#055「それでも」
白嶺の魔女。
それは〈渾天儀世界〉全土に響き渡る暗黒の御伽話。
白き死の伝説を大々的に広め、〈目録〉には今なお恐怖として記される。
理由は宜なるかな。
魔女本人が起こした数々の大事件と、その顛末によって……
「白嶺の魔女。ヤツが最初に事件を起こしたのは、古代の前期だった」
発生年数五千年以上。
それすなわち、始まりは渾天儀暦1000年頃。
正確な歳月は不詳なれど、魔女はその時期に初めて存在を確認される。
「はじめは山間の、小さな村落からだった」
動き回る凍死体。
運悪く通りがかった行商人が、死霊と化した村人たちに襲われる。
そうした怪事件が、妙に各地で頻発するようになった。
当然、最初に事態を訝しんだのは地方の取りまとめ役。
それが次第に、代官から荘園騎士、荘園騎士から領主、領主から貴族院、やがては国の王にまで波及した。
というのも、
「セプテントリア王国チェーザレ辺境伯軍。傭兵国家ポルタレーアの一番大隊。〝霜天の牙〟獣神オドベヌス。〝錆鉄吐き〟地竜アイリーン。バケモノ退治の専門家、刻印騎士団」
いずれも当時、名の知れた組織にして怪物たち。
白嶺の魔女はそれらを次々に叩きのめした。
あるいは、即時の再起が困難な状態に変えてしまった。
東国から訪れた英雄や、南方の勇者。
噂を聞いて駆けつけた様々な戦士たちも敗北。
〈目録〉の蒐集官は、史上類を見ない最短の禁忌指定を上奏し、認可された。
そうして、軽率に手出しすれば国ひとつが滅びる証として──『大魔の忌み名』までが贈られることに。
「ヤツの轍には常に堆く積み上げられた凍死体──白き山嶺が横たわる」
よって白嶺。
周囲に凍える死を撒き散らし、屍山血河の頂で永劫彷徨い続ける嘆きの魔。
王冠のごとき捻れの枝角。
それは死霊たちを統べる女王ゆえか。
喪に服する黒衣の礼装。
それは自らの不吉を告げるがゆえか。
顔を隠す二重の覆い。
それはどこか、花嫁のフェイスヴェールにも似ていて、然れど、垣間見える白髏の面は、どこまでも昏い眼窩でひとでなし。
「人間じゃない。生き物じゃない。ヤツは人外で、異形であり、根っからの怪異なんだよ」
魔物とは、そもそういう意味。
この世界に魔女と呼ばれる種族は存在しない。
存在しているのは、魔女という名のバケモノだけだ。
「子を喪った母親たち。子を奪われた嘆きの女。その慟哭はさぞや烈しく、さぞや深かったコトだろう。いったいどれだけの群体なのかは知らないが、魔力を湯水のごとく持ち合わせる『魔女』へと転じるくらいだ」
千や万で数えられる規模ではない。
億。
あるいは兆。
魔女の背景にはそれだけの人生が控えていて、だからこそ高次の魔法使いに変生した。
依代になったのは深層貴種の頭蓋骨。
「分かるか? 小僧」
アレクサンドロはそこで、諭すような声音で言葉を切った。
俺は混乱していて、何が何だか分からない。
とにかく一度にたくさんの情報がやって来ていて、頭の中がパンクしている。認めたくない。
受け入れ難い現実。
にわかには信じ難い真実。
言葉の持つ暴力が、ぎゅうぎゅうに押し付けられ、喉の奥へ捩じ込まれるようだ。
息苦しさで窒息する。
満足に息もできない。
平衡感覚がおかしくなる。
……ただ、それでも分かったのは、
「アレクサンドロ……アンタはだから、その剣でケイティナを殺すのか?」
「──そうだ。呪わしき魔女の死霊術など、世界には無い方がいい」
「じゃあ俺は? 俺はどうなんだ?」
「……殺さん」
「なんでッ!」
「クソッタレなバケモノどもと違って、小僧、オマエは今を生きる人間だろうッ!」
「ッ」
激しい剣幕。
猛烈な怒りを湛えた視線。
アレクサンドロの言い分は、つまりこういうコト。
(ママさんが白嶺の魔女って呼ばれてるバケモノで、過去にたくさんの人間を殺していて、ケイティナは死霊術で動かされてるだけの死人だから)
本来はこの世に在っちゃいけない間違いだから。
聖剣を使って誤りを正す。
禁忌とされていようとなりふり構わない。
(そんで、アレクサンドロにはたぶんだけど、正当な権利があるってコトなんだろう……?)
家族を殺されて故郷を滅ぼされた。
復讐のための三千年。
人生の意味が、そのまんま復讐と同意義になってしまうほどの感情の鬱積。
記憶を喪失した際、男はただ己が分からないと言った。
それは、復讐者としての己。
自らの人生が、いったい何のためにあったのかを忘れてしまっていたからだ。
それほどの決意と、覚悟を以って、数千年間歩き続けた。
今さらやめてくれと頭を下げたところで、アレクサンドロは止まりはしまい。
所詮は出会って数ヶ月ほどでしかないガキの言葉では、この復讐鬼はあまりにも長く応報の縛鎖に繋がれている。
もしかすると、類まれな剣技すら、そのための集積かもしれない。
「……なあ、だったらさ? だったらだよ? アンタがここにやって来たのも、最初からそのつもりだったからなのか?」
震える膝に力を入れ直し、崩れ落ちそうな背中に必死に立ち続けろと命令する。
いまや俺とアレクサンドロは、互いにひとつの予感のもとに、刃物を向け合い対峙している。
無論、リーチも経験も何もかも向こうが上だ。
それでも、俺は斧を下ろすワケにはいかない。
鉄の重みが支配する空間。
エルフの男は、堪えきれないといった様子で顔を歪ませ、怒りに満ちた顔でこちらを見下ろす。
「誤解するな。オレがここに来たのは偶然だ。異界渡りの魔術は行き先を指定できない。だが」
「だが?」
「オレは魔術も使う。白嶺は知らんのだろうが、異界渡りの魔術もここ一千年でかなり進歩した。行き先は依然として誰にも指定できないが、ある種の偏向性を与えるコトはできるようになってる」
「……偏向性?」
「ああ。オレは術式に、魔女の記号を盛り込んだ。そうすることで、どこに吐き出されるにしろ、必ずヤツの気配が濃厚なところに出られるように」
一時撤退を選ぶにしても、再び見失うほどの時間は与えない。
できるだけ短時間で、まっすぐに、再戦へ臨めるように。
「それがまさか、背負っていた聖剣を剥ぎ取られたことで、ここまで長時間の寄り道になるとはな……」
おかげで、思わぬ時間と不要な苦しみを負うことになったと。
アレクサンドロは自嘲の笑みで鼻を鳴らす。
俺は「なんだよ」と笑った。
「じゃあ、やっぱり最初から、狙ってここに来たってコトじゃないか」
「……あくまで偶然だがな。結果的には、そう取られても仕方がないが」
「運がいいんだか、悪いんだか……」
「ハッ! そりゃ悪いんだろうよ。オレたちはお互いに、運が無かった」
……ああ、全く、本当にその通りだ──
(正直、まだ何にも追いついてなんかないし、認めたくもないんだけどさ)
アレクサンドロの言葉が、すべて正しいのだとしたら、いろいろと腑に落ちるコトも確かだった。
ノタルスカ山麓の亡霊は、ママさんの操る奴隷。
だとすれば、霜の石巨人に殺されそうになったとき、どうして都合よく助けが現れたのか?
その疑問に答えが与えられる。
(自分の〝子ども〟を探して、あちこちを彷徨い歩く魔物、か……)
あの時の俺は、たったひとりだった。
攫うのは簡単で、誰にも邪魔はされない。
思えばあの森で、たくさんの亡霊に囲まれたとき、あの時点で俺は彼女に狙いをつけられていたんだろう。
俺は彼女の、いいや、彼女たちの? ……とにかく本当の子どもではないが、これはきっと、そういうコトとは関係ない。
魔物。魔物。魔物……けれど、そこから先で与えられた穏やかで優しい暮らしは、ああ、自分でも不思議だ。
(……名前。どうして、一回も訊かなかったんだろうなぁ……)
大剣の熱を間近に感じるからか、いまではハッキリ疑問に思えるのに、俺はこれまで、一度として彼女の名前を訊いていない。
ケイティナの名前は知っている。
なのに、彼女のことはずっと、ママさんママさんと呼ぶしかなかった。
(魔法とか、かけられてたのかな)
催眠術。
いや、洗脳?
わからないけど、魔法なら可能なんだろう。
彼女は子どもを喪った母親たちの死霊群体。
名前を訊かれたところで、返すべき名前をひとつには絞れなかったとかが、理由にはなるのかもしれない。
(それとも、疾うの昔に、自分自身でさえも思い出すことができなくなったとか……?)
人ではないと聞かされて、その事実に驚きはない。
だって、今はそんなコトより、遥かにこっちの事実が辛く感じる。
(ケイティナの歌……)
“眠れ 眠れ かわいい子”
“ひと夜 ふた夜 さん夜とこえて”
“夜は 暗く 冷たく恐ろしい”
“鳥の 羽ばたき 耳を澄ませ”
“白の 風が おまえをさらう”
“ゆえに 眠れ 眠れ かわいい子”
“ひと夜 ふた夜 さん夜とこえて”
“いつか 真昼の 花を 咲かせましょう”
“太陽の 車輪 追いかけるため”
(白の風って、じゃあ、そういうことじゃねぇか……)
子守唄で、且つ〝さらう〟という表現。
いろいろ符号しすぎていて、気のせいとして片付けるにはちょっとばかり無理を感じる。
俺は、多くの隠し事をされていた。
(ハハっ、アレクサンドロのことを黙っていたのは、そう考えるとおあいこか?)
──けれど。
「だとしても、だとしてもさ……俺はやっぱり、ふたりが好きだよ」
たとえ死人でも、世界から呪われる魔物であっても。
俺を救ってくれたのはこのふたりで。
俺に誰かとの語らいが、このうえのない幸せなんだと感じさせてくれたのはこのふたり。
「うん。だからさ──悪いけどアレクサンドロ。俺はここじゃ、引き下がれないわ」
「……それが、魔女の悪辣な罠だと知ってもなお?」
「だって、こんなにも大好きなんだ。その想いは裏切れない」
「──っ! ラズ、くん……!」
腰の重心を落とし、全身の筋肉に力を漲らせる。
呼吸を回せ。
神経を研ぎ澄ませ。
斧を持つ右腕を後ろに下げ、精一杯弓のようにしならせた。
これは家族を守るため。
大切な少女を守るための戦い。
目の前のエルフの男だけには、絶対に譲ってやるワケにはいかない。
だって、そう教えられた。
「──そうか」
アレクサンドロは苦渋と、憤懣を噛み潰したような顔で一歩、同じように足の位置を変える。
腕の構えは、見慣れた大上段からの振り下ろし。
大狼流の強撃が待ち構える。
そして、
「ならば小僧……オレはオマエを斬り伏せてでも、本懐を遂げてみせる」
咆哮。
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tips:大魔の忌み名
人類から大いなる魔物へ、畏怖を込めて贈られる〝忌避すべき名〟
その名を聞いたならば誰もが息を呑み込む。
人類側からの一種の降参宣言。
およそこの名を与えられた魔物で、凄惨な事件を起こさなかったモノは存在しない。
なお、忌み名を贈られるから大魔なのでなく、大魔であるから忌み名を贈られる点に要注意。
中には名を持たないモノも存在している。




