勇者の役目
悪魔の行進。悪魔が魔物を引き連れて人が多く住む場所を襲うことをそう呼ぶのだと、青年はヨルゴスに教えられた。
行進を扇動する悪魔を祓わない限り、その行進が止むことはない。空間から無限に魔物が湧き出てくるのである。
悪魔を祓えるのは魔封師という特殊な技能を身につけた者だけ。
卓越した魔力を持ち、弱い体を持って生まれてきた者が魔封師として育てられるのだ。
「その魔封師の代わりを君にはやってもらいたい。勇者ならばできるはずだ」
青年は町の中央の広場で縛り付けられていた。右隣ではヨルゴスが同じように縛られており、その二人の縄の端を熊の獣人が掴んでいる。
「ロストル……だったかな」
熊の獣人は丸い小さな半円の耳をピクピクと動かす。丸太のように太い腕と足、ふわふわの毛に覆われた巨体は人と同じような一枚布を肩の部分でピンで留めた服に納められている。
「なんですか。ヨルゴスさん」
目つきは真珠のようにつぶらだが、声は低い。威嚇しているわけではないらしく、穏やかな雰囲気であった。
「私まで縛る必要はあったのか?」
「おい、じじい。てめぇ何一人だけ抜け出そうとしてやがるんだ」
「だって……君は大罪人だから怯える人もいるだろうし」
「だってじゃねぇよ! 誰のせいでこうなったと思ってんだよ! くそじじいが!」
「私も悪魔捜索に乗り出す方が遥かに有益だと思うのだが。どう思う? ロストル」
ロストルは静かに首を振る。
「確かにそうかもしれませんが、駄目です。我々からすれば、あなたも十分に怪しいんですよ」
「……この姿は流石にまずかったか。ならば、仕方ない。ロストル、ほんの一瞬。一瞬でいいから縄を外してくれ。な? な?」
「駄目に決まっているでしょう」
ヨルゴスは諦めたのか、口を閉ざす。その姿を見た青年は、小馬鹿にするようにニヤニヤと笑った。
その様子を見ていた一人の男が言った。
「ヨルゴスさんよ」
「なんだ?」
「本当にそこの大罪人が勇者なのか?」
「ああ、そうだ」
「とてもそうには見えねぇがな……」
男は町の住人のようで、肩に担いでいる剣に刃こぼれはない。しかし、柄の部分は少し色褪せている。
その目は青年が何度も向けられたことのあるもので、青年は刺さる視線が気まずくて黙って首を下げて目を瞑った。
「チッ……勇者ならさっさとどうにかしろよな」
「は?」
青年は顔を上げる。顔に浮かんでいたのは、怒りではなく困惑だった。
「この町に悪魔が来たのは十七年ぶりだ。なんでなのかわかるか? 勇者が来たからだよ!」
男は唾を吐きながら青年の顔を指さした。
「俺の……せいだと?」
「ああ、そうさ。勇者がいるから悪魔がやってきた。やってきた悪魔は魔物を引き連れて、町をめちゃくちゃにした……おかげで俺の家はぺちゃんこさ!」
「んなもん……」
怒鳴り返そうとした青年はぐっと堪える。
男の顔が今にも泣き出しそうだったからだ。
「フォサイラスの周りで一番強い魔物を知っているか? トーギャチャだ。毒を持っているだけの少し大きめの猫だ。あんなにでかい羽と爪の鳥なんて見たことねぇよ……」
男は四肢に包帯を巻いていた。白い布は血で赤く染まっており、男が動くたびに嫌な音を立てた。
「俺らは弱い。魔力が高いやつは軒並み十七年前に死んじまったし、魔力があっても使わなきゃ錆びていく。悪魔を退ける力もない」
とっくに日がとっぷり沈んだ町。今もあちこちで色とりどりの魔法が上がっては、夜の闇に魔物が消えていく。
「泣き言ですか?」
ロストルが口を開いた。男は一瞬、上体をぐっとロストルに近づけて何か言おうとしたが、すぐに肩から力を抜いた。
「あんたには何も言えないよ」
「そうですね。あなたは我々獣人がこの町に訪れて最初に暴言を吐いてきた人間です。何しにきやがった! 帰れ! 魔物もどきが!」
最後の暴言は男の真似をしたのだろう。
つぶらだった瞳が鋭い槍のようになり、穏やかな落ち着いた低い声はドスの効いた汚い怒鳴り声へと変化した。
咳払いをしたロストルの顔は再び小動物のような愛くるしい顔に戻り、また淡々と語り出す。
「しかし、同族を守るためならどんな手も厭わないという点は評価できます。魔物が現れて最初に我々に協力を頼んできたのもあなたでした。頼む……なんでもするから俺たちを助けてくれ……」
今度は顔にシワを作り、口を山なりに曲げて情けない声を出す。目尻からは涙を一筋流すという芸当さえ見せた。
「それにあなたのひどい暴言の後、すぐに町長さんから謝罪がありました。アルクタスはこの町を守らなくてはという感情が人一倍強いやつなんです……ここ数日、この北方でも魔物が活性化しているという報告があります……あなた方も気をつけてください……」
町長は老人なのだろう。ロストルは己の首を軽く絞めてわざわざしゃがれた声を出した。
「私は人間全員があなたのように無礼なわけではないことも、あなたのように仲間を守らんとする意識が強い者がいることも知っています。なので、この場において俺は彼の味方をします」
アルクタスの顔はぐちょぐちょだった。涙と鼻水だらけの情けない顔で、ありがとう、ありがとう、と喘ぐ。
青年はロストルのつぶらな瞳と目が合った。
「アルクタス、あなたはまず、勇者さんに謝りましょう」
「でも、こいつ、大罪人だぞ。さっきヨルゴスさんのことめちゃくちゃ馬鹿にして笑ってたし……本当に勇者なのか?」
「彼の人格が勇者に選ばれるような素晴らしいものであるとは俺も思いませんが、彼が大罪を犯すような人だとは俺は思いません」
「そんなこと言われたの初めてだ」
「あなたは口が悪いが、粋がっているだけのガキンチョにしか見えない。勇者さん、あなたは一体、どんな罪を犯したんですか?」
「……王宮侵入罪と王宮窃盗罪」
「それだけですか? いえ、確かに悪いことではあるのですが……」
「それにしては罪が重すぎないか。そんなん、聞いたことないぞ」
(な、なんだ? なんか……なんか変だぞ)
青年の罪状を聞いたロストルとアルクタスは拍子抜けしたような顔をしていた。
(へ、変なのか?)
王国を追い出されてから青年はその日を凌ぐのに必死でそのことを考える余裕など無かった。しかし、今、再び考えてみれば―。
「君」
青年の意識が現実に戻る。
そう呼ぶのはヨルゴスだけである。いつのまにか縄を抜けていたヨルゴスは言った。
「悪魔を倒す決心は着いたか?」
ロストルとアルクタスは期待に満ちた目をしている。ヨルゴスもまさか断るわけがないだろう、といった風に聞いてくる。
着くわけがない、と青年は反論したかった。ここの町や人に特別な思い入れは全くない。魔封師のエルリオとかいうやつが元気になるまで、持ち堪えたら良いのだ。何なら、ヨルゴスが手を貸せば良い。強いのだから。
(そうだ。さっさとこんな町放っておいて俺は
魔王を倒しに行かなくちゃならないんだ……それにどうせ、俺がいたって何もできない)
数日前まで剣をまともに振ったことも、治療以外の魔法を使ったこともない。そんな自分があんな悪魔に立ち向かえるわけがないのだ。
「おえっ……」
「君!」
(無理無理無理! 絶対無理だ! あんな、あんな頭のおかしい奴……!)
白い手が己の体を這っていた感触が蘇る。滑らかで、冷たい手だった。それが青年の体の鼓動、脈拍、その全てを味わおうとする、残虐な捕食者の手。
ボキリ、と一度聞いただけの音が鼓膜の奥で何度も反響する。
「無理だ……」
青年の独り言を聞いた人間はいなかった。しかし、熊の耳は聞き逃さない。
「は? 無理?」
唸り声とも取れる低い声で牙を剥き出しにするロストル。憤怒の形相の獣は鋭い爪を出しながら、青年を問い詰めた。
「それがあなたの役割なんですよ。勇者さん。あなたのあの証文は紛れもなく本物であると、獣人の鼻に誓って言えます。あなたがいくら拒否しようと、悪魔を倒すのは勇者の役目です」
「俺は勇者になんてなりたくなかった! 勝手に押し付けられた役目を果たす使命なんてねぇよ!」
「そんなもの知りませんよ。みんな何かしらの役目を背負って生きている。それがたまたまあなたは悪魔を倒す、という役目だっただけです」
「うるせぇ! じゃあ、お前んとこのエルリオとかいうやつはどうなんだよ! そいつの役目も悪魔を倒すことじゃねぇのかよ!」
「エルリオは……」
ロストルの逆立っていた茶色い毛が元に戻る。歯を食いしばりながら、何かに耐えているようだ。
「ロストルさん。俺は助けてもらう立場だから何も言えないが、勇者の役目っていうのは相当重いものじゃないのか? そんなに簡単に他人がそういう役目だって言い切るのは……」
アルクタスが青年を見る目からは敵意が消えていた。同情するように眉をひそめている。
「ええ、あなたの言う通りです。彼に役目を果たすことを求めるのなら、エルリオにも同じことを求めるのが筋でしょう。ただあの子は……」
その言葉の続きを言う前に、ロストルはいきなり後ろを振り返った。
「魔物か!?」
そこにいたのは、灰色の狼。体躯から見てまだ子どもだ。
ヨルゴスとアルクタスは迎撃の態勢を取るが、ロストルは呆然としたまま動かない。
「怪我をしているのか……?」
狼の足取りは弱い。フラフラと体を横に揺らしながら、こちらへと近づいてくる。
剣を抜いたアルクタスが近づこうとすると、
「エルリオ!」
ロストルが叫んだ。その声に呼応するように狼は体を一回転させた。
次の瞬間、狼は人間の少女へと変わっていた。ただし、頭には二つの尖った耳が、背後には灰色の大きな尻尾が揺れていた。
「ロスくん。私がやる」
「いつからここにいたんだ? そんな顔色でこんなところまで来て……」
「だって私、魔封師だもん。私がやらないと」
少女、エルリオの肌は白かった。日に当たっていない病人の白さだった。
「駄目だ。これ以上、無理をしたら本当にお前は……」
「でも、この世に生まれた者は誰でも自分の役目を果たさないといけないでしょ? だから私が!」
ロストルはエルリオの肩に手を置き、跪いて項垂れていた。青年にはそれが娘を案じる父親のように見えた。
エルリオの手足は震えているが、橙色の瞳に込められた意志は強い。
青年はもう見ていられなかった。
「わかったよ! 俺がやるよ!」
あの悪魔は怖いが、エルリオを止めるロストルがアンナに重なって仕方がなかった。
「本当に良いんですか?」
「ああ」
もう後戻りはできない。青年は覚悟を決め始める。
「君ならそう言うと思ったよ」
黙っていたヨルゴスはようやく口を開いてそう言った。