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糸 其の六

江戸城近く

小鳥達が囀る櫻田御殿の朝


静かだった屋敷が

俄に活気づき

照姫は、その気配で目覚める。


綱豊一行が

日光参拝から帰還の日。


出迎えの準備に忙しい(オフィス)の気配が

照姫のいる屋敷の奥深くの

御廉中御殿にも伝わる。


照姫は思わず

ふかふかの布団の上に

身を起こした。


 殿がお帰りなのだわ


帰邸は夕刻と聞いているのに

早朝から屋敷の雰囲気は

厳格で活気ある空気に変わった。


藩主綱豊と

付き従う数百人の藩士の帰還を

迎える準備は大がかりなのだ。


夫の存在は

これ程までに大きいと

照姫は思い知らされる。


その夫の妻である

自身の身の上の変わりようも。


つい半年前までは

京の両親の元で

甘えて暮らしていたのに。


照姫は

目の前に広がる絢爛豪華な

金箔の施された桜の絵の大きな襖や

凝った意匠の桜の欄間


螺鈿や蒔絵の

煌びやかな家具で飾られた

部屋を見渡す。 


嫁いだ頃は

この豪奢な部屋が

京から離れた寂しさを募らせた。


与えられた豪奢な部屋が

お前はもう大人で人妻なのだと

教えられているようで。


今は照姫好みの

可憐な淡い色使いの几帳や

花模様の香炉などが置かれ

京にいるような居心地のいい部屋。


その大好きな部屋で

手足を伸ばして

自由に寝返りを打てる

のんびりとした束の間の

独り寝が終わった。


 いつかまた

 殿の御出張はあるのかしら?


ぼんやり考えていたら

乳母の松島が

笑みを浮かべて部屋に入ってきた。


「お早いお目覚めですこと。

 殿のお帰りが

 待ち遠しゅうあらしゃいますか?」


松島は少し揶揄うように

話しかけながら

照姫の煌めく絹糸のような豊な髪を

柘植の櫛で梳かし始める。


「そうね。

 早馬の知らせによると

 道中も御無事で

 予定通りのお帰りですもの。

 ほっとしてるわ」


照姫はその細い肩を

ちょっとすくめ

鈴を鳴らすような声で答えた。


天井裏や床下で

誰かが聞いているかもしれない。


殿の出張が

もう少し長くても良かったなんて

口に出せないお約束。


綱豊の日光参拝の九日間

照姫達女性陣の

気楽な留守番(バカンス)は幕を閉じた。


綱豊のいる

いつもの日常の幕が開く。




茜色に染まる空を瑠璃色が覆う頃

綱豊一行は

櫻田御殿の壮麗な門を潜った。


 ようやく江戸の

 我が屋敷に帰って来れた

 一秒でも早く照に会いたい


綱豊の心は(はや)る。


甲府徳川家の

広大な屋敷


門から大きな玄関までの道には

家臣達がずらりと並んで

主の綱豊を出迎えていた。


照姫から離れた九日間を耐え

自邸に帰っても

やるべき事が山ほどある。


将軍の甥の大名の使命(タスク)


照姫に会うためには

幾つもの儀礼(ダンジョン)

(クリア)えなくてはならない。


最愛の妻

正室 照姫の御殿は

屋敷の奥深くにある(プチ)大奥。


 照、

 直ぐに参る

 待っていてくれ


屋敷(じたく)

迷宮(ラビリンス)のように

綱豊の前に立ちはだかる。



まず、

留守を守った家老の藤枝が

広く重厚な玄関で出迎えた。


「殿、御無事の御帰還

 誠に祝着至極に存じ上げまする」


「うむ。

 留守中、大事なかったようだな。

 大義であった」


綱豊は

藤枝や家臣達を見渡しながら労うが

この広い玄関に

妻、照姫の姿はなく

綱豊の目に落胆の色が滲む。


ただの旗本の妻ならば

玄関で出迎えてくれるのに。


しかし

高貴な姫君の照姫は

小大奥の御簾の中。


綱豊は刀を小姓に預けると

小さく肩を落として

屋敷に入っていった。




「殿のお戻りにございます」


綱豊の帰還の知らせは

直ぐに照姫の御殿に届いた。


御廉中御殿の広間には

出迎えのお茶や御菓子

綱豊の茵や脇息が用意されていて

準備万端。


照姫は鏡の前に座り

白粉を軽くはたき

(つぼみ)のような唇に紅を引き直し

髪を(くしけず)って貰う。


身支度が済み

大広間の上段の間に座ったものの

まだ綱豊の来る様子はない。


照姫は

薄紅色の大輪の牡丹の花の如く

ふんわりと茵に座り

微笑みを湛え

のんびりと気長に綱豊を待つ。



一方、

綱豊は次々と儀礼(ダンジョン)に挑む。


大広間で

重臣達の挨拶を受けると

着替えの間に移り旅装を解き

裃に着替えた。


将軍の命を受けた

使者に会うために。


ほどなく

(オフィス)にある大広間に

将軍側衆の内藤若狭守が現れ

嬉しそうな慈愛の眼差しを

綱豊に向け労った。


「この度は、

 恙無(つつがな)く御役目を果たされ

 御無事に御帰還の(よし)

 上様には大層お喜びにあられまする」


(かたじけの)う御座いまする」


綱豊が仕来り通りに重々しく応えると

若狭守の頬が緩む。


「して、櫻田様。

 御廉中様には

 ご挨拶されましたかな?」


「いえ、まだに御座いまする」


心の内を見透かすような言葉に

綱豊の目が一瞬泳いだのを

若狭守は見逃さなかった。


「御夫婦仲睦まじいとの噂は

 誠のようですな。

 上様に御報告せねば。


 さて、

 若夫婦のお邪魔は野暮というもの。

 早う御廉中様の元に行かれませ。

 それでは、これにて御免」


若狭守は満足そうに頷くと

はっはっは、と笑いながら

颯爽と去って行った。


この後も

労いの宴など立て込んでいるが

折角、若狭守がくれた機会(チャンス)


綱豊は裃姿のまま

老女の常盤を伴い

照姫の御殿に向かった。




「殿のお渡りにございます」


常盤の知らせの声と共に

綱豊が部屋に入るなり

歩きながら照姫の侍女達に

労いと命令を下しながら

照姫を目指す。


「みな留守中大義であった。

 上段の間の御簾を下ろせ」


侍女達は驚いて顔を見合わせながら

大慌てで御簾に手を伸ばし

その脇を綱豊は疾風の如く

すり抜ける。


照姫は涼やかな水色の袿を纏い

御廉中らしく

畏まり威厳ある挨拶で迎えようと

心構えしていたのに

綱豊はいきなり目の前に立ちはだかり

御簾が下りきるのも待たずに

抱き締められ

驚きに目を丸くしながらも

儀礼の言葉を零そうとしたが…


「殿、御無事のお帰り…」


「照!会いたかった!」


武将の逞しい胸に

思い切り抱き締められては

華奢な照姫は息もできない。


「殿…ぐる…し…ぃ」


照姫の声にはっとした綱豊は

腕の力を緩めた。


「すまぬ。

 あまりにもそなたが愛しくて…

 あぁ、そなたの香りだ…」


綱豊はうっとりと最愛の妻に溺れ

ひとしきり抱き締めたあと

照姫の顔を見つめ甘く手で包む。


「大事なかったか?

 寂しかったであろう」


腕に抱かれ

薔薇のような頬を

甘く指先で撫でられては

寂しくなかったなんて言えない。


「殿の御無事のお帰り

 嬉しゅうございます」


黒曜石の瞳で見上げながら

あどけない本心を伝えた。


「わたしの帰りを喜んでくれるのか」


妻の言葉に

綱豊の甘い想いは溢れ

抑えられなくなり

照姫の顎に手を添えると

梅花の如き唇を塞ぎ貪った。


「ん…」


息もつけない照姫の

声にならない吐息が洩れる。


嵐のように荒ぶる綱豊に

照姫は翻弄され

綱豊はこのまま愛する妻を

押し倒してしまいたいが

家臣を労う宴が待っている。


「こほん。

 殿、お時間にございますれば」


御簾の外から

常盤の呆れた声がして

綱豊は天を仰ぎ

照姫をもう一度胸に抱くと

声を絞り出した。


「照、寝室で待っていてくれ」


綱豊が落ち着いたのを見計らい

照姫の乳母の松島が御簾の内に入り

綱豊からやんわりと照姫を引き剥がし

息を切らしている姫の

髪や袿を整え始めたのだった。

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