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20/23

糸 其の七

甘い嵐の如き口吻で

頭の中は真っ白に

息も絶え絶えの照姫は

肩で息をしながら

御簾の向こう側へ消えていく

風神のような綱豊の後ろ姿を見送る。


いつもは物静かな綱豊は

宝物の最愛の幼妻を

優しく細心の注意で取り扱うのに

たった八夜離れただけで

(たが)の外れた(ほとばし)る熱情で照姫を翻弄。


鍛え上げた武将の本性を

身を以て知った公家の照姫は呆然。


乳母の松島は

何時にも増した若い夫婦の温度差に

生暖かい気持ちになりながら

照姫の乱れた髪と衣を整え終わると

空気を変えるべく

優しく声を掛けた。


「さ、御廉中様

 殿のご挨拶がお済みにならしゃいましたし

 こちらもお祝いの御膳にいたしましょ」


照姫は体から力が抜け

呆然としたまま、こくりと頷く。


綱豊は(オフィス)で家臣達と

日光参拝(プロジェクト)達成の祝賀会(パーティー)


照姫の(プチ)大奥でも

主君の留守を守った侍女達の

慰労を兼ねた祝賀会。


「御膳をこれへ!」


松島の晴れやかな声が響くと

朱塗りのお膳に載ったご馳走が続々と

御廉中御殿の広間に運ばれたが

魂が抜けたような照姫を

侍女達の目に晒す訳にもいかず

松島は御簾を下ろさせたまま

女の園の(パーティー)が始まった。


食いしん坊の照姫が

目の前のご馳走に(はしゃ)ぎもせず

いきなり好物の尾頭つきの鯛の塩焼きを

箸でぽそりと小さな口に運び

覚束ない手でお碗のご飯をほんの少し摘まみ

ぽそりと口にした。


お祝い用の特別美味しい鯛なのに

美味しいけれど

頭がぼぅっとして

味がしないような不思議な感覚。


 あんなに激しい口吻(くちづけ)

 なさるなんて…

 今宵はどうなってしまうの?

 

松島は

白い魂を浮遊させながら

ぽそぽそと食事をする照姫の様子に

これでは(らち)が明かないと

早めに食事を切り上げさせ

宴もそこそこに

ふらふら揺れる照姫の手を引いて

湯殿に連れて行った。


ご馳走とおしゃべりを楽しむ侍女達は

御簾の奥の女主人の異変に気づかず

華やかな宴の中。



(オフィス)の大広間では

若き主君 綱豊の結婚に続き

東照大権現家康公の命日の法要の

日光参拝を無事終えた二重の幸運に

家臣達は祝杯を挙げ

酒の飲めない綱豊は

食事をしながら家臣達を見守る。


この広間には

日光に随行した若い家臣もいて

その家臣達も

早く妻子に会いたいだろうと

綱豊は思いながら。


だが、この宴も儀礼(ダンジョン)


将軍の名代を務めた祝いの宴。

その名誉の宴を楽しみに

仕事に励む者も多い。

宴を催すのも参加するのも務め。


照姫の元に一刻も早く戻りたい想いを抑え

平静を装い耐え

夜更けまで続く宴の

早すぎもせず遅すぎもせず

頃合いを見計らい

綱豊は広間を離れ

湯殿で旅の汗と

広間に充満していた酒の移り香を落とす。


上品な公家育ちの照姫に

むつけき侍と嫌われないよう

近習達に幾つもの糠袋で体を磨かせ

念入りに湯に浸かり

真新しい湯帷子を何枚も使わせ

湯を拭わせる。


 ようやく照姫と眠れる

 九日間、長かった


逸る心を抑え

泰然と白絹の夜着を着付けさせ

寝支度の完了。


綱豊は

すべての儀礼(ダンジョン)(クリア)えた。


寝室へ向かう綱豊の足取りは

抑えていても早くなる。

将軍の甥の大名らしくあらんと

平常心と威厳を保とうとするが

もう無理だった。


湯殿から寝室へと続く廊下は

綱豊の(プライベート)空間。


寝室の大きな襖が開かれると

夜具の上に

大輪の白い牡丹の花のような照姫が

ふんわりと座って待っていて

綱豊は疾風の如く

照姫の華奢な体を腕に包み

絹糸のような艶やかでたっぷりとした

美しい髪の香りを

雪の花のような首筋の香りを吸い込む。


「照、待たせてすまない。

 あぁ、そなたの香りは

 なんて落ち着くのだろう」


「殿こそ、遅くまでお仕事なさって

 お疲れであらしゃいますのに」


早寝早起きの幼さの残る照姫が

深夜まで長時間待ち続け

忙しい自分を気遣ってくれる嬉しさを

噛み締めた。


綱豊は慈しむ笑みを浮かべ

照姫を横抱きにするが

腕の中の幼い妻は

眠そうで何処かふわふわと

でも体を縮めて怯えているかのよう。


そんな照姫が巣の中の雛鳥のようで

綱豊の庇護欲をくすぐる。


「眠いのか?

 心ゆくまでそなたを愛でたいが…

 今宵はもう休むとしよう」


照姫は綱豊の言葉にほっとして

体が緩んだ。


息もできない嵐の回避に成功して

はんなりと微笑み頷く照姫。


今宵は照姫を

胸に抱いたまま眠れるとはいえ

姫の安心した様子に

もう少し最愛の妻を愛でたい気持ちが

抑えられない綱豊。


いつものように

細くしなやかな手を取り愛でようとするが

その白い指先が

赤く腫れているではないか。


「照、指が赤い。どうしたのだ」


心配するあまり問い詰める眼差しに

照姫は潤んだ瞳を震わせ

上目遣いに小さな声で答えた。


「あの…

 刺繍ばかりしていたので」


 殿の着物を縫って指を痛めたなんて

 本当のことは言えない

 殿の御誕生日まで秘密にしないと


「刺繍を?

 そんなに寂しかったのか…

 仕事とは言え、すまない」


「上様御名代の大切なお仕事です。

 殿のお言いつけ通りに

 順性院様の御部屋にお邪魔してました。

 ですから、殿はお気になさらず

 これからも思い切り

 お仕事なさってくださいませ」


照姫のあどけない微笑みと言葉に

綱豊の顔が灰色に変わり

強張った表情には亀裂が入った。


「わたしがいなくても

 そなたは寂しくないのか…」


 わたしは照に恋い焦がれ

 一日千秋の思いで

 九日間を耐えたというのに…


あまりの衝撃(ショック)に照姫に背を向け

どよんと項垂れる綱豊から黒い雲が漂う。


照姫は奈落の底に落ちた綱豊に驚いた。

ただ、仕事中は心配しないでほしいと

言いたかっただけなのに。


 やっちゃった…

 どうしよう…

 

 い、言い訳!言い訳をしないと!


焦った照姫は綱豊の前に回り

綱豊の端正で精悍な手に

自身の白く細い両手を重ね

背を丸めた綱豊の顔をのぞき込んだ。


「そんなことありません!

 殿がお留守で、

 照は寂しゅうございました!」


愛らしく焦る照姫の訴えに

綱豊の顔が瞬く間に

晴れ晴れと輝いた。


「そうか…

 寂しかったのか…

 安心いたせ。

 もうそなたに寂しい思いはさせぬ」


次の瞬間

華奢な照姫の体はふわりと宙に浮かび

気付けば綱豊の膝の上に横抱きに。


照姫の顔を

綱豊の端正な長い手が優しく包み

見つめる涼やかなその目には

甘い炎が揺らめく。


 !

 わたくし、またやっちゃったの?


綱豊の長く精悍な指先が

照姫の薔薇の頬を滑り

紅梅の唇をそっとなぞると

なだらかな小さな顎を捉えた。


綱豊の顔が徐々に迫る。


「あの…殿?

 すぐお休みになるのでは?」


照姫の黒曜石の潤む瞳は

抗議の色を湛え

左右に小刻みに震わせながら

綱豊を見上げる。


「そなたが寂しいと言ったのだ」


綱豊はニヤリと微笑む口元で

照姫の可憐な唇をゆっくりと塞ぎ、貪った。


照姫の怖れた

息もできない甘い夜が更ける。

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