糸 其の貳
「殿、お目覚めのお時間にございます」
常磐の微かな声で目を覚ました綱豊は
腕の中ですやすやと眠る照姫を
名残惜しそうに見つめ
そっと口付けすると
姫を起こさないよう静かに床を離れた。
東照大権現家康公の御命日の法要の
日光へ出立の日。
将軍家綱より仰せ付かった大役を果たすため
綱豊は夜の明けきらぬ燭台の灯る廊下を
足早に自室に向かう。
それからしばらく後、
照姫もいつもより早く起されると
夫婦の寝室に綱豊の姿はなかった。
月に数回ある千代田のお城に登る時も
綱豊の起床は早い。
床に綱豊がいない朝も慣れてきたはずなのに
今朝はほんの少しの寂しさと
未知の開放感が入り混じる。
乳母の松島に
照姫は薄い紫色の袿を着せて貰い
檜扇で顔を隠しながら自室に戻った。
いつもはゆっくり入浴をして
のんびり身支度するのだが
綱豊の見送りがあるから
手早く身支度をしなくてはならない。
朝餉の煮魚が美味しいけれど
お腹が鳴らない程度に終わらせ時間短縮。
照姫の御殿は邸内の静かな奥にあるが、
今日ばかりは表の慌ただしさが伝わり
照姫も侍女達も神妙な心地になる。
照姫は御垂髪を整えて貰うと
御廉中らしき凜とした風情で
衣擦れの音も彩るように
御化粧の間から出て、居間の上段に
優雅にふわりと座った。
部屋には少々着飾った侍女達が居並び
入り側には照姫付き用人早川のじい達
庭には警護の者達が控えていて
綱豊を待つ空気に、緊張と華やかさが漂う。
程なく、旅装姿の綱豊が入って来た。
何時にない我の夫の凛々しさに
照姫の心が時めく。
大役を仰せ付かりお仕事に臨む殿方のお姿は
こんなにも御立派なのだわ、と。
御廉中として改まって迎えてくれる
照姫の威厳ある美しさに魅入られ
綱豊は思わず照姫を腕に抱いてしまう。
照姫は面食らった。
立場上、居ならぶ家臣達の前だから
しっかりしなくては、と思っていたのに。
「殿、この度の日光参拝のお勤め
おめでとうございます。
道中の御無事をお祈りしております」
照姫は困惑を隠しながら挨拶を述べた。
庭側には御簾が下りているとはいえ
こんな大事な日にも
殿のお袖の中で挨拶をするなんて思わない。
綱豊をはんなりと見上げ
鈴を鳴らすような可愛らしい声で
出立を寿いでくれる照姫が愛おしい。
仲睦まじい若夫婦の様子に
部屋の空気が和らぎ
頃合いを測って上臈の秀小路が
三方を恭しく掲げて二人の前に置いた。
「照、これは?」
綱豊が三方に置かれた二つの
小さな錦の袋を見て尋ねる。
照姫は愛らしくはにかみながら
二つの小さな勝ち色の紺の錦の袋を慈しむように
白くしなやかな両手に載せて説明する。
「根津の御屋敷の稲荷神様の御守りです。
それから、こちらは有平糖です。
お疲れになられたら
お召し上がりくださいませ」
「わたしを気遣ってくれるのか」
旅の安全を祈る御守りと
体調を気遣う高価な有平糖。
公家は身分が高くとも台所事情は厳しい。
皇族同然の照姫は
二十五万石の甲府徳川家に嫁いでからも
未だに贅沢をしない。
それなのに御廉中の割り当て金の中から
高価な有平糖を持たせてくれたのだ。
砂糖は高価な輸入品。
照姫の妻としての優しい心遣いに
綱豊は激しく感動して、熱く甘い視線で
照姫を覆った。
その綱豊の勢いに照姫は内心びっくり。
綱豊が照姫から受け取った袋には
葵の紋と小さな躑躅の花の刺繍。
「この刺繍もそなたが?」
「はい。でもわたくし
こんなことしかできなくて…」
照姫が申し訳ななさそうに口篭もるので、
綱豊が慌てて慰める。
「何を…そなたは唯
わたしの傍にいてくれればよいのだ」
お世辞ではない、綱豊の本心である。
ああ、照姫と九日間も
離れなければならないとは…
わたしは九日間持つのか…
恋に苦しむ綱豊の脳裏に考えが閃いた。
「照、そなたの匂い袋をくれ。
そなたと思って懐に入れておきたい」
綱豊の意外な申し出に、
照姫は黒曜石の瞳を丸くして問うた。
「わたくしの匂い袋を?
殿方がお仕事に女物をお持ちになって
良いのでしょうか?」
綱豊は照姫の白く細い手を握りしめて
熱く口説く。
「せめてそなたの香りで耐えるのだ。
儀式中は控え室に置いておくから
問題ない。
誰憚る事無き天下の認める正室の匂い袋。
権現様も笑って許してくださるに
違いない」
出立の時間も迫っている。
照姫は戸惑いながらも胸元から
甘い上品な香りの匂い袋を取り出すと、
綱豊が匂い袋ごとその手を包んで口付け
頬にあて、照姫を見つめた。
「コホン、殿、お時間にございますれば」
綱豊付きの老女の常磐が半ば呆れて、
いい加減になさいませと匂わせながら
出立を促す。
綱豊は観念して深い溜息をつくと
匂い袋と御守りを懐に
有平糖の袋を袂に仕舞った。
「では、照、行って参る。
皆も留守中、御廉中を頼んだぞ」
部屋を見渡す綱豊に
侍女達はお任せくださいと平伏すが
いつもながら新婚夫婦の温度差が断崖絶壁の如きで、生暖かい気持ちになる。
侍女達の気持ちなど
どこ吹く風の照姫の声は朗らか。
「はい、殿。
御無事のお帰りお待ちしております」
無邪気に綱豊を見上げる照姫、
綱豊は後ろ髪を引かれながら
照姫から離れた。
部屋を出る綱豊を伏して見送る照姫達を、
綱豊はもう一度振り返り、玄関に向かった。




