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次の日もまた次の日も

照姫と綱豊は

風薫る根津の別邸の

視界を埋め尽くす躑躅の青みの紅色

淡い紅色、赤みの桃色

赤、白の色取り取りの

咲き誇る花々を共に愛でた。


咲き乱れる躑躅の森の細い小径を

綱豊は照姫の肩を抱き支え

時に照姫の手を引き歩く。


綱豊が自ら選び贈ってくれた

青みの紅色の袿を

照姫は折角だからと纏う。


照姫のいつもの

淡い色合いの装いとは違う

躑躅色の濃いめの重ねは

照姫を華やかに(あで)やかに変え

綱豊の心は囚われる。


躑躅の森の花盛りを纏う照姫の

青みの紅色が

まだ幼さの残る照姫に色香を

顔周りの淡い紅色と

明るい緑の重ね爽やかに

初夏の眩い光が

照姫の瞳を透かし琥珀色に変え

その姿は躑躅の天女の如く。


照姫のあまりの美しさに

綱豊は我を忘れ見つめ

そんな綱豊を照姫は

ほわん、としたあどけなさで見上げる。


躑躅の小径の途中にある

綱豊の胞衣塚(えなづか)の前を通る時

照姫は愛おしそうに

指先でそっと触れ

稲荷神のお社の石段は

照姫の足元が心配と

綱豊は照姫をふわりと抱き上げ登り

二人で柏手を打ちお参り。


帰りの躑躅の小径を通り抜けながら

照姫は

躑躅の花はこんなに綺麗だったのね、と

不思議に思った。

日の光を受け

綺麗綺麗と輝く花々や木々

青く透き通る空の美しさ。


 江戸の空気の色は京とは違うのかしら?

 殿と御一緒の御庭はとても綺麗だわ


綱豊も照姫と同じだった。

花は空は、これほど美しいのだと。

照姫と共に眺める景色は

色も空気も違う。

世界の色が瑞瑞しく美しくなった。


何気ない日常の自邸の庭の散歩が

照姫がいるだけで

この上ない幸せの一時に

変わった。



躑躅の散歩を終え

二人が綱豊の(プライベート)の自室に戻ると

お茶とお八つの大福が待っていた。


温めのお茶を飲みながら

綱豊が照姫を誘う。


「この根津の屋敷の近くに染井という

 植木屋が集まる村があるが

 明日行ってみるか?」


綱豊の誘いに

照姫は黒曜石の瞳を輝かせた。


「誠に?殿、行ってみたい」


袿の袖口から覗かせた

白くしなやかな指の

桜貝のような爪先を合わせはしゃぐ照姫に

綱豊はにやりと口角をあげ

控えていた秀小路に目配せすると

秀小路は重そうに

葵と牡丹の紋の紅い漆塗りの

大きな乱れ箱を畳の上に差し出した。


その箱には

滑らかな淡い藤色の生地に

白や薄紅色の小花の刺繍が

(ちりば)められた可憐な小袖に

銀糸の織の美しい帯が重ねて置かれ

その上に珊瑚の(かんざし)

鼈甲(べっこう)の櫛などの

高価な小物が載せられ(きら)びやか。


 この衣は…


照姫は思い出した。

侍女達が照姫から隠した小花の衣。

てっきり、照姫が傷つかないよう

内緒で側室の出産祝いの品を

用意していたと思い込んでいたのに。


「殿、こちらのお品は?」


照姫があどけない顔で聞く。


「それは旗本の奥方が着る着物だ。

 わたしの主君は上様だからな。


 染井には忍んで気楽に行こうと思う。

 そなたの袿姿は目立ち過ぎるゆえ

 この着物を着て市井に紛れるが良い。

 それに、何があるかもわからぬ。

 いざという時は

 これに着換えて逃げるのだぞ」


綱豊は悪戯な笑みを浮かべる。


 また贈り物!?

 高価な珊瑚の簪や鼈甲の櫛に

 小袖は抑えた小花柄だけど

 極上の滑らかな絹…

 流石、二十五万石の甲府徳川家…


照姫は雨霰(あめあられ)

降ってくるような高価な贈り物に

驚愕する毎日。


固まる照姫に慣れた綱豊は

着物の上の

桜と牡丹と菊の花の透かし彫りの

鼈甲の櫛を手に取ると

照姫の御垂髪(おすべらかし)の前髪に飾った。


「似合うが、御垂髪には少々地味だな。

 やはり照姫には

 螺鈿の多い高蒔絵が良い」


そう言うと綱豊は

照姫を抱き寄せ袖に包み

高坏から大福を摘まむ。


「照姫、口を開けよ。

 たんと食べねば、また痩せてしまうぞ」


綱豊は大福を小さく千切ると

照姫の口に優しく押し込んだ。



次の日の昼餉の後、

照姫の着替の間には

二人の武家の女性がいた。


一人は、

簀の子縁に置いた七輪で

塩鮎や蛤を上手に焼いてくれた

八重桜の花見の

美しい武家の中年女性。


もう一人は、

これまた美しい武家の若い娘で

照姫と同い年くらいだろうか、

とても可愛らしい。


「小花和成武が妻、早苗にございます。

 畏れながら、本日は殿の命により

 御簾中様のお召し替えのお手伝いを

 させて頂くこととなりました。

 隣におりますのは

 娘の園にございます」


早苗は綱豊の従姉弟だという。

綱豊は照姫の身を案じて

信頼ある身元確かな女人を付けた。


早苗は渋い小豆色の小袖を着た

大らかな優しそうな女性。

早苗は挨拶を終えて頭を上げ

間近で見た照姫の美しさに

言葉を失い見蕩れた。


お園もぽぉ、と見蕩れている。


照姫は帝の傍近く育ったと聞いたが

殿上人ならぬ

天上人とはこのような姫君か、と。


照姫は

そんな早苗とお園の気持ちなど知らず

屈託ない微笑みを湛える。


「早苗というのね。

 あの時はありがとう。

 塩鮎と蛤の焼き加減がお上手で、

 とても美味しかったわ。 

 わたくし武家のお着物は初めてなの。

 宜しくね。お園も。」


高貴な身分育ちを鼻にかけることなく

早苗は気さくに優しく労われたことに驚く。

(これ)では

殿が夢中なのも無理はない。


早苗とお園は

心を込めて照姫を飾ろうと

目を合わせて頷いた。


白の小袖姿になった照姫に

綱豊が贈った藤色の小花柄の着物を

早苗が手際よく着せていく。


傍に控えている娘のお園が助手として

紐や錦の帯を

阿吽の息で早苗に手渡す。

お園は照姫よりも

ひとつふたつ年下だろうに

確かな手つきで母の手助けをして

仲の良い母娘の連携は

まるで滑るよう。


「畏れながら御簾中様、着付けは

 どこかお苦しくはございませんか?」


早苗は紐を結ぶ度に

照姫を気遣い聞いてくれる。

そんな早苗に

照姫ははんなりと頷いて答える。


白銀に輝く帯を結ぶ

早苗の細面の顔立ちは

何処となく綱豊に似ていて

綱豊の母も早苗のように

美しく優しい方だったの

だろうと照姫は思う。

殿は早苗に亡き母上様を

重ねているのだろうと。


早苗は照姫の髪も

旗本の奥方らしい髪形に結い

鼈甲の櫛と珊瑚の簪を飾り

口元の紅もそれらしく引いてくれた。


「これがわたくし?」


照姫は鏡に映った自分が不思議だった。

淡い藤色の着物は

照姫の抜けるような白い肌を

浮かび上がらせ

白や桜色の小花は愛らしさを引き立て

島田に結った髪も

髪飾りも美しい。

似合ってはいると思うが

ちゃんと旗本の奥方に見えるか

自信がない。

我ながら偽物にしか見えない。


それは

着替えの間にいる侍女達も同様らしく

微妙な反応。


折角、完璧に着付けてくれた早苗とお園に

照姫は申し訳ない気持ちになる。


居間に戻ると

付き添いの秀小路と楓も

旗本妻女の着物姿で待っており

(つや)めく紺の着物が

きりりとした秀小路の美しさを

深い松の緑の色は楓の優しさを

際立たせたが

やはり何処かしっくりこない。


武家を装っても公家の姫達なのだ。


ここまで微妙だと笑うしかなかった。

女達がみな顔を見合わせ

ふふふ、と笑った。


笑いさんざめいていると

地味な旗本の着物姿の綱豊が迎えに来たが

部屋に入るなり微妙な顔で見渡し

にやりと笑い、

照姫の頭の天辺から足の爪先まで

甘く纏わり付く視線で見つめる。


「これは、面白い外出になりそうだな。

 (こと)に我が妻よ、

 そなたは何を纏っても天女の如き。

 それに、そなたの島田には

 意外にも鼈甲の櫛も珊瑚の簪も似合う。

 早苗とお園の見立て通り」


「早苗とお園が見立ててくれたのですか?」


照姫が嬉しそうに言うが

綱豊は少し心配になった。


照姫はあまりに美しく、

育ちのせいで浮世離れしている。


淡い藤色の着物と白銀の帯が

照姫を藤の花の天女にし

小花の柄が愛らしく彩り

華美を抑えたはずの旗本奥方の着物も

鼈甲の櫛も

珊瑚の簪も

照姫が着ると臈長けて目立ち

鬼や(あやかし)にも

魅入らせそうな美しさ。


照姫を自慢したいが

妖に魅入られては敵わない。

やはり手中の玉の照姫を

人目に触れさせたくない。


「常磐、衣を」


綱豊は念のために用意させていた

薄い羽衣のような桜色の小袖を

老女の常磐から受け取ると

照姫の頭にふわりと被せ

全身を覆ったが

その薄衣からはうっすらと

照姫の美しい姿形が

透けている。


「目立つ檜扇を

 市井で持たせる訳にはいかぬから

 この薄衣に隠れよ。

 鬼妖(おにあやかし)に見つかるなよ」


見上げる綱豊の心配そうな顔に

大袈裟と思うけど

照姫にとっては渡りに舟。


幾ら変装しても、仕草で露見してしまう。

薄衣を被れば多少安心。

滅多に見られない江戸の市井を

薄衣に隠れて

楽しめる。


綱豊と照姫は

蒔絵の少ない目立たない駕籠に乗り

何時になく地味な着物の一行と

根津の別邸から北西にある染井に向かった。


照姫は初めての

江戸でのお出かけに心踊り

駕籠の窓を少し開けて

下屋敷の白い壁が続く景色を眺め

ほどなく緑のこんもりした一角が

見えてきたと思いきや

ぱたんと窓を閉められ

早川のじいの照姫を戒める声が。


「奥方様、間もなくでございます。

 呉々も御慎重に」


照姫は暗くなった駕籠の中で

ふぅ、と小さな溜息を零す。


 早川のじいも心配性ね

 殿が御一緒だから大丈夫よ


照姫がそんなことを思っていたら

駕籠が止まり、

外から綱豊の声が聞こえ

ゆっくりと駕籠の扉が開くと

綱豊が微笑みながら

手を差し伸べて待っていてくれた。


綱豊の指の長い大きな手の上に

照姫の白くしなやかな手を預け

駕籠から降りる。


立ち上り、

被った薄衣の隙間の小さな視界から

建ち並ぶ植木屋を見渡す。


店の棚には

菖蒲、桔梗、桜草と

可愛らしい季節の花々や

渋い苔生した盆栽が並んでいて楽しげ。


照姫が我を忘れて見渡していると

苦笑する綱豊が

薄衣を被る照姫の顔を覗き込んだ。


「わたしから離れるなよ」


照姫は「はい」と頷き

左手の指先で綱豊の袖の裾をそっと掴むと

綱豊はそんな照姫の指先を

ちらりと見て

ふ、と笑い

ゆっくりと歩き出した。


照姫の綱豊の袖を掴む指先は

たっぷりとした薄衣に隠れて

道行く人には見えない。


綱豊と照姫は

建ち並ぶ植木屋の棚の花々を

楽しみながら(そぞ)ろ歩く。


植木を求めに来た娘達や御婦人方は

美しく凛々しい若侍の綱豊に見蕩れたり

すれ違い様に振り向いた。


照姫は女人達のそんな様子に

やはり綱豊は美しい殿方と

認識を改める。

照姫の育った京の家族も

親戚の皇族達もみな美形揃いだから

綱豊が美しくても

何とも思わないというか、当たり前だった。


一方、

照姫も薄衣で隠しているというのに

透ける衣からも

美しい照姫がわかるのだろうか

すれ違う老若の男達の視線を集める。


綱豊は警戒して

店の奥の鬱蒼とした地植えの

植木の見物を諦めた。


今日はお忍びだから

共揃えも少ない。

万が一、

照姫を鬼妖(おにあやかし)

会わせてはならない。


一通り店々の棚の見物(ウインドーショッピング)も終わり

早々と引き上げるべく

綱豊は照姫に所望の品を聞くと

照姫は桜貝の指先を

ほんの少し覗かせた。


此方(こちら)の藤の盆栽と

 彼方(あちら)の桜草の鉢を。

 藤はこの御着物の色。

 殿とわたくしの記念に。

 お園は小花が好きかと存じますので

 桜草を御礼に贈りとうございます」


可愛らしい小さな総の藤の花の盆栽と

可憐な桜草を選んだ照姫に

趣味も愛らしいのだと

綱豊の胸が時めいた。


綱豊は店主に二つの鉢を包ませ

懐から財布を出す。


照姫は初めて見るお財布や

お金のやり取りが珍しく

興味津々で見ていたが

綱豊が勘定をしている直ぐ向こう側の棚に

紅や桃色の牡丹や

白百合の鉢が賑やかに並んでいるので

照姫は思わず綱豊の袖から手を離して

花々に誘われた。


花に見蕩れている照姫は

顔を隠しているとはいえ

その姿は臈長け

立てば芍薬の風情で一幅の絵のよう。


照姫が大輪の牡丹を

綺羅綺羅した瞳で見ていると

後ろから聞き慣れない若い男の声が。


「その牡丹がお気に召されたか?

 (それがし)が差し上げよう」


照姫が驚いて

薄衣を(すぼ)めて振り向くと

紺に金の織物の羽織を着た

若く凛々しい侍が立っていた。


上等な着物を着ているから

大身の旗本だろうか。

侍は溶けるような表情で照姫を見ている。


「某は牡丹を求めに来たが、

 牡丹も霞むほど美しい方と出会えるとは。

 旗本妻女の(なり)をしているが

 上方の女人とお見受けする。

 (いず)れの御屋敷の上臈であろうか?」


照姫はやっぱり京の出とわかるのね、と

我ながら変な感心をした。


「兵庫、止めておけ。

 京の女人と云えばこの辺りは…

 お前、縁談もきているではないか」


若い侍の後ろには

灰色に金糸の羽織の若侍がいて

兵庫と呼ばれた侍を諫めるが

兵庫は顔をほの赤く上気させ反論した。


「不粋な事を言うな帯刀。

 縁談など、どうにでもなるさ。

 お忍びで外に出歩ける女人なら

 上臈か小上臈であろうから

 正妻に申し受けたい。

 あぁ美しい人よ、どうかその(かんばせ)

 見せて頂けないだろうか?」


照姫は怪訝に思った。

この殿方は何を言っているの?、と。

正妻にですって?、と。


照姫がたじろぎ、一歩身を引き

兵庫が照姫の薄衣に

手を触れようとしたその時、

「照!」と、大声がして

兵庫の手が止まった。


「我が妻に触れるな、

 無礼者!名を名乗れ!」


綱豊が走り寄り

瞬く間に照姫を背後に隠した。

見れば、綱豊が手を掛けた刀には葵の紋が。


兵庫と帯刀は怯んだ。


気付けば、

周りは数十人の侍に取り囲まれている。


秒で失恋して

茫然自失の兵庫は意気消沈し

大勢の侍に囲まれ狼狽え

やっと言葉を捻りだし非礼を詫びた。


「これは…奥方とは知らず

 大変失礼を(つかまつ)り申した。

 (ひら)に許されたく願い申し上げまする。

 某は旗本の山田兵庫と

 申す者にございます」


兵庫が相対する綱豊の口元は

怒りでわなわなと震え

目は血走り

同時にそなたの惚れた女は

既に我が妻と

圧倒的な優越感を放つ。


友の帯刀は

茫然自失の兵庫の代わりに

深く頭を下げ詫びた。


「奥方様があまりにも御美しいゆえの御無礼。

 どうかどうか、(ひら)に御容赦を」


「山田兵庫、覚えておく。

 わたしは新見左近。

 田中、馬引け。

 照を連れ直ぐ屋敷に戻る」


綱豊は照姫の肩をしっかりと抱き

振り向きざまに

田中のじいに鋭く命じると

じいは控える家臣らに目配せし

それを受けた三人が走り出し

他の甲府藩士達は

綱豊と照姫を囲み、守った。


程なく

飾り立てられた馬が引かれて来ると

藩士達は広がり

綱豊と照姫と馬を再び囲む。


綱豊はひらりと馬に乗り

何処からか現れた町娘姿の

くノ一の数人が照姫を囲むと

あれよという間に照姫は

ふわりと宙を舞い

馬上の綱豊の腕の中に。


綱豊は心配そうな

少し怒ったような目で

照姫を見つめる。


「照、帰るぞ」


綱豊の言葉を合図に

鉄の扉が開かれた如く

二人を囲んでいた家臣達が二手に分かれ

その間から綱豊と照姫の乗る馬が

走り出した。


呆然と立ち尽くし

見送る兵庫と帯刀。


帯刀が溜息をつく。


「だから言ったではないか、やめろと。

 あのお二人は

 上様が可愛がっておられる甥の

 甲府宰相様と御簾中様だぞ。

 俺ら終わったな…」


秒で失恋した上に

やらかした兵庫は

唯々(ただただ)涙目だった。


そんな二人を余所に

綱豊と照姫の乗った馬が

染井の植木村の門の外に出ると

二騎の家臣と(かち)達が追ってきた。


疾風の綱豊の腕の中で

照姫が問う。


「あの…殿?」


綱豊は馬の走る先を見ながら答えた。


「何だ?」


「新見左近様って、何方(どなた)?」


綱豊は目線を先に定めたまま、

にやりと笑う。


「わたしの養子先での名だ。

 父上は若い頃、左馬頭だったのだ」


照姫は綱豊に掴まりながら

綱重を見上げる。


「格好良い御名です」


「そうか」


綱豊はまた、にやりと笑う。



染井から根津までは

馬で駆ければあっという間。


米粒ほどの馬が駆けてきたと思えば

それは主君の綱豊の馬で

門番は慌てて中に駆け込み(オフィス)に知らせ

奥では湯の用意やら大騒ぎ。


綱豊は馬から降りると

照姫を抱き上げたまま

風神の如く(プライベート)の自室へ戻った。


留守番の老女の常磐と

乳母の松島が

突然帰ってきた綱豊と照姫に驚きながらも

手水やお茶の世話をする。


「殿、お早いお帰りですが、何か?」


常磐が綱豊の清めた手を

拭きながら聞いた。


(あやかし)が出たのだ。

 照を匿う。床を延べよ」


綱豊は美しい眉を歪ませ

茶を飲みながら照姫を見るが

照姫は、ぽかんとしたままで

そんな二人に常磐と松島は

呆れつつも微笑み

控える中臈に目配せ。


中臈達が瞬く間に床の準備を整えると

常磐達は次の間から

絢爛たる躑躅の絵の襖を閉じ

ふかふかの布団の敷かれた部屋には

綱豊と照姫だけが残された。


綱豊は照姫を抱き上げると

布団の上に連れて行き、膝に乗せ

赤子を抱くように腕に包み

照姫の頬を指でなぞりながら

言い含める。


「わたしから離れるなと言ったではないか」


「でも、わたくし

 ちゃんと殿の御側におりましたのに」


照姫は困って綱豊に抗議。

そうなのだ。

照姫は綱豊から

ほんの数歩しか離れておらず

勘定の僅かな間に

偶々、居合わせた

大身の旗本に求婚されたのだ。


照姫は薄衣を頭から被り

顔も体も隠していたのに。


照姫の入輿(じゅよ)のあの日

本邸の玄関で

顔を檜扇で隠した照姫に

綱豊も恋をした。


綱豊は恐怖に(おのの)く。


二度と照姫を

他の男の目に触れさせてはならない。


奥方や御簾中とは、よく言ったもの。


高貴な妻を

奥に隠さなくてはならない理由が

骨身に浸みた。


綱豊はお忍びで照姫に

日本橋の小間物屋で簪を買ってやったり

上野で花見をしたかった。

京の深窓の照姫に

江戸の市井の賑わいを

民の暮らしを教えたかった。

だがそれは

危険極まる行為だと思い知った。


美しい照姫は

鬼妖を呼び寄せてしまう。


最愛の妻の照姫は

屋敷の奥深くに大切に隠すのみ。


「まったくそなたは油断ならぬ」


綱豊が照姫に覆い被さり

影が大きく濃くなる。


「あの…殿?まだ日が高うございます」


綱豊を見上げる照姫の

黒曜石の潤んだ瞳が狼狽え

左右に小刻みに揺れるが

綱豊のにやりとした顔が近づいてくる。


「そなたはわたしの妻だということを

 とくと教えねばならぬからな。

 そなたはわたしだけ見ていれば良い」


綱豊は照姫をそっと横たえると

長く熱い接吻をするのだった。

九代将軍の家重も庭好きの植物愛好家で

染井の植木村を訪れたそうです

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