耐えながら
御台所顕子のいない寂しさには
もう耐えなくていいと思いながら。
家綱に世子はいなかった。
御台所顕子との間に子が授からず
顕子が選んだ二人の側室が懐妊するも
悲しい結果に終わった。
家綱の次の将軍は
次弟の綱重が生きていれば
綱重が将軍を継ぎ
その次は綱豊が将軍になるはずだが
綱重は兄の家綱より先に世を去った。
家綱の腹違いの弟の綱吉と綱豊が
次の将軍を争うこととなり
徳川一門の長老、水戸の光圀は綱豊を推した。
光圀自身が兄を差し置いて
水戸藩を継いだことを人の道に悖るとして
兄の子の綱條を養子に迎え跡継ぎにした。
綱吉が将軍になったとしても
その後は綱豊を将軍にするのが道理とも進言。
老中の堀田正俊は
三十五歳で実績のある綱吉を推した。
家綱は枕元に綱吉を呼び
手ずから熨斗を渡し次期将軍に指名。
それから
将軍家綱は、静かに旅立った。
大きな翼で
国を綱豊を守った将軍家綱は
その大きな翼を羽ばたかせ
愛する御台所の浅宮顕子の元へと
飛び立った。
歴史の大空を共に飛んだ連理の翼は
再び一緒に大きな翼を羽ばたかせ
醒めない夢の天空を幸せに舞うのだった。
徳川実紀より
延宝7年12月18日 綱豊と照姫の婚儀
12月21日 将軍家綱から綱豊夫妻に贈物
この日より家綱服薬
延宝8年 4月21日 綱豊日光より江戸に帰府
4月25日 綱豊誕生日
4月28日 綱豊江戸城にて家綱に拝謁
5月 8日 家綱薨去
家綱は4月の始めから目が赤く光っていたと記録があり、丸で綱豊の結婚と独り立ちを見届けたかのようにこの世を去りました
御台所浅宮顕子の没後
僅か四年足らずで後を追ったのです
また、家綱の顕子への寵愛は眩しく
顕子のお灸に伽羅を贈っています
目も眩むほど高価なお灸ですね




