勇者の再戦
「魔封師はまず、悪魔を喚びます」
「喚ぶ? 捜すんじゃなくて?」
「捜す、という行為自体が大切なのです。悪魔は人間ではなく神に近い存在。人がその姿を見ようとし、それを呼ぶ詠唱をすることが儀式そのものとなり、彼らは喚び出されるのです」
(何言ってんのかよくわかんねぇな)
エルリオは聞いてみればまだ九歳らしい。国中の子どもと喧嘩しては生傷を作っていた自分と比べて賢いもんだ、と青年は感心する。
「で、その詠唱っていうのは?」
「この巻物に書かれています。巻物自体に強力な魔法がかかっているので、くれぐれも今は開かないように」
「練習はしなくて大丈夫なのか?」
「大丈夫です。魔を倒す力を与えられている者ならいけます」
親指を立ててニッと笑うエルリオはどこかロストルに似ているような気がした。
「あと、悪魔の冠する感情はわかっていますか? それがわからなければもう一つ過程があるのですが」
「わかっているから大丈夫だ」
「それなら安心ですね。ちなみに、今回の悪魔なんの悪魔なんですか? 『悲嘆』? 『寂寞』? 『憂虞』?」
嗜虐、と言おうとして青年はためらった。相手は九歳にしては体が大きいし、自分よりもしっかりしているような気がする。とはいえ、九歳の少女にその言葉を言うのは少し罪悪感があった。
何より、エルリオの後ろにはつぶらな瞳を光らせる保護者が立っている。
「あー、ちょっと言いたくねぇ」
「言いたくないって……本当にわかっているんですか?」
むすっとした顔で唇を尖らせるエルリオ。後ろに立つロストルも同じような顔をする。
狼人間と熊。その相貌は似ても似つかないのに、その表情だけは妙に似ていた。
「なぁロストル。俺のことを怒るなよ」
「はて?」
「……『嗜虐』って言葉の意味わかるか?」
「わからないです。ねぇロスくん。知ってる?」
「意地悪をして喜ぶ気持ちのことだよ」
苦虫を噛み潰したような顔でロストルは言った。そして、青年に向かって怪訝そうに問いかけた。
「そんな悪魔は聞いたことがないのですが」
「俺だって、知らねぇよ」
「ふむ……考えるのは後にしましょうか。エルリオ、続きを話してくれ」
エルリオは頷いた。
「悪魔を喚び出したら次にこの短剣を悪魔に刺してください。悪魔は動きが封じられているので、容易くできるはずです。体のどこでも良いです。ブスッと一突き。そしたら終わりです」
短剣は鞘に納められており、一見すると普通のものにしか見えない。ちょうど、青年の両手に柄と刀身が乗るぐらいの大きさだ。
「あ、今抜いちゃ駄目ですよ。バーーーン、てなるらしいです」
「バーン?」
「違います。バーーーン、です」
真面目な顔で両手をいっぱいに広げる様子は年相応であった。
「よくわかんねぇけど大変なことになるんだな」
「らしいです。他に何か質問はありますか?」
「大したことじゃねぇかもしれないが、本当にこんな町のど真ん中でやって大丈夫なのか? バーーーンってなったらどうすんだ?」
「大丈夫というか、この儀式、なるべく神聖なところでやらないと駄目なんです。普通、町とか村って魔物は入ってこれませんよね。それは大抵町とか村の中心に人柱が埋まっていて、目に見えない結界が維持されているなんです」
人柱。エルリオは青年が聞き慣れない言葉に顔を強張らせたのに気がついた。
「人柱って意味わかりますか?」
「俺を舐めるなよ。それぐらいは流石にわかる。要は、ここに人柱が埋まっているからここが一番この町で神聖な場所ってことだな」
ここ、と地面を指差した青年が立つのはフォサイラスの町の中心の広場であった。昼間、和気あいあいとしていたこの場所の周囲には建物のがれきと戦闘の痕跡が色濃く残っていた。
「説明は終わりましたか?」
ロストルに尋ねられたエルリオは大きく頷く。そして、申し訳なさそうに青年の手を握った。
「ごめんなさい。勇者様。本当は私のやることなのに」
「謝るな。お前のためじゃない。俺の心のためだ」
「心のため?」
首を傾げるロストルとエルリオ。青年は答えない。
「離れろ。なるべく早くやった方が良いだろ」
「では、俺とエルリオは少し離れたところで待機しています。もし、何かあったらこの発煙筒に魔力を込めてください」
「自信を持ってください。私も一回しかやったことがありませんが、なんとか出来ました」
けほ、とエルリオが咳き込むと、ロストルがすぐさまエルリオのことを抱えた。
「もう赤ちゃんじゃないのに」
「まだ小さいだろう。では、勇者さん。よろしくお願いします」
二人の姿が離れていくのを見て、青年は広場の中心に座って巻物を開いた。まだ夜が明ける気配はない。
ヨルゴスもアルクタスも加勢に行ってしまった。青年は一人で、初めての魔法を使う。
(……あ、逃げたい)
夜の闇に一人でいると、変なことばかりを考えてしまう。それの延長線なのか、青年は急に何もかもが嫌になりそうだった。
町ではまだ、魔物が蔓延っているのだろうか。中心部が神聖な場所だというのは事実なようで周囲に魔物や悪魔の気配はなく、町の状況もわからない。
「やるか」
自分にそう言い聞かせると、意を決して青年は巻物を開く。おびただしい量の文字を覚悟していたが、そこに書かれていたのは非常に短い文章。
ただし、一つ大きな問題があった。
(なんだこの文字!?)
青年にはその文字が読めなかった。読めない、というかそもそも見たことのない文字で、一見すると何かの絵かと勘違いしてしまいそうだ。
「もしかして、獣人と人って使っている言葉が違うのか?」
考えても結論は出ない。発煙筒に魔力を込めようとした時、それは起こった。
巻物に書いてあった文字が歪みだしたのである。そして、青年が慌てる前に歪んだ文字の形は整っていく。
「よ、読めるようになってる。これすげぇな」
青年は感心のため息を漏らし、気合いを入れ直すように両頬を叩いた。
「悪魔よ、来い!」
古代魔法語で書かれたそれを詠唱しながら、青年は心の中で毒づいた。
(まんまじゃねぇか)
しかし、すぐに変化は訪れなかった。やはり、詠唱文が短すぎたのだろうか。もしかしたら、裏に何か書いてあるかもと巻物をひっくり返そうとした時、地面にいきなり黒い空間が現れた。
(この黒色、見覚えがあるな。あの時の路地裏みたいだ)
昼間の記憶と目の前の光景が結びつく。青年はすぐに懐の短剣を鞘から抜いた。バーーーンとはならず、代わりに刃が輝く。その輝きはとても眩く、周囲がまるで昼間のように明るくなった。
「来い! 悪魔の野郎!」
青年は叫んだ。黒い空間の中からけたたましい女の笑い声が近づいてくる。
「勇者様、お昼ぶりね!」
キャー、と黄色い歓声を上げて、登場したのは黒髪を艶やかになびかせて、黒い切長の目を細める美しい女。纏う衣服も真っ黒で、白い肌が暗闇に浮かび上がる様は扇状的であった。
悪魔は一瞬で両手を天にあげて飛び出すと、そのまま青年のことを抱きしめた。強く、強く、絞めあげるように。
「なんで……なんで」
地面から上半身だけを出した女は青年と目を合わせる。半円を描いたような真っ黒な瞳を見た青年は昼間のことが脳裏によぎった。
「そうよね。普通は悪魔は動けなくなるはずだもんね。あの魔封師の女の子、次に悪魔を喚び出したら死んじゃうかもしれないから勇者様が代わりにやったみたいだけど、残念。あなたはあまりにも『俗』っぽすぎる。全く神聖さが足りないもの! 勇者なのに、そこら辺の魔封師に神聖さで負けちゃうなんて……勇者様は本当に可愛いね! 哀れでみっともなくて可哀想で!」
ミシミシ、と青年は初めて聞く音を聞いた。しかし、肋骨に響く感触はいつしか味わったことのあるものだった。
短剣を持つ手は項垂れて、刃が地面に線を描く。
「このまま連れて行っちゃおうかな」
恐ろしいことを呟く悪魔だが、青年の手元に光る短剣を見て不愉快そうに眉を上げた。
(これ……か?)
薄れゆく意識の中、短剣自体が発光する光を悪魔に当たるよう、刃の向きを傾けた。
「ギャッ。目が!」
悪魔はたまらず両手で顔を覆った。青年の体は自由になり、夜の闇に女の呻き声と青年の咳き込む音が響いた。
(早く、早く……)
青年の右手は震えていた。それに気づいた青年は両手で短剣を持ち直すと、悪魔の脳天に短剣の切先を向けた。
真っ黒な頭の頂点の白いつむじ。狙いを定めて一気に刃を振り下ろす。
「あ……」
悪魔の動きが止まった。そして、ゆっくりと顔を上げる。まるで、首に何か絡繰が入っているかのような、人ではないものの動きだった。
「かわいくない」
はっきりとそう聞こえたわけではない。切れ切れに聞こえる掠れた声と口の動きからそう言ったのだと青年は思った。
黒い瞳は完全に光を失っていた。その瞳は青年の赤く染まった顔を捉えているはずなのに悪魔は何も言わず、口の端から涎を垂らしていた。
青年が短剣を抜く。と同時に、悪魔の上半身は糸が切れた人形のように地面に倒れ込んだ。
悪魔が出てきた黒い空間が白く染まる。白い空間から光がほとばしる。短剣から出ていた光と同じものだ。
光の明るさはどんどん増していき、青年は目を閉じた。
次に目を開いた時には悪魔はおらず、あの黒い空間も白い光も何もかもが無くなっていた。短剣もいつの間にか鞘に収まっている。
「勇者さん!」
地面を地下強く蹴る音がすると、ロストルが姿を現す。腕の中にはエルリオが抱えられており、狼の少女は灰色の尾をパタパタと振ってにっこりと笑っていた。
「勇者様、お疲れさまです。ほら、朝ですよ」
西を示す指につられて顔の向きを変えると、朝日が青年の姿を照らす。げっそりと頰こけていたが、その瞳は不思議なことに輝いていた。
(ああ、俺、倒したんだ)
ほんの数日前まで身を癒す魔術しか使えなかった自分があの恐ろしい悪魔を祓ったのだ。腹の底から高揚感が湧いてくる。まるで、魔素液を飲んだときのようなあの感覚である。
「腕、痛くないんですか!? すごいことになっていますよ!」
「え?」
ロストルの問いかけに青年の意識は現実へと戻った。自分の腕を見てみれば、赤紫の蛇が巻き付いたようなあざがくっきりと浮かんでいる。おまけに、息を吸えば肺がズキズキと違和感を訴える。
突然、肺と腕を抑えて青年は倒れ込んだ。
「勇者様!?」
「まずい! 自覚がなかったのか……誰か呼んでくる!」
「勇者様、すぐに誰か来ますからね。気を確かに」
エルリオは橙色の瞳に涙を滲ませながら、勇者の背中をさすった。
(私がもっと元気だったら良いのに。私がもっと強かったら、勇者様を癒して差し上げることができたのに。悪魔を祓う役目を押し付けなくてよかったのに)
青年は地面に倒れ伏しながら、その泣き声を聞いていた。痛む右手を無理にあげて、いつしか母親がそうしてくれたようにエルリオの頭を撫でる。
「泣くんじゃねぇよ……なんだ、お前もどっか痛いのか……」
エルリオはより一層激しく泣いた。押し殺していた声が徐々に大きくなり、言葉にならない言葉を発する。
「ごめんなさい。ごめんなさい。痛いですよね」
「…………い、痛くない」
「勇者様だって泣いてるじゃないですかぁ! 私のせいで!」
わんわんと少女は泣く。
「ごめんなさい。ごめんなさい。わたしのせいで、痛くて怖い思いをさせてごめんなさい。気を使わせてごめんなさい」
「わかったよ! 痛い! いてぇよ! めちゃくちゃな!」
大声を出してから青年は顔をしかめる。それを見たエルリオは一瞬動きを止めた後、もっと大きな声で泣きだした。
「大丈夫だ。俺は勇者だから、絶対に死なねぇんだよ」
「でも、でも……」
エルリオの涙が止まる様子は一向になく、次から次へと溢れる涙を絶え間なく両手で拭っていた。
「ロストルに言われて来てみれば……君、少女を泣かすとは勇者どころか人間の風上にも置けないじゃないか」
少し呆れたようなしゃがれた声がして、小さな老人が現れた。
「ちっげぇわ! 俺を見ろ! この怪我を!」
「やっぱり、痛いんですね……私のせいで」
「全然痛くない! 超元気だ!」
「君、その怪我でそんなに大声を出せば怪我に響くだろう。大人しくしときなさい」
「誰のせいだよ……」
ヨルゴスの言う通り、青年は怪我の痛みが増したようで、口を歪ませた。
ボサボサの髭からため息を一つ出したあと、ヨルゴスは青年の体に手をかざした。
「願うは奇跡。奇跡は治癒。治癒を願うは、我が魂。慈悲」
青年の体が淡い白い光に包まれた次の瞬間には腕の赤紫のあざは無くなっていた。肺の違和感も無くなっている。
「ほら、俺はもう元気だから泣くなって……な?」
エルリオはようやく泣き止んだが、まだ浮かない顔をしていた。
「ひとまず、町の外れに行こう。そこにみんな集まっているから」
ヨルゴスの先導に従って、青年は歩き出し、ロストルはエルリオの手を引こうとする。しかし、エルリオはスカートを握って口をへの字にしたまま動かない。
「エルリオ、もう悪魔はいない。帰ろう。みんなが待ってる」
「でも、私……何もできてない! 何もできてないんだよ!」
ロストルは否定することができなかった。
己の役目を果たすべし。それは―獣人として産まれた自身には染みついた考えであり、容易に否定するようなことはできなかった。
そんな二人の様子は再び青年にいつかの自分と母のことを思い出させた。
(俺も昔、こんなことあったな……)
青年は腰を落としてエルリオと目線を合わせた。
「ほら、行くぞ」
エルリオは青年に右手を優しく握られる。驚いて顔を上げると、そこには眉を山なりに曲げて唇を尖らせた男の顔があった。
「……悔しいよな。でも、お前がいなけりゃ俺は悪魔と戦おうとは思わなかったから、お前は立派に役目を果たしたと思うぞ」
また橙色の目に涙が浮かぶ。そしてエルリオは大きく頷いたあと、青年の手を握り返して共に歩き出した。