夏の庭、蝉と少女
「 」
梅雨の雨が燦燦と降って庭木が濡れた。
今週はおばあちゃんの家に泊まっている。お母さんたちが出かけているから。
雨があがって間もないというのにまた蝉が鳴き出した。
和室のテーブルではキャップも閉めずに放ってきた万年筆が重し代わりになって原稿用紙を抑えている。書きかけの小説だ。今しがた自分の才能のなさを痛感して、書くのをやめてしまった。今頃、湿気でもろくなっているはずだ。
自分の中にあるどす黒い何かをペンに乗せて文字に綴ろうとするとどうしても恥ずかしくなって挫けてしまう。私にそこまでさらけ出せる勇気はない。勇気の出し方をあの蝉に尋ねてみようか。
その時だった、背中に痛痒い感覚が上ってくる。
背中のそれを確認するため服をまくって腰から背中へ左手を滑り込ませる。最初にその謎に触れた薬指が正体を教えてくれた。常温の鉄だ。小さな鉄の粒が背中の中腹あたりから背骨に沿うように肩甲骨の高さまで途切れることなく続いている。そして終わりには何かがぶら下がっている。服から出した手は、確かに鉄の匂いをまとっていた。
廊下を走り洗面所を目指す。途中、すれ違ったおばあちゃんに叱られたが構わず走り抜けた。ドアを開け、服を脱ぎ鏡に背を向ける。背中にあった鉄の正体はジッパーだった。皮膚に直接ジッパーが張り付いている。一体全体どうなっているのだ。奇妙きてれつな私の背中は現実なのにCGのような不気味さを背負っていた。あまりのおかしさに乾いた笑いがのどを揺らす。夏の暑さに魅せられてしまったのか。
医者に行って診てもらおう。そう思い、洗面所を後にする。おばあちゃんを探すがどこにもいない。出かけてしまったのか。私一人で病院にたどり着けるだろうか。このあたりの土地勘がないのに加え、病院までは徒歩三十分かそれ以上はかかる。確か軒下に自転車が置いてあった。サドルが濡れてないといいけど。玄関から庭へ出る。サンダルがパカパカと間抜けな音をたてて脱げてしまいそだ。サイズが一回り大きい。自転車は雨水に濡れていた。倒してあったので起こして、ぎこちなく跨る。サドルはひんやりしていて濡れているのかはわからない。まず、大前提として私は自転車に乗れるのだろうか。小学生以来乗っていないし、これはおそらく、いとこちゃんたちが置いて行ったものだろう。勝手に乗るのは許してくれるだろうが、転んで傷つけてしまっては確実に叱られる。あの子たちはおっとりしているように見えて気が強いから。試しにちょっとだけ乗ってみよう。前に体重を移動させると、右足が地面にしばしの別れを告げる。すかさずペダルを踏み込み、左足も右と同じように働かせる。ゆっくりとだが進む感覚が気持ちいい。前輪につながったハンドルをしきりに動かし左右のバランスをとる。よし、このままでスピードを上げれば、安定して走れるだろう。
そう確信して踏み込みを強めた瞬間、止まってしまった。静止。時が止まったように私は静止してしまった。物理法則は心得ていないが、それでもわかる。不可能だ。私のこの状況は地球のルールに反している。両足を地面につけないまま自転車に乗って、バランスを保っているのだ。それどころか、服や舞い上がった髪の毛すらも凍ったように同じ形を維持している。次の瞬間、背中をこの世のものとは思えない、悪意が具現化したような力で引っ張られる。自転車が遠のき、三メートルほど後方に投げられた。すぐに上体をおこし、振り返る。何もいない。ガシャン。遅れて自転車が倒れた。息が上がる。家にいるのに家に帰りたい、そんなせ切なさと心細さが鼻水と涙となって込み上げてくる。ジィィィィィ。後ろよりももっと近いところ。体内よりも少し遠いところから、粒状の細かい音が聞こえてくる。すぐに、背中を確認した。ジッパーが少し開いている。恐る恐る中に手を入れる。冬の土のような冷たい空気が手を握る。
「何かがいる。」
思わず声に出してしまった。私の中に何かがいる。何かがうごめく気配を感じる。それは知らないものじゃない。幼いころから知っている。昔から体内にあって、ずっとそれを感じて生きてきた。ただ、これを外に出してはいけない。全部出してしまえば私は生きられない。細かい振動とカルシウムで出来た鎧がこすれるような騒がしい音が体内から骨を伝って聴こえてくる。その音は段々大きくなり、もう自分の声も聞こえない。ジィィィィィィィィィ。太刀打ちできない。抑えられない。出てしまう。でて……。
それは骨組みのないテントが大量の空気を含んでめいいっぱい布を張るように私の背中から飛び出した。心臓に響く鈍い重低音を発しながら、屋根を越えるほどの高さまで膨らんで、気球のように揺らいでいる。その揺らぎが庭の四方に涼しい風を送り、低木の水滴を振るい落とした。
蝉の化けもの。
彼は広い空を背景にじっと私を見ている。人体の構造すべてが真逆に組み替えられたような痛み。彼の正体、目的はわかっている。
「わかった! わかりました。だから、許して。」
彼は私の才能。私の狂気。本当の私。
ずっと普通であろうとしてきた。普通じゃないなんて恥ずかしいだけだから。でも、間違いだった。私は彼を閉じ込めすぎた。土の中で何年も何十年も、地上の光を夢見ながら、私が呼ぶのを待っていたのに。けれどもう、しびれを切らした。私という殻を破って飛び立つつもりだ。
「許してください。ちゃんと、ちゃんと書きます。貴方のことをちゃんと書くから。お願いします。お願いぃっ。」
彼は聞き入れない。痛みが増す。羽を広げて遂に飛び立とうとする。
「主人公の裕也は佐那のことが好きなの!」
私は咄嗟に、自分で考えた小説のあらすじを叫んだ。それを聞いた彼は動きを止めた。
「でも、でもっ、佐那は人間不信で、誰にも心を許さないんです。でも、それでも、裕也は持ち前の明るさで、佐那の凍った心を溶かすの。物語の見どころは、二人がキスする場面。そこが、よくて。口づけするとき、宇宙から飛来した燃え尽きる寸前の小さな隕石が佐那の頭を貫くんです。それで、それで佐那は死ぬ。大気圏が溶かしきれなかった隕石にあたって死んじゃうの。面白いでしょ? 自然は、運命は、人間のために努力してくれないし、寄り添ってもくれない。この話は神の存在を否定しているの。神を信じてる人に、この世界は残酷なものなんだよって、教えてやってんの。最高だと思いませんか?」
彼はまだ私をじっと見下ろしている。私の意味不明な話にあっけを取られたのだろうか。
「あと、まだある。もう一個。ネズミのエイデンが、黒くてどれだけ歩いても終わりの見えない道を、歩いているんです。それが冒頭で、それで、歩いてると、人間の女の人の歌声が聞こえてくるんです。エイデンは彼女に恋をして、彼女を求めて歩き続けます。で…それで、オチ、オチが、その黒い道ってのがレコードだったんです。音楽が聴けるあのレコード。エイデンはレコードの回る盤の上をずっと歩いていた。で彼女に会えないって気づいたエイデンは、盤の上で立ち止まるんです。そしたら、遠心力で空中に放り出される。落ちた先には、ネズミ捕りがあって。終わりです。最後は、体が真っ二つになって、内臓撒き散らかして、すっごい汚い死に方にさせます。あの、ほかにもいっぱい考えてて、私が本当は書きたかったけど書けなかった話。全部書きます。全部さらけ出しますから。お願い。許して。今まで閉じ込めててごめんなさい。だからっ……いかないで。」
早送りな逆再生のように彼は私の中に収納された。私はしばらく庭にうつ伏せになって放心していた。服が捲れてあらわになった背中に、雨上がりの雲を抜け出してきた陽光が燦燦と降り注いだ。仰向けになって空を見た後、服を戻して立ち上がった。
「書かねば。」
自分に言い聞かせるように呟いて、和室に上がった。
私はその後、小説を書き上げ、いとこや学校の友達に読ませた。どす黒い何かをインクに流し込んで書いた話を面白いと賞賛してくれる人は少なかったけれど、それでよかった。
そうやって日の目を浴びさせないと私は彼に殺されてしまうから。