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糸 其の参

日光東照宮で行われる

家康公の命日の法要に向けて

出立の綱豊を見送り

静かになった照姫の御殿。


「御廉中様、

 殿が御無事に御出立されましたわね。

 何時にも増して殿の暑苦し…、いえ…

 御寵愛眩(ごちょうあいまぶ)しく。

 殿の御留守で(しばら)くお寂しゅう

 あらしゃいましょうが、

 九日間などあっという間でございますよ」


照姫の部屋に

葵と牡丹の紋の朱塗りの高坏(たかつき)

(うずたか)く盛られた御饅頭が運ばれて来た。


照姫の乳母の松島は、長い楊箸(やなぎばし)

葵と牡丹の紋の艶やかな朱塗りのお皿に

御饅頭を二つ載せ

早起きしてお腹を空かせている照姫の前に

お茶と共に差し出しながら

夫君の留守を慰める言葉をかけるが

その言葉とは裏腹に

浮き浮きと嬉しそうである。


今より九日間、この屋敷の主の綱豊が留守。

侍女達にとって、束の間の休息期間。


照姫が綱豊に嫁いで数ヶ月、

侍女達もやっと江戸の暮らしに慣れてきた。


しかし、隙あらば照姫の元に

日に何度も訪れる綱豊。

綱豊を迎えて夫婦の世話をする侍女達は

絶え間ない臨戦態勢の緊張感の中

じわじわと体力と気力を削られていた。


侍女達は愚痴など零さないが

主の照姫に、部下の疲労は伝わってくる。


だから羽根を伸ばした侍女達の様子を

照姫は微笑ましく思うし

姫自身もなんだか気楽。


綱豊の日光参拝を祝い

家中に振る舞われたお饅頭を

侍女達も御相伴。


重箱に詰められた柔らかなお饅頭を

各各(おのおの)懐紙に載せ、その甘さに癒され

爪弾く琴ののような声でおしゃべりを弾ませ

小波(さざなみ)のような笑い声で

開放感に()けている。


 (たま)には殿の御留守もいいかも


京の実家にいるような呑気な空気の

綱豊のいない午前を

照姫は侍女達と楽しんだ。


通常夫婦の居間で摂る昼餉も

照姫の部屋でのんびり食べた。

料理の味に集中できるから悪くない。


昼餉の後、一息ついて

綱豊がお膳立てしてくれた順性院との

約束の時間になった。


照姫と侍女達は連れ立ち

障子を開け放した畳敷きの廊下を

庭の咲き乱れる美しい薔薇の花を見ながら

散歩の気分で

綱豊の祖母の順性院(じゅんしょういん)の御殿に向かう。


途中、梅の木に留まっている可愛い緑色の

メジロを見かけ、照姫は立ち止まった。


 殿は今、どの辺りにおいでかしら

 

照姫は青く透き通る空を見上げ

胸元に仕舞ってある綱豊とお揃いの

御守り袋の上に手を当てて

綱豊の旅の安全を祈る。


すると、

照姫の願いを届けるかのように

メジロは枝から飛び立った。




「御簾中様、ようこそ。

 お待ちしておりましたよ。

 殿が御留守で

 お寂しくはございませんか?」


鼠色の滑らかな小袖を着た順性院は

三代将軍家光の目に留まったほどの

若き日の美貌の面影のある

細面の美しい顔に朗らかな笑みを湛え

温かく照姫を迎え入れた。


照姫は通された上座に

優雅にふわりと座ると

畏まって、御礼の挨拶を述べる。


「順性院様、

 この度はお招きいただき

 ありがとうございます。


 また、殿の御無事の御出立

 誠にお目出度く存じ上げます。


 順性院様のお心遣い有難く…

 殿がいなくて寂しいと言うより…

 あの…順性院様にご相談を

 お願いしとうございます」


意外な照姫の口上に

順性院は、あら?と

微かに嬉しそうな笑みを浮かべて

優しく理由を聞いた。


「まぁ、なんでございましょう?

 このような年寄りに

 左大臣様の姫君様の

 お役にたてましょうや」


初めて会った日の印象のままの

優しい順性院に、照姫は安心して

綱豊から根津の屋敷で贈られた

青みの紅色の(うちき)の袖を

少し掲げて打ち明ける。


「殿はいつもお優しくて。

 わたくしの誕生日にこの袿を

 贈ってくださりました。

 それに根津の御屋敷の御部屋も調度品も。


 もう直ぐ殿の御誕生日。

 わたくしからも御礼に

 お召し物をお贈りしたいのですが

 武家の殿方のお着物はわからないのです。

 順性院様にお教え頂きたく

 お願いに上がりました」


「まぁ、そうですか…

 この(ばば)に…

 これはなんと嬉しいことでしょうや」


順性院は満面の笑みで了承して

(しばら)くの沈黙の後、

傍らに控える中年の侍女達に指示を出した。


侍女達は一度部屋を出たが

すぐに戻ってきて

男物の反物を

山のように積んだ漆塗りの長い箱を

照姫と順性院の間に

並べては往復する。



突如、照姫の目の前に

錦の山々が出現した。


金の蒔絵の葵の紋の(ちりば)められた箱には

どれも、目も眩むほどの極上の

金糸や色とりどりの絹の反物が積まれていて

徳川連枝の財力を表していた。


照姫は密かに

目の前の美しい

錦の宝の山々の光景に

うっとり息をのんだ。


 流石、甲府徳川家 二十五万石!


照姫の実家の近衛家は

ほぼ皇族の五摂家筆頭の名家だが

家禄は二千石に満たない。


そんな照姫の

心の声など知らない順性院は

煌びやかな錦の反物の山々を平然と眺め

まるで大根を選ぶかのように

黄八丈(きはちじょう)の反物を手に取ると

はらりと()いて

微笑みながら照姫に見せた。


普段着用の黄八丈とはいえ

深い色の艶のある

見るからに極上品である。


「御廉中様、こちらの黄八丈は

 上様から賜った反物です。


 御廉中様は刺繍がお得意と

 殿から伺っておりますよ。


 これから夏ですので

 普段着の帷子(かたびら)(単の着物)を

 縫って差し上げてはどうでしょう。

 (ひとえ)なので、

 御誕生日には間に合うかと。

 

 御廉中様のお手縫いとあれば

 殿はどれほどお喜びになられるか。


 早速、屋敷の縫い子に

 殿の寸法に合わせて裁断させて

 御廉中様に届けさせましょう」


 上様からの贈り物の反物を!?


照姫は、もう驚きを隠せず

思わず口元を檜扇で覆った。


反物の由来の尊さも

順性院の迅速な判断力や行動力にも。

そして順性院の優しさが嬉しいけれど

そんな高価な反物まで

譲って貰う事に戸惑う。


照姫は

綱豊の誕生祝いの着物の助言(アドバイス)

貰いたかったのであって

反物を貰いたいとか、強請(ねだ)るとか

そんなつもりはなかった。

誤解を招いてしまったのではと

心配になる。

でも、順性院の折角の申し出を

無碍にもできない。


困った照姫は、黒曜石の瞳を曇らせ

上目遣いに聞いてしまう。


「あの…順性院様、

 上様から御下賜の

 貴重な黄八丈の反物を

 譲ってくださるのですか?」


申し訳なさそうな

まだ少女の照姫の心中を察して

順性院は安心させようと優しく話す。


「譲るも何も

 これらの反物は殿の反物。


 今まではこの婆が母親代わりでしたが

 これからは妻である御廉中様が

 殿のお召し物を整えるのが道理。


 こちらの反物は

 すべてお持ちくださいませね」


 ええっ、黄八丈の反物だけではなく

 この反物すべて預からせてくださるの?


照姫は驚きながらも

優しく聡明な綱豊の祖母の順性院に

甘えることにした。

甘えたいのだ。

照姫と同じ、懐かしい京生まれの順性院に

綱豊のようにお祖母さまとして。


「順性院様、あのっ…

 これからもわたくしにお教えください!

 こちらの臙脂(えんじ)に金糸の反物は

 どうお仕立てしたら良いのでしょう?

 えっと、こちらの紺の反物は…」


綱豊のために

順性院に、熱心に素直に教えを()う照姫。

高貴な生まれを鼻にかけることなく

出自の低い順性院を

自分を祖母と慕ってくれているのが伝わる。


 こんなに愛らしくては

 殿の御寵愛眩しいのも無理はない


陰を持って生まれ、家臣の謀叛にあい

父母にも先立たれた綱豊。

だが綱豊は、愛しい妻を得た。


孫の幸せな結婚を

順性院は心から嬉しく思う。

そして、

この縁組を天下人の力技で成就させた

綱豊の伯父である将軍家綱に

心から感謝したのだった。

徳川実紀に

綱豊と照姫の婚儀の翌月のお正月

将軍家綱が、亡き御台所 浅宮の

姉である徳川光貞の御廉中を大奥で会い

八丈縞三十反と

天鵞絨(ベルベット)五巻を贈っています

将軍のプレゼントはスケールが違いますね


徳川光貞は将軍吉宗の父なので

光貞の御廉中の安宮照子は

暴れん坊将軍吉宗の嫡母です


生前、御台所は綱豊を可愛がっていたようで

家綱は御台所を忍び、御台所の姉と

綱豊の結婚を喜び合ったと思われます


家綱と御台所の仲は

冷たかったと言われていますが

かなり仲睦まじい様子が伝わるのです

いつかこちらの夫婦のお話も書いてみたいです

やはり愛の伝え方のスケールが違うので

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