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糸 其の八

綱豊の桜色の甘い雲の嵐に照姫は翻弄され

その胸の中で

照姫の意識が薄く遠くなったのは

宵が去って行く頃だった。



照姫が目覚めると床の中に綱豊の姿はなく

常よりも遅い時間。


寝不足と息もつけない甘い嵐のせいで

体がふわふわと怠い。


 起きなくちゃ



綱豊の桜色の嵐に包まれた感覚が残る体を

のろのろと床の上に起こすと

気配を察した松島が静かに襖を開ける。


「御廉中様、お目覚めにございますか?

 殿が昨夜は遅くなったから

 ゆっくり寝かせてやるようにと

 仰っておられまいたのですよ。

 お優しい背の君であらしゃって

 御廉中様はお幸せすわ」


松島は微笑み、そう言いながら

寵愛眩しい女主人の肩に

薄紅色の袿を着せ掛け、髪を整え

ふわふわと揺れる照姫の手を引いて

朝の支度に連れて行く。


御廉中御殿に着くなり

照姫は湯舟に浸けられた。


湯舟の温かな湯に揺らめく自分の

雪のように白い体を見て変化に気づく。

丸みを帯びている気がする。


 気のせいかしら?

 食いしん坊だから太ったのかしら?

 でも、昨夜の御馳走は

 そんなに食べてないのに…

 


朝餉の膳には

照姫の好物の鱚の塩焼きがあるというのに

心ここに在らずで

美味しいけれど味もよくわからず

昨夜のように、ぽそぽそと食べる。


ふわふわ卵の壺焼きをつつき

今のわたくしみたいだわ、と思いながら

小さく摘まんで口にぽそりと運ぶ。


化粧をしようと鏡を覗くが

其処には昨日とは少し違う自分が映っている。


照姫には訳が分からない。


 殿のせいで疲れたのだわ…

 もう、殿ったら!


拗ねた小さな湯気を幾つも放ち

化粧着から袿に着替えさせていたら

綱豊の来訪が知らされた。


午前中の来訪は珍しい。

御廉中御殿の侍女達の空気は一変。


 来るわよ!

 殿の波状攻撃!

 

はんなりと笑みを湛えながらも

臨戦態勢の侍女軍団は

平伏(ひれふ)して綱豊を迎える。


臨戦態勢の侍女軍団とは違い

照姫は顔を薄紅色に染め、固まった。


照姫自身、なぜこんなに

顔が熱くなるのか分からない。


幸いにも

平伏している侍女達に気づかれていない。

取りあえず檜扇を広げて顔を隠し

綱豊は足早に、その最愛の妻目掛けて

疾風の如く迫って来る。


「苦しゅうない。御簾を下ろせ」


そういいながら侍女達の前を通り過ぎ

絢爛豪華な居間の上段に登り

照姫を侍女達から隠すように立ちはだかり

御簾の下りきらぬうちに照姫を袖に包んだ。


「殿、ごきげんよう」


綱豊の袖の中で小さく丸まり

扇で顔を隠したまま挨拶をする最愛の妻を

綱豊は怪訝に思い、ゆっくりと優しく

しなやかな手から檜扇を離した。


「いや!」


照姫は微かな叫び声を漏らすと

咄嗟に綱豊の細身だが逞しい胸に潜る。


「どうした?気分でも悪いのか?

 昨夜遅かったからか?」


綱豊は何事かと心配して

顔を隠す袿の袖を優しくかき分け

掌で愛らしい頬を包み覗き込むが

綱豊と目が合った途端

照姫の脳裏に昨夜の嵐の記憶が甦り

恥ずかしさで耳まで赤く染まる。


照姫は動揺して、再び綱豊の胸に潜った。


いや!と言われたが

突き飛ばされて拒絶されたのではない。

綱豊の胸に照姫自ら潜り

(かんばせ)を大輪の紅の牡丹の花の如く染めている。


妻の以外な反応に

綱豊は自信の欠片を掴んだ。

嫌われてはいないのだと。


胸の中の妻を愛しさのあまり試したくなり

照姫に頬ずりしながら、うっとりと苛める。


「先に起きてしまったから

 心配して来たのだが

 そなたは紅の牡丹の花ようだ。

 熱でもあるのではないか?」


「…殿の…いじわる…」


小さな声で拗ねて

更に深く潜ろうとする照姫の頬を

掌で制して包み

ニヤリと微笑(わら)いかけてから

そっと牡丹の花の唇を貪った。


照姫の放つ甘い香りが

綱豊の脳の奥を痺れさせる。


一頻(ひとしき)り花を貪り終わり満たされると

照姫の絹糸のような豊かな

乱れた髪を撫でながら揶揄(からか)う。


「九日間も離れていたのだぞ。

 まだそなたが足りぬ。

 また後ほど参る」


「!」


ニヤリと微笑(わら)ったまま

御簾を翻して去って行く綱豊の後ろ姿を

照姫は肩で息をしながら呆然と見送った。



それからというもの

これまで以上に朝夕気の向くまま

細切れの時間を縫って

綱豊は照姫の部屋に通う。





数日後

綱豊の十八歳の誕生日


透き通る青い空さえ

綱豊の誕生日を祝っている。


祝いの餅と酒が配られた家中は賑やか。


御廉中御殿の広間の上段に

綱豊と照姫、綱豊の祖母の順性院と並び

それぞれの侍女達も共に祝う宴。


初夏の緑萌える庭に面した畳敷きの入り側では

美しい舞姫達が麗しい琴の音に合わせ

舞い踊り宴を彩る。


照姫は綱豊から根津の別邸で贈られた

青みの紅色の袿を纏い、綱豊の誕生日を

鈴の鳴る美しい声で愛らしく寿ぐ。


「殿、此度(こたび)は御誕生日

 誠にお目出度う存じ上げます。

 こちらが御祝いの御品にございます。

 どうぞお納めくださりませ」


京から持参した絹の反物と

順性院と共に完成させた黄八丈の着流しを

綱豊の前に進めると

綱豊は珍しそうに黄八丈の着流しに目を留め

その手に取って眺めた。


「お(ばば)さま、この黄八丈の生地は

 見覚えがあります。

 上様から賜った反物でしょうか?」


「ほほ、覚えておいででしたか…

 御廉中様に殿のお祝いの品を

 相談されましてね。

 上様から御下賜の黄八丈で

 殿のお召し物を縫って差し上げたらと

 お薦め申し上げました」


美しい順性院が晴れやかな

勝ち誇った笑顔で言い終わると

綱豊は驚いて着物を手にしたまま

照姫を見つめた。その目には

感動と妻への愛しさが溢れている。


「照がこの着物を縫ったのか?

 この硬い生地を?

 だからそなたの指は赤く腫れていたのか」


「はい。

 あ、でもわたくしは縫っただけですわ。

 順性院様が黄八丈の反物を選んでくださり

 こちらの御殿の縫い方に

 生地を殿の寸法(サイズ)に裁断させて

 研いだ針や糸も手配して

 準備万端整えてくださり

 順性院様が毎日付ききりでわたくしに

 着物の縫い方を教えてくださいましたの。

 全て順性院のお陰です」


照姫は照れながら愛らしくそう言い

順性院に微笑みながら御礼の会釈をし

それを受けた順性院は、ほほ、と微笑(わら)う。


「御廉中様は、ほんに頑張り屋さん。

 殿には良い嫁御を迎えられ

 上様も亡きお父上様もお喜びでしょう」


順性院はまた、ほほ、と

上品に微笑む口元を袖先で隠し

美しい目元には勝利の笑みを浮かべ

若夫婦を眺めた。


それを返すように

綱豊も微笑み立ち上がり

着ていた羽織を脱ぎ

照姫が縫い上げた着物を羽織り

照姫と順性院に披露。


武芸に励みうっすらと象牙色になった

綱豊の穏やかな端正な顔立ちに

黄八丈と言いながら、艶やかな絹の黒い糸と

赤い糸を多く用いた生地は

月明かりに照らされた夜桜のようで

ひとつ年を重ねた男の色香を引き立て

それが照姫に無言の圧力(アピール)となり

その綱豊の意図は照姫に伝わり

頬を薄紅色に染め困惑させた。


宴の食事中も綱豊の絡み付く視線に

照姫は御廉中として必死で平静を装うけれど

でも手が上擦ってしまい

綱豊の長寿を願う伊勢海老の殻から

身が上手く取り出せず

照姫に助け船を出すべく侍女が

介助用の楊箸で身をほぐそうとするが

綱豊が侍女を下がらせ、その楊箸で

自分の伊勢海老の身をほぐして照姫の皿と

取り換えたりと甲斐甲斐しく世話をして

照姫を挑発し追い詰める。


順性院は孫夫婦の

駆け引きならぬ恋の攻防を

祝いの膳の御馳走と共に

生温かくたっぷりと堪能した後

ほほ、と微笑む声を棚引かせながら

楽しげに部屋に戻って行った。



順性院の去った御廉中御殿の広間の上段は

照姫と綱豊と二人きりになり

綱豊は即刻、御簾を下げさせ

薄紅色に染まる照姫を抱き寄せ袖に包むと

袿の袖に隠れていた、まだ仄かに赤く腫れた指を

その端正な手で自分の頬に当て愛でた。


「わたしのために

 あんなに指先を赤く腫らしたのか」


照姫は綱豊の甘い視線に絡め取られ

またもや大輪の紅の牡丹の花となった。


「この黄八丈の着物の一針一針に

 そなたのわたしへの気持を

 込めてくれたのだな…」


綱豊の思いがけない解釈に

またもや照姫は困惑。


ただ、順性院様のお話と

着物が完成していくのが楽しくて夢中で

気がついたら指先が赤く腫れていただけ

なんて言えない。


 どうしよう…

 本当の事を知られたら

 きっとまた殿は灰色にひび割れて

 奈落の底に落ちてしまうわ…


照姫は困惑と甘い視線に固まったまま。


紅の牡丹の花になった最愛の妻が愛おしく

そして苛めて困らせて

妻の愛を確かめたい衝動に駆られる。


「食事も終わったことだし

 瑞瑞しい水菓子を食べるとしよう」


綱豊はニヤリと微笑うと

紅に染まった桜ん坊の如き愛らしい耳朶を

そっと微かに囓った。


 ふぁ…?


綱豊の突飛な行動に

照姫から力が抜け

綱豊はその反応に甘くそそられ

牡丹の花を優しく貪る。


魂が浮遊してふわふわになった照姫を

綱豊は悪戯な視線で囲ったまま

その華奢な宝物を軽々と横抱きに

照姫の纏う青みの紅の袿の裾を翻しながら

花の絵を鏤めた花園の如き照姫の

豪奢な寝室に運んだ。




翌日、綱豊から順性院に返礼品として

山のような極上の絹の反物と

照姫からは根津の躑躅の丘を描いた屏風と

自ら刺繍を施した躑躅(つつじ)の袱紗が贈られ


綱豊から照姫には

珊瑚や瑠璃玻璃の如き色様々な艶やかな絹糸が

小山のように積まれた幾つもの三方が

贈られたのだった。

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