糸 其の四
日光東照宮参拝に向かう旅の途中
綱豊は
青く透き通る空を
緑の山々が広がる景色を
眺める。
綱豊にとって、
人生初の旅路。
甲府藩主の綱豊だが
参勤交代で
甲府に赴いた事はない。
将軍 家綱の弟の
甲府藩主 綱重と
館林藩主 綱吉は
将軍の家族として特別枠で
参勤交代は課されず
綱重の息子の綱豊も
同様だった。
綱豊は初夏の
美しい筑波の山々を
流れる雲を眺めながら想う。
あぁ、この美しい景色を
照姫と眺められたら
照姫は
日光より遠い京の旅をしたのだな
風光明媚と名高い
諏訪湖や富士の間近を通る
中山道も美しかっただろう
綱豊は愛しい照姫を思いながら
胸元の懐に仕舞ってある御守りと
照姫の匂い袋を掌に包む。
いつか
照姫を連れて旅をしたい
綱豊は夢を見る。
その日の夜。
照姫は御廉中御殿の寝室の
豪奢な百花の描かれた格子天井を
うとうと見上げていた。
殿に気を遣わないで
寝返り打てるっていいか…も…
ふかふかな夜具は
瞬く間に
照姫を眠りの国へ連れて行った。
一方、
日光へ旅の途中の
岩槻城の寝室で
慣れない旅に疲れつつも
綱豊は
腕の中に照姫がいない寂しさ
恋しさ、違和感に眠れず
悶々と何度も寝返りを打つ。
江戸は大丈夫だろうか
酷い雨や雷が無ければよいが
こんなに離れていては
照姫が怖がっても守ってやれぬ
それに…
瞼だけ閉じて
悶々とする綱豊の
夜は更ける。
一夜明けた照姫は忙しい。
綱豊が日光から戻るまでの留守中に
綱豊の誕生祝いの着物を
縫い上げなくてはならない。
照姫の朝の身支度が終わる頃
綱豊の祖母 順性院から
黄八丈を載せた
黒塗りの長い箱が
届けられた。
黄八丈の反物を
綱豊の寸法に裁断して
しつけ糸と印をつけ
硬い黄八丈の生地を縫いやすいよう
太い針は研がれ
反物と同色の糸と
革の指ぬきも添えて。
葵の紋の散りばめられた箱を
照姫と侍女達は
囲むように覗き
順性院の心遣いと
的確な指示に感動した。
照姫は
順性院に感謝しながら
早速、縫い始める。
だが、
ひたすら直線を縫う作業に
照姫は飽きてきた。
それに、あまりにも静かな邸内。
侍女達の
爪弾く琴や琵琶で
無聊を慰めたいところだが
夫は日光参拝の大役を
仰せつかっている。
浮ついて不謹慎と
責められては厄介なので却下。
殿の名誉と
実家と朝廷の評判まで
落としてしまう失態は
避けなければ。
『わたしの留守中、
気が向いたら
お婆さまの御部屋に遊びに伺うがよい』
綱豊の言葉を思い出した照姫は
甲府家老女の常磐を呼び
午後に
順性院の御殿を訪ねたいと
約束を取って貰った。
知らせを受けた順性院は
照姫の申出を快諾。
孫娘ができたようで嬉しいのだ。
午後
照姫は侍女達に
京から持ってきたお菓子や香を持たせ
順性院の部屋を訪れた。
いつもは落ち着いた順性院の
御殿の午後は
花が咲く如き華やかさ。
順性院は
照姫が持って来てくれたからと
侍女に香炉を持って来させ
薫らせる。
部屋には
初夏らしい爽やかな香りが漂った。
照姫と順性院は
仲良く並んで座り
照姫が
ここの縫い方がわからないと聞けば
順性院が
優しく細やかに教えた。
順性院の手際は素晴らしく
着物を縫う
その横顔は
年を感じさせない
爽やかな美しさ。
照姫はうっとりと
順性院を見る。
「順性院さまは
お針もお上手なのですね」
順性院は
照姫の言葉にふふ、と微笑む。
「御廉中さまこそ
黄八丈の生地は目が詰まって硬く
縫うのが難しいのにお上手ですよ」
「順性院さまが
良く研いだ針をくださったからですわ。
お美しいうえに
聡明であらしゃるので
家光公の御寵愛も
深かったのですね」
順性院は
ほほ、と笑う。
大奥のお湯殿で
家光さまの
お背中を流す手際が
小姓のように良いと
気に入られて
お湯殿でお手がついたなんて
ありのままを伝えたら
深窓の姫君の照姫は
卒倒しかねないわね
だから
順性院は
微笑みながら
真実を伝える言葉を
照姫の耳元近くに囁いた。
「家光さまの最愛の御方は
堀田さまでしたのよ」
「!!!」
夫 綱豊の祖父
将軍家光の
最愛の恋人が男性!
順性院の言葉に
袿の袖で口元を隠し
固まる照姫。
もしかしたら
殿も男性がお好きなのでは?
だとしたら
側室がいないのも納得だわ…
わたくしは将軍が決めた相手だから
仕方なく
大切にしてくださっているとか?
あまりの衝撃に
照姫の頭の中は
ぐるぐると高速で動く。
何分照姫は、
慎重で疑り深い
宮廷人なのだ。
順性院は
固まる照姫を見て
あら?と、思った。
武人の男色など
珍しくもないのに。
固まる照姫を
安心させようと
順性院が軽やかに
言葉を続ける。
「公家の方には馴染みがないでしょうが
男色は武将の嗜みですのよ。
女御を戦に連れて行けませんもの。
それに、
お二人は相思相愛で
堀田さまの家光さまへの愛も深く。
家光さまが御隠れのあと
堀田さまは後を追われたのですが
切腹の時、
肌脱ぎしなかったのです。
堀田さまの肌は
家光さまの物だから
誰にも見せないと」
「!!!」
主従を超えた愛の深さに
照姫は
言葉にならない二度目の叫びを
呑み込んだ。
そういえば
根津の別邸で
能を舞っていた少年は
天女のように美しかったわ…
あの、
この世の者とは思われない
美しい少年が殿の恋人?
「では、殿にも愛する殿方が?
どなたですか?」
混乱しながらも
照姫は順性院に聞いた。
正室は夫の主従関係を
把握しておく必要がある。
順性院は
照姫の冷静な言葉に
微笑んだ。
流石、
皇后にも立つべく
教育を受けた摂家の姫君、と。
藩主の主従関係を優先し
情報を得ようとしている照姫。
嫉妬よりも
いや、
これほど愛されていては
嫉妬の感情など
覚える暇もない。
孫の綱豊の
照姫への想いは
激しく熱く
照姫は
その夫の想いに報いようと
慣れない着物を縫う。
若い夫婦の温度差が
順性院には微笑ましい。
「ほほ、ご安心くださいませ。
殿は御廉中さまだけですのよ。
家光さまの
御寵愛深かったのは堀田さま。
家光さまは
子供達の母親である
側室のわたくし達には
お優しい方でした」
つまり
家光には
特別寵愛した側室は
いなかった。
順性院は照姫に
この話をしなくてはならなかった。
いずれ
訪れるであろう日に備えて。
他にも
時間の許す限り
照姫に伝えなくては。
照姫は賢く愛情深い。
必ずや綱豊を守ってくれる。
順性院はこの日
照姫の本質を見抜いたのだった。




