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糸 其の壱

根津の山手屋敷の蜜月(ハニームーン)から

本邸の櫻田御殿に戻った照姫と綱豊。


気楽な根津の屋敷の滞在効果で、照姫と綱豊は少しづつ夫婦として打ち解けつつあるが、綱豊は日光参拝を幕府に命じられており、間もなく出立の予定で準備に慌ただしい。


準備に追われる綱豊とは反対に、嫁いでまだ三月(みつき)の公家の姫の照姫は武家の習慣にも疎く、何かと慌ただしい邸内の様子をほわんと見守るだけ。


大名の正室は大勢の家臣に傅かれているので、世間一般の妻達のように夫の旅仕度の世話をする必要はない。


でも、細やかな愛情と気遣いを注いでくれる夫の綱豊に、照姫は妻として何もしてあげられない我が身に少し気落ちしている。


照姫は微かなため息を漏らす。


一呼吸おいて、仕方ないわ、と気を取り直した。

そして照姫の白く華奢な指先が持つ白銀に輝く針が再び動き出す。

針には美しい光沢の青みのかかる紅の絹の刺繍糸を通してあり、それが優雅に揺らめく。


花好きの照姫はいつも通りのんびりと華やかで可愛らしく飾られた贅沢な居室で、障子越しの柔らかな光を受けながら手仕事をする。

根津の屋敷の躑躅をの想い浮かべて、翡翠色の滑らかな絹の端切れに青みの紅色の艶やかな美しい絹糸で、躑躅の花を一針一針ゆっくりと刺繍する。


筥迫(ポーチ)に仕立てようか

巾着(バッグ)にしようかと思いながら。


高貴な姫の優雅で高価な娯楽は

その実、家が危うい時の備え。

いざという時に糧を得られるようにと密かな危機感を抱きながら楽しむ。

華奢な体の公家の姫に力仕事は望んでも無茶というもの。

ならば美しい品を作り高値で売り稼いで、家族と家臣を養うしかない。

自然と力も入るので、照姫の刺繍の腕も既に見事な域に達していた。


照姫が女房達と和気藹藹(わきあいあい)と刺繍に勤しんでいると、旅仕度で忙しい合間を縫い、いつものように綱豊が突然照姫の部屋を訪れた。


綱豊は慌てる侍女達が刺繍道具を片付ける間もなく、ふらりと入って来る。


「苦しゅうない。そのままで良い」


綱豊は和やかに気さくに侍女達に声を掛けながら照姫目掛けて進む。


「殿、ごきげんよう」


袿が花弁のように広がり蓮の(うてな)に座るかの如き可憐な照姫は、綱豊を見上げながら、はんなりと迎えた。


その可憐に美しい照姫の姿に、綱豊の心からは甘く切ない思いが溢れ、甘い蜜に吸い寄せられるように瞬く間に照姫を腕に包む。


「照、大事ないか?

 支度が忙しいゆえ放っておいてすまぬ。

 寂しくはないか?」


問いながら照姫を思わず抱き締め、頬擦りをしてしまう。

綱豊にとって至福の一時。


ふと照姫の豊かな黒髪越しに、傍に置かれた刺繍台が綱豊の目に入った。

急いで無造作に横に押し置かれた台には美しい布が張られている。


綱豊は照姫を抱く手を緩めると、左腕に照姫を包み、翡翠色の布に咲いた躑躅の花に右手を伸ばしてそっと触れながら眺めた。


「ほぅ、これは見事な刺繍。

 そなたは手先も器用なのだな。

 躑躅の花…。

 根津の思い出を留めてくれたのか。

 嬉しいことよ」


綱豊が生まれた根津の屋敷の躑躅の花を、まさか刺繍にするほど照姫が気に入ってくれるとは綱豊自身も思っていなかった。

父と母が許されない短い恋の時に愛でたという躑躅の花。

綱豊の胸が温かさに満たされ、いっそう妻の照姫が愛おしくなった。

愛おしくて堪らない。

綱豊は躑躅の花を咲かせた照姫の手を取ると、その白く細くしなやかな手を頬に当てた。そして照姫を熱く見つめながら囁く。


「また来年もそなたを根津に連れて行く。

 二人で躑躅を愛でよう」


綱豊の言葉に照姫の顔がぱっと輝き、艶やかな瞳が綱豊を見上げる。


「来年も連れて行ってくださるの?

 美しい躑躅の丘の御屋敷に?

 殿、照は嬉しゅうごさます」


腕の中の美しい照姫に、綱豊は安堵もしていた。

誤解と望郷(ホームシック)で痩せてしまった照姫が、根津の滞在で健康を取り戻し、以前にも増して美しく華やかになったことに。

別邸での気分転換が照姫には必要なのだろう。

照姫の望むものは総て与えよう。

ああ、もっと照姫の傍にいたい。

それなのにもう仕事に行かなくてはならない。


照姫の頬を綱豊は恋心を絡めた指先で撫で、甘く見つめながら親鳥が雛をあやすように言い含める。

自分にも言い聞かせながら…


「かねてから御公儀より仰せ付かりの

 日光参拝が近い。

 たった九日とは言え

 寂しがり屋のそなたを置いていくのは

 後ろ髪を引かれる思いだ。

 だから、私の留守中のそなたの事は

 御婆様に頼んでおいた。

 気が向いたら御部屋に遊びに行くが良い」


綱豊を見上げる照姫は黒曜石の潤んだ瞳を輝かせ、白く細いしなやかな掌を合わせて嬉しそうに弾む。


「殿、わたくし、順性院様の御部屋に伺って良いのですか?」


照姫の子供のように素直に喜ぶ様子が綱豊には愛おしくてならない。

照姫と仕事とは言え九日も離れるのが辛い。


 出来ることなら腕の中の照姫を小さくして

 懐に隠して日光に連れて行きたい


照姫の部屋には侍女達が大勢いるから、綱豊は藩主らしく鷹揚に振る舞うが、照姫を見つめる目には恋に苦しむ想いが溢れている。


照姫はある事で頭が一杯で、切羽詰まった綱豊の気持ちに気づかない。


そんな照姫と綱豊の温度差を、侍女達は生暖かく見守っていた。



京から親戚のいない江戸に照姫が嫁いで大名屋敷の暮らしにも(ようや)く慣れてきたばかり。

照姫にとって、ただ一人の庇護者である夫綱豊の留守は心細かったのでこの提案は嬉しかった。


京の高貴な親戚達に囲まれて、蝶よ花よと育った照姫は人懐こい。


順性院は三代将軍の家光の側室のお夏。

綱豊の父の綱重は、家光と順性院の間にできた子である。

綱重と正室との間に子供が授からないまま

若くして正室が亡くなると、綱重は跡を継がせるため綱豊を呼び戻し、順性院に育てさせた。


順性院は京生まれだという。


照姫が京より、この櫻田御殿に着いたあの雪の寒い日。

迎えてくれた順性院の優しい温かな微笑みは、照姫は京のもう会うことも叶わない親戚を、二人の祖母を思い出させた。

公式の祖母である東福門院徳川和子と、照姫の母の品宮の生母である祖母を。


偶然にも、綱豊が江戸に帰還の頃は綱豊の誕生日が近い。


照姫はいつも綱豊に優しくして貰うばかり。

順性院に相談したら、綱豊の誕生日祝いに何かお返しができるかもしれない。


照姫はふふ、と微笑む。

綱豊の気持ちとは裏腹に、照姫は綱豊の出張が楽しみなのだった。

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