涙雨
桜の花が散り始め
枝々の小さな淡い緑の葉も瑞々しく
朝の澄んだ風にそよぐ。
綱豊は腕の中の
照姫の髪を撫でながら
少々辛そうに予定を告げる。
「照姫、
今日の午後は所用があって出掛ける。
夕餉には戻るゆえ、
ゆるりと過ごすが良い」
「はい殿。お帰りお待ちしております」
照姫は潤む瞳で綱豊を見上げ
はんなりとそう言ったが
いつもと微かに違う綱豊を
不思議に思った。
綱豊は滅多に外出しないし
外出する時は
行き先を照姫に知らせるから。
照姫は御簾中御殿で
松島や秀小路に世話を焼かれながら
のんびり昼餉をとった後
ゆったりと漢籍の勉強が捗るが
ふと今朝の綱豊が思い浮かび
滑る筆を止め頬に当てた。
夕餉のために夫婦の居間に着いても
まだ綱豊は帰っていないらしく
綱豊の席の紫の茵は空いていて
照姫はぽつんと自分の茵に座り
目の前の御膳に並ぶ
新鮮で艶やかなお造りや
鮃の煮付けなどの
美味しそうな料理を眺め
気長に待つ。
お腹が鳴りそうと心配になった頃
綱豊が急いだ様子で居間にやって来た。
「照姫、遅くなった。さぁ頂こう」
綱豊はお吸い物のお椀の陰から
照姫をちらりと見るが
待ちくたびれたのか照姫の箸の進みが
いつもより遅い。
お腹が空きすぎて眠くなっちゃった
照姫の体は
体力温存機能が発動して眠くなり
好きな甘い煮魚と
お造りを少し食べただけで残し
甘味の柚子の寒天寄せを
一切れ口に。
夜も夫婦の寝室に入るまでは頑張っていて
綱豊の到着を待つつもりが
布団に座るなり
ころんと膝を抱えるように寝入ってしまい
綱豊が寝室に着いた時には
布団を掛けられ
すやすやと眠りの国。
綱豊は心配そうに照姫を抱き寄せ
淡い蝋燭の明かりに照らされた
照姫の愛らしい頬を撫で、眠りにつく。
次の日の午後、綱豊は
照姫の好物の白餡の薄皮饅頭を
老女の常磐に持たせて
照姫の御殿を訪れ
照姫は白くしなやかな指の
桜貝の如き爪先を合わせ喜ぶ。
「とっても美味しそうな御饅頭。
殿、忝うございます」
綱豊は嬉しそうな照姫を袖で包み
白い桃のような頬を撫で、
すまなそうに言う。
「もう表に戻らねばならぬ。
明日も所用で出掛けるゆえ
何かあれば常磐に申すがよい」
綱豊は名残惜しそうに
照姫をもう一度抱きしめ
部屋を見渡し表に帰って行った。
それから綱豊は忙しいのか
外出する日が増えた。
照姫の庭の八重桜が満開となり
畳敷きの入り側に
照姫は一人席を設け
綱豊から届いた黒く艶やかな高坏に盛られた
桜餅を食べながら
物思いに耽る。
八重桜の小さな鞠のような
花が咲きこぼれ
淡い緑の葉の色も可愛らしいのに
綱豊は庭の散歩にも
誘ってくれなくなった。
八重桜をぼんやり見上げていると
灰色の空から
ぽつぽつと雨が降り始め
やがて激しい雨に。
夕刻になっても雨は降り続き
別邸にいる綱豊に
じいの田中が厳しく忠告。
「殿、この豪雨の中の御帰宅は危険ですぞ。
御身の安全が第一でございますから
今宵はこの別邸に泊まられませ」
別邸の庭に
激しく降り続く雨に
綱豊は簀の子縁に立ち
絶望し空を仰ぐ。
「照姫が手乗り文鳥の番に
織り姫と彦星と名付けた呪いか?
こんなに酷い雨だというのに
照姫の側にいてやれぬとは」
早馬が綱豊の別邸泊を
本邸の櫻田御殿に告げ
照姫の部屋にも知らせが届いた。
照姫は御簾中御殿で
一人夕餉をとり
久しぶりに一人自室の布団に横たわり
蝋燭の淡い灯りに照らされた
天井の漆塗りの格子に描かれた
美しい桜や藤や牡丹の絵を
眺めながらぼんやりと考える。
雨が酷いとはいえ
別邸に宿泊の理由は…
側室を別邸に囲っていると
考えるのが自然。
近頃の綱豊は外出続きなのだから。
わたくし、もう殿に飽きられたのね
わたくしはまだ十三で子供みたいなもの
殿にとって物足りなくても仕方ないわ
夜もわたくしを傷つけないよう慎重で
お優しいもの
それに、殿はお父上様の綱重公が
御結婚前に
側室にとの間に儲けた御子と聞いたわ
殿はわたくしだけと仰ってくださったけど
大人の殿に大人の側室がいても
当たり前よね…
照姫は八重桜の
物思いを引き摺りながら
眠りについた。
雨が止んだのは
次の日の薄暮の頃で
照姫と綱豊が再会したのは
夫婦の寝室。
綱豊は先に寝室に着いて
布団の上で照姫の到着を
今か今かと待っていて
照姫の到着を告げられると
飛び上がるように
襖まで迎えに行った。
金箔が豪華な
満開の桜が描かれた襖が開き
照姫が現れると
綱豊は照姫を抱き上げ
布団まで連れて行き
膝の上に乗せ照姫を抱き締めた。
「照姫会いたかった。大事なかったか?
酷い雨であったが怖くなかったか?
そなたが心配でわたしは眠れなかった」
照姫は取り乱す綱豊を
不思議に思った。
殿は側室の存在をわたくしに知られて
眠れなかったのかしら?
側室がいるならいると
仰ってくださればいいのに
殿はお休み前にお湯を召されるから
側室の残り香もしない
どんな方かしら?
きっと美しく色香ある大人の
女人なのでしょうね…
照姫はそんな事を思いながら
綱豊の湯上がりの香りと
体温で温められて
いつも通りあっという間に夢の国へ。
綱豊は胸の中の照姫の体が
いつもとは違い
透明な鎧を着たように
固くなっていて胸騒ぎが。
やはり家臣達の反対を押し切って
無理をしてでも昨夜帰ってくるべきだった
疑っているに違いない
綱豊は眠る照姫の髪を
そっと撫でる。
ある日、
照姫が昼餉から自室に帰ってくると
侍女達が慌てて作業をしていた手を止めて
何かを片づけた。
ちらりと見えたのは
見慣れない衣のようなもの。
「それはなぁに?」
「夏の衣替えでございます」
照姫が無邪気に聞いたのに
侍女が困ったように答えた。
見慣れない衣は
夏用には生地が厚そうで
可憐な小花が遇われたように見えた。
みんな何を隠しているの?
わたくしに隠れて忙しそうに
何かの準備をしているみたいだけど
殿の側室に御子が産まれるのかしら?
あの衣は御祝いの品?
乳母の松島も上臈の秀小路も
照姫が聞こうとすると話を逸らす。
どうして教えてくれないの?
殿もみんなも…
照姫は悲しくて食も細くなった。
人は栄養が足りないと
気持ちも弱くなる。
お椀の陰から見る照姫の様子が心配で
綱豊は身を切られる思い。
その日の夜も
照姫が体を預ける綱豊からは
湯上がりの香りしかしない。
側室の残り香があれば
人となりを推測できるのに
手掛かりさえない。
江戸には照姫の親しい親類は
一人もおらず
頼りは夫の綱豊しかいないのに
綱豊の心は側室の元にあると思うと
照姫は心細くて涙が滲んだ。
綱豊は愛しい照姫が泣きそうなので
慌てて照姫の頬を掌で包みながら慰める。
「近頃忙しくて、一人にしてすまない」
綱豊の言葉に
照姫の瞳からぽろぽろと
水晶の粒のような
綺羅めく雫が零れ落ちた。
「京が懐かしくなったか?」
その言葉に
照姫の感情は抑えられなくなった。
お母さんに会いたい
お父さんに会いたい
照姫がわんわん泣くので
綱豊はどうしていいかわからず
照姫を抱き締め
髪や背中を撫でてあやし
辛そうに言い聞かせる。
「可哀相だがそなたを
京に戻してやることは出来ぬ。
わたしはそなたが側にいない人生など
もう耐えられぬ」
えっ?
照姫の泣き声が止んだ。
「あと少しなのだが…
そなたに泣かれては敵わぬ。
照姫、そなたを明日から数日
根津の別邸に連れていくぞ」
照姫は綱豊の温かい胸に埋まりながら
薄れる意識の中で考えた。
数日間わたくしも別邸に?
やっぱり側室に
会わせてくださるのかしら?
側室のお産に
数日間もわたくしも一緒に付き添うの?
でも殿のお口振りは違うような…
照姫は泣き疲れて
綱豊の胸の中で意識が途切れた。




