3-9 ローレライの歌声
――再誕の暦867年6月2日、探検艦隊旗艦ラズエム=セグネール、ブリッジ――
「アンネさま、お加減いかがですか?」
「もう大丈夫よ。みんなに心配かけたね」
ファルナと一緒にブリッジに入る私に、みんなが心配そうな視線を送る。3日前私がちょっと体調を崩したところで、荒い海の波のせいでよく眠れない夜を過ごして、風邪に悪化してしまった。熱が出て救護隊に診てもらい、一日中寝込んだが、もう問題なく快復した。
「5番艦と8番艦も何人かが体調不良で倒れたみたいですね」
「出発してからもう1ヶ月経ったし、疲れが溜まるからね。みんなも体調には気をつけてね」
「はい!」
ブリッジを見回すと、今ブリッジにいる参謀はリミアとホーミルマだけ。全体的に人が少ないような気がする。そうか、一日寝込んだせいでいつもより早く起きたみたい。確認すると今はもうすぐ朝5時、まだ夜番の時間。
「なにか変わったことがある?」
「はい。夜明け前……1時間くらい前から、水面下監視レーダーの反応がおかしいです。不具合がないかをメカニックに調べさせたんですが、検査できる範囲では異常なしです」
魔力レーダーは軍事機密の塊だから、専門のメンテナンス施設でしか分解できないように仕掛けを施してる。もしここで無理やり内部を覗くと自壊させてしまう。しかし海の魔物のテリトリーである大洋を安全に通過するに水面下監視レーダーは絶対必要。旗艦のが壊れても2番と3番艦でカバーできるが、分散行動がしづらくなる。もし本当に不具合なら、引き返すのも視野に入れるべきかも。
「困ったね。変な反応は具体的に、どんな感じ?」
水面下監視レーダーの表示盤を見ると、インスレヤは問題があるところを教えてくれた。
「このあたりです。不定期的に複数の魔力反応が現れて、そして急に消えるのです」
「……お、ちょうど出たわね。400くらいのが多数いる」
そして数分経過するとまた魔力反応が急に消えた。
「これは、レーダーの不具合というより、何らかの原因で対象がレーダーから見えなくなったかな」
魔力レーダーが見るのは魔力干渉の反応だから、もし自分の魔力を一時的隠蔽できるなら……でも今までそんなことができる人間や魔物は聞いたことがないけど……
『気球班用意完了しました!今から目標地点の偵察をします!』
こんな時間なのに、いつもと変わらないゼオリムの元気いっぱいな声が聞こえた。
「もう気球班に指示を出したのね」
「はい。実際に反応がある場所を見てもらうしかないと思いまして」
ちなみに、夜の暗闇の中では空からでもよく見えないから、基本的に気球班の出番はない。だから気球班にも一応夜番はあるが、「必要なとき叩き起こすから待機室で寝てもいい」となっている。2班しかいない(必然的に夜番の頻度が高い)からこういうところでちょっと融通を利かせた。
『す、すごいです!人魚の大群です!こんな生き物がいるなんて!』
『人魚だって?ちょっと見せて!……バカ!あれは、セイレーンだわ!』
セイレーンのことを知らないゼオリムの呑気な報告を聞いて、フィレリッタは我慢できず双眼鏡を強奪して自分で見たらしい。気持ちはわかるが、操縦員があんなことするのは危ないよ。戻ってきたら危険行動のペナルティだね。
「双眼鏡はゼオリムに返して。もっと詳しい状況説明を」
『はい!30以上の、せいれん?が確認できました!たくさんの小さな岩礁の上にくつろいて、時々海の中に入ります!』
「なるほど。海に入る間だけ、水面下監視レーダーに映るのね」
海の中の魔力干渉反応を観察する仕方が違うから、同じ方法で海面上の目標を確認できない。海上の偵察に使う普通の魔力レーダーなら、人間以外の反応は除外している。だから自由に海上と水中を行き来するセイレーンはいきなりレーダーの表示盤から消えるのだ。
「アンネ様、セイレーンの群れでしたら急いでこの海域を離れたほうがいいではないでしょうか?」
そう。ホーミルマの言う通り。セイレーンは非常に危険な魔物だと知られている。純粋な海の魔物ではなく、地上でもある程度活動できるから昔から目撃例が比較的に多い、その精神魔法による被害も記録に残されている。だから「人魚」という単語を聞いただけで、フィレリッタは慌てて双眼鏡を奪って自分の目で確かめた。
「確かにわざわざ危険に近づく必要はないね。まぁ、まだ10KMくらい離れてるしさすがに大丈夫とおも、」
どこかから女性の歌声が聞こえたような気がして、そしたら急に空間が歪んだようにすべての感覚が狂って……気づいたら私はブリッジではなく、甲板の上に出ている。
「お久しぶりです。アンネ様」
「……う、うそ……」
そこにいるのは、私の専属侍女だったセレンローリ。でも、彼女は2年前私の目の前で海に落ちて、どんなに探しても見つけられなかった……
「生きてるの?あの状況から、どうやって……」
「セイレーンたちに助けてもらいましたの」
「そんな、馬鹿な……」
「ふふっ、わたくしの名前はセイレーンとなんか似てるから、その縁で助けてくれたかもしれませんね」
記憶の中と同じように、いたずらっぽく笑うセレンローリ。どう見ても本物だ。でも、こんなのありえない……セイレーンの幻覚攻撃だ。なんて恐ろしい……敵の術だとわかっていても、抜け出せない……いや、この甘美な夢から抜け出そうという考えさえ浮かばない……
「せっかく再会できましたのに、申し訳ありません……わたくしはそろそろ行きませんと」
「ど、どうして?」
「助けてもらった代わりに、わたくしは地上で長らくとどまることができない体になってしまいました……」
よく見たら、セレンローリの下半身はセイレーンのように、人魚の体になってる。
「……そうだ、アンネ様も一緒に来ませんか?」
「えっ?」
「ほら、この体は地上ではちょっと不便ですが、海ではとても快適ですよ。探検するならこっちのほうがいいではありませんか」
「し、しかし……」
「何も心配することがありません。わたくしの手を取って、一緒に、海へ……」
『アンネ様!ごめんなさい!』
「っ!痛っ!……」
左腕から伝わる激痛が、私を海に引き込もうとするセレンローリの幻影を消してくれた。
「アンネ様の御身に傷をつけて、申し訳ありません。他にいろんな手を試したのですが、アンネ様を正気に戻すことができなくて……」
ファルナはダガーをしまって、出血してる私の腕に応急処置をする。そうか、他に方法がないから腕を刺したか。精神魔法を破るのによく使う手だ。
「状況はどうなっている?」
「よくありません。わたくしも頭が痛くて、満足に動けません。ラズエム=セグネールの全員が攻撃を受けたと思うべきでしょう」
緊急状況のアラートはもう鳴ってる。ファルナの言う通り、ブリッジにいるみんなの様子がおかしい。まさか10KM先にいるラズエム=セグネールに広範囲魔法を仕掛けたの?いくら精神魔法が得意なセイレーンでもそこまでの力があるとは思えないが……ゼオリムの報告によると30体以上いる。それで何らかの方法で力を合わせて術を増幅させたのか?
全員が精神魔法の影響を受けたけど、効果に個人差が出てるみたい。ファルナはまだ動けてるし、大半の士官たちは混乱しながらもなんとか自分の仕事を遂行しようとしてる。症状が特に酷いのは、頭を抱えて泣きながら旦那さんの名前を何度も呼んでるリミアと、手を伸ばして誰もいないところに向けて「行かないで、お母さん、お父さん……」と繰り返しているインスレヤ。
……許せない。みんなの大切な人との思い出を弄んで……
「私はリミアとインスレヤを起こす。ファルナは海兵隊をここに招集して。できればカーシュレも」
海兵は精神魔法への耐性を強化する訓練を受けている。多分ファルナもそれで正気を保ててる。それとカーシュレのような魔法のスペシャリストも耐性がありそう。この状況を乗り越えるために、とりあえず動ける人間を集めないと。
『アンネ様、聞こえますか?』
「っ!スジェアラか?そうだ、気球班はどうなった?」
『セイレーンの精神攻撃を受けたみたいです。私達の操縦が狂って一時危険な状態に陥りましたが、制御を取り戻しました。さっきまでブリッジとの通信が切れたので私の独断で甲板に降りました』
「よくやった。今ブリッジも精神攻撃によって混乱している。指示があるまで甲板で待機するように」
この状況で一番危ないのは気球班だ。ブリッジにも余裕がなくてサポートできなかったが、自力で帰還できたのね。本当に良かった。
リミアとインスレヤにもダガー刺しの処置で正気に戻ってもらって、ファルナはジャイラたち海兵隊とカーシュレを連れてきた。ブリッジのみんなのケアは海兵隊に任せて、私はカーシュレの遠話で一番近い3番艦に連絡を取る。
「……そうだ。セイレーンの群れがいる。こちらはまだ精神魔法の影響下にある。それでそちらから座標T-6に砲撃を頼む」
『了解しました。しかし空中観測の支援なしでは、砲撃の精度はあまり期待できないと思います』
「構わない。少しでも向こうの術の邪魔になればいい。効果がないならまた別の手段を考える」
ラズエム=セグネールはもうターゲットにされてるから気球を出すのは危険すぎる。3番艦の砲撃が当たらないなら、まだちょっと距離がある2番艦の到着を待つしかない。
しばらくして女性の悲鳴みたいな声が聞こえたような気がして、頭が一気にスッキリになった。どうやら砲撃による威嚇がうまくいったようだ。
「セイレーンと思わしき反応が大量発生しました!」
「砲撃の火が怖くて海に潜ったんだろうね」
今のうちにさっさとこの海域から離脱しよう。ついでにこのあたりを危険海域として海図にマークしないと。
アンネの専属侍女セレンローリの話は1-5にあります。




