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扇 その貳

庭を観ることを諦めた姫君は

御殿の奥の上段の間の

ふかふかな桜色の絹の茵に座った。


目の前に置かれた

暖かな御殿火鉢には

葵と近衛牡丹の紋が金の高蒔絵が

当たり前のように装飾されている。


ぼんやりと眺める

幾つもの葵と牡丹の紋が

もう直ぐ結婚するのだと告げる。


 じいの心配も尤もよね

 皆に迷惑をかけられないもの

 もう少しの我慢

 婚儀が終わったら

 御庭を好きなだけお散歩しよう


姫君は気を取り直して

居並ぶ侍女達に声を掛けた。


鈴が鳴るような愛らしい声ではんなりと。


「皆、長旅御苦労でした。

 今宵はゆっくりと休んでね」


侍女達は

まだ少女なのに女主(おんなあるじ)としての自覚を持つ

姫君の優しさが嬉しかった。


慣れない江戸での生活への不安も

姫君の言葉で和らぐ。


部屋の外から

家老の藤枝が来訪者を告げた。


綱豊の祖母 順性院と

甲府家老女の常磐(ときわ)だという。


姫君は御簾を上げたまま対面した。


櫻田御殿の

新旧女主人の初対面。


順性院は

三代将軍 家光公の目に止まった側室だけあり

それはそれは美しいお祖母様。


家光の次男 綱重の生母 お夏である。


母を早くに亡くした綱豊が

里子先から甲府宰相家に呼び戻されると

順性院が母代わりとなって育てた。


その順性院は、姫君を見て驚く。


豊かで長い黒髪

透き通る白い肌

涼やかで愛くるしい目元

貴人らしい細く高い鼻

可憐な曲線を描く小さな唇


姫君の父は五摂家筆頭の左大臣 近衛基熙

母は後水尾天皇の皇女

どれほど気位の高い姫かと警戒していた。


だが姫君は、美しく賢そうなのに

どこかのほほんとしているのだ。


 この美しい姫君なら

 きっと殿はお気に召される


順性院は胸をなで下ろし

優しく姫君を労った。


「まぁ、なんと愛らしい姫君様。

 常子姫君様には寒い中

 ようこそ櫻田御殿に参られました。

 私も家光公の御台所孝子様に付いて

 京から来たのでございますよ。

 老女の常磐も公家にございますれば」


姫君や侍女達を安心させようと

早々と京女だと明かした。


二人が京女と聞いて

侍女達の緊張が解ける。


「常子にございます。

 幾久しく御願い申し上げまする。

 順性院様のお話、

 常子お聞きしとうございます」


「ほほ、落ち着かれ遊ばされましたら

 沢山お話を致しましょう。

 今日はごゆるりとなされませ」


順性院は姫君に微笑むと

常磐に目線を移し合図を送り退出。


順性院の意を汲んだ常磐は

外に待機させていた甲府家の女中達に

甘酒とお茶、干菓子を運ばせた。


「甘酒などお持ち致しました。

 常子姫君様、皆様、長旅にて、

 さぞお疲れで遊ばされましょう。

 どうぞ御温まりくだされませ」


柔らかな光を留める黒い漆の

高さのある茶托に載る茶碗からは

仄かな湯気が立ちのぼり

甘い香りが漂う。


姫君は白くしなやかな手で

そっと茶碗を取り

香りと湯気を楽しみ甘酒を一口含んだ。


とろりとした上品な舌触りと

程良い甘さが

寒さと長旅で疲れた体と心を癒す。


京から付いてきた侍女達も

甘酒や干菓子に癒されている。


小さな干菓子は

松、竹、梅を(かたど)っていて

目出度い輿入れに相応しい持てなし。


姫君の御殿は和やかな空気に包まれた。



一方、順性院が部屋に戻ると

そわそわした綱豊が待っていた。


順性院が姫君に挨拶に行ったと

藤枝に聞いたのだ。


近づいてくる順性院を見上げながら

綱豊が尋ねる。


「おばばさま、姫君は如何でしたか?

 どのような女御(おなご)ですか?」


「ほほ、せっかちですこと。

 殿らしくもない」


「婚礼の日に

 初めて顔を会わせるのですよ?

 どんな姫か気になるのです。

 男にだって

 心の準備というものがありますから」


「御安心なされませ。

 おっとりとした大層美しく

 愛らしい姫君ですよ」


流石に

のほほんとした姫君とは言えない。


「おっとりとした?」


綱豊は不意を突かれたように

黙り込んだ。


いつもは冷静沈着な孫が

子供のように感情を露わにするなんて…

順性院はその様子が微笑ましかった。


この結婚は上手くいくだろう。

姫君は出自の低い順性院を見下すことなく

綱豊の祖母として

御簾を上げて親しく対面してくれたのだ。


それに綱豊は

姫君に会う前から恋をしている。

綱豊自身は気付いてないだろうけれど。


順性院は心の中で、一人安堵していた。



姫君にとって婚礼の日までは

あっという間だった。


荷解きで運ばれてくる

婚礼の贈り物を確認しているだけで

一日が暮れてしまう。


叔父の霊元天皇から三代集

祖父の後水尾法皇から源氏物語

伯父の後西上皇からうつほ物語…

数多(あまた)の贈り物は

どれも名手によるもので美しく

手に取っては魅入って没頭。

時間は幾らあっても足りない。


侍女達にとって

大人しく書や絵物語に(ふけ)る姫君は

手が掛からなくて助かった。


唯でさえ、引越の荷解きや

婚礼の準備で忙しいのに

情緒不安定(ホームシック)にでもなられたら

手当(フォロー)で作業が止まってしまう。


姫君は本や絵に夢中だけど

この棚の香炉は何を置きましょうとか

几帳の布はどれにしましょうとか

事務的な質問には

おっとりとしながらも

的確に決めてくれる。


やっぱりあれにして、なんてこともない。


姫君にしてみれば

早く物語の続きが読みたいだけなのだが。



それからも

綱豊は姫君が気になって仕方なかった。


剣や馬の練習が終わると

姫君の御殿の庭を何度か見に訪れたが

いつも庭側の障子は固く閉ざされていて

部屋の中の様子さえ(うかが)えない。


 また今日も顔を見れなかった

 同じ屋敷にいるというのに

 

訪れる度に、綱豊は落胆して自室に戻る。


ついに、綱豊は姫君の顔を見ることなく

婚礼の日を迎えることとなった。



明日は婚礼の儀…

姫君は衣桁に飾られた

婚礼衣装の袿を見つめ

そっと触れる。


姫君は、綱豊が優しい方なら

それでいいと思っている。


勝手に何かを期待して

傷つくのは嫌。


せめて事あれば

京と江戸の架け橋となる役目を果たしたい。


自分の人生は

ある意味、諦めと引き換えの

気楽な日々になるのだろうと。


まだ十三歳の花嫁の

不思議な胸中。


並べられた婚礼衣装を後にし

姫君は寝室に入った。




翌朝

牡丹雪がしんしんと降り積もる

婚礼の日。


姫君は極上の十二単に身を包み

松と五色の長い房で飾られ

梅や松の目出度い絵が美しい衵扇(あこめおうぎ)

顔を隠して

婚礼の席に着いていた。


「甲府宰相様、参られました」


満開の桜の絵が描かれ

立派な赤い組紐の房で飾られた

幅の広い障子が開き

この櫻田御殿の主が入って来る。


裃姿の綱豊が姫君の隣に座る。


綱豊は

やっと姫君の顔が見られるとの期待と

でも、期待と違ったらどうしようという

葛藤を押し隠していた。


「甲府宰相 徳川綱豊である。

 幾久しゅう宜しゅう頼む」


綱豊の挨拶が終わると

姫君は衵扇をゆっくりと下ろし閉じた。


綱豊は

心臓が止まりそうな衝撃を受けた。


期待などという次元ではなかった。


煌びやかな十二単を纏う姫君の

触れたら壊れてしまいそうな儚さ

その美しく愛らしい姿。


雪膚(せっぷ)の花顔は光輝くようで

長い睫毛が滑らかな頬に翳を落とす様は

この世のものとは思えぬ麗しさ。


薄い瞼が持ち上がり、

視線が此方に向けられた。

とろむような黒曜の双眸(そうぼう)は凜として気高く

しかし優しげな色を纏っていた。


天女と云われても信じてしまう。

それほどまでに美しかった。


この姫君が我が妻とは。


生涯、この姫君だけを守り慈しもうと

綱豊は心に誓った。



「左大臣 近衛基熙が(むすめ)

 常子にございます。

 幾久しゅう御慈しみくださりませ」


鈴の鳴る澄んだ美しい声で

姫君が挨拶を述べた。


初めて聞く姫君の愛らしい声も

綱豊の心を華やかせ掴む。


固めの盃を交わす

姫君の真珠のような細い指先にも

綱豊は心奪われた。


あまりにも綱豊が姫君を見つめるので

姫君は怪訝に思いながらも

夫となった綱豊に

戸惑いつつ僅かに微笑んで応える。


紅梅の花の如き唇に微笑みかけられ

綱豊は天にも昇る心地。


お色直しを済ませ

披露宴の席に着いても

綱豊は姫君を見つめる。


 早くこの宴が終われば良いのに

 姫君と心ゆくまで話がしたい

 美しい声をもっと聞きたい

 姫君はどんな話をするのだろう

 二人きりになりたい


冷静を装う花婿の心中は

恋に乱れている。


大輪の牡丹の如き麗しい花嫁は

姫君は目の前に並べられた

贅を尽くした婚礼の祝いの膳を

残念な目で眺めていた。


 立派な尾頭付きの桜色の鯛の塩焼き

 伊勢海老もなんていい香り

 美味しそうなのに見ているだけなんて…

 あ、お腹すいてきちゃった


姫君に釘付けの花婿は

隣で浮かない顔の妻に不安になる。


 わたしは姫君に

 気に入られていないのだろうか…

 だとしても、きっと振り向かてみせる


懸け離れた新婚夫婦の胸中を余所に時は過ぎ

やがて婚礼の宴の途中

姫君は夜の支度のために部屋に戻った。


花嫁の後ろ姿に絡みつく

花婿の視線に宿る恋心。


婚礼の宴に招かれた客達は

花婿の想いを察して

祝いの盃を酌み交わす。


男達の宴は夜更けまで続く。



姫君は湯殿で体を清めた後

真新しい艶やかで滑らかな白羽二重の寝巻を

侍女達に着付けて貰いながら

ある不安を零した。


「わたくし、どこか変だったのかしら?」


婚礼の儀と宴に付き添ってくれた

乳母の松島と上臈の秀小路に尋ねた。


「姫君様は

 お年若くあらしゃいますのに

 大層御立派で遊ばしました。

 流石、近衛の姫君様と

 この松島、誇らしゅうございます」


松島の言葉を聞いても

姫君は不安そうに続けた。


「では、わたくし

 宰相様に何か失礼なことを

 してしまったのかしら…」


「いいえ、御作法に則っておられまいた。

 姫君様、何が御心配なのですか?」


秀小路が姫君の不安を取り除こうと

優しく聞く。


姫君は、なおも不安そうに続けた。


「だって

 宰相様はずっとわたくしを御覧だったの。

 だから…」


松島と秀小路は

目を丸くしながら顔を見合わせた。


花婿は誰が見ても

花嫁に夢中とわかるほどなのに。


花嫁自身が微塵も気づいていないとは。


しかし

十三歳の深窓の姫君では無理もない。



「ほほ…御心配には及びませぬ。

 でも、わたくし共がお答えするのは

 不粋というもの。

 御寝室で御夫君様にお聞きなされませ」


秀小路は優しくそう言うと

姫君の手を取り

鏡の前に座らせ

姫君の重みある緑の黒髪を

時間をかけて丁寧に梳いた。


鏡に映る姫君の顔は

まだ不安げなれど

髪を梳く秀小路は

嬉しさを湛えた微笑みを浮かべている。


準備の整った姫君は

華奢な体に白い袿を着せて貰い

初夜の寝室に向かった。

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