そこにいたものは……
再び、今度は自らの意思で奴隷に身を落としたローニャは、以降まるで無気力だった。
ただ、労働を求められれば仕事をすれば。身体を求められれば身体を差し出せば。楽に、生きていくことができる。
寝ているときに、たまに昔のことを夢に見るが……それすらも、今はなんでもないこととして、割り切ることができていた。
「ローニャ、お前はよく働くなぁ。感心だぞ」
「ありがとうございます、飼い主様」
新しい主人のことは、飼い主様と呼ぶように躾けられた。他にも数人のメイドがいたが、皆同じように呼んでいた。
ただ心を殺して、もう失うものはなく。だから、自分が生きるために。確実な方法として、この方法を選んだ。
「っ……」
今回の飼い主は、以前の主人に比べれば少々特殊な趣向を好む傾向にあった。奴隷に痛みを与え、そして痛みが快楽に変わるほどに仕込む。そういう、一般的には異常と呼ばれる趣向者であった。
それを知っても、ローニャは飼い主様の下を去ることはなかった。痛みも、最初は驚きこそしたけど、次第になにも感じなくなっていった。
時には飼い主様の道具として。時には単なる憂さ晴らしとして。様々な、痛みを受けたローニャは……もう、なにも感じなかった。
時間の感覚すらも、もはやどうでもよくなっていた。そんな、生活がしばらく続いた……そんな、ときであった。
ワァー……
「? 外が、なにやら騒がしいな」
外が騒がしいと、そう気づいたのは飼い主様だ。ローニャは、言われるまで気づくことはなかった。外の動向にも、興味はなくなっていたからだ。
だが、飼い主様は違う。外の世界にも目を向け、気になることがあればそれを確かめる。
そして、今回その白羽の矢が立ったのは、ローニャだった。
「ローニャ、外でなにが起きているか、見てこい」
「……はい、飼い主様」
今、自分は外に出ても問題ない格好だろうか……以前ならば気にしていたことも、もはやどうでもいい。ただ、飼い主様の命令に、従うだけだ。その飼い主様も、格好についてなにも言わない。
家の扉を開ける……
「……っ」
外の光を浴びるなど、いつぶりだろう。窓の外から射し込む光とは違う、まさに自然の恵みというやつだ。
少し、少しだけ気持ちがいい。以前ならばきっと、このまま日向ぼっこをしようと、思えたのかもしれない。
「……誰も、いない?」
だが、今そのようなことをしている時間も、するつもりもない。周囲を見回し、あることに気づく。
……人が、いないのだ。誰がいれば、なにかあったのか聞けば済む話だった。そうであれば、手間は少なくて済んだのに。
騒ぎは、確かに起こっている。それを確認するためには、そこまで移動しなければいけない。
面倒だが……飼い主様の命令ならば、仕方がない。
「あっち、かな……」
ローニャは、足を引きずるようにして歩いていく。普段家から出ないためだろう、ローニャの足の筋力は著しく低下していた。
いや、足だけではない。
「……こっち」
道を、歩いて、歩いて、歩いて……曲がって。常人であれば、決して遠くはない距離を、しかしローニャは長い時間をかけて移動していく。
そして、かすかににおう……血の、におい。自分のものではない、血のにおいだ。
「……」
耳が、反応した。すぐそこだ、騒ぎの原因は。そこになにがあっても、驚かない自信はあるけれど。なにがあって、なにが起こっているのか、確認して、飼い主様に報告しなければならない。
そう、思いながら最後の、曲がり角を曲がると……
「……あ、れ……?」
ふと、懐かしいにおいが、した。鼻をくすぐる、懐かしいにおいだ。これは、いったいなんだっただろう。
その正体を確かめるために、ローニャは視線を向けた。その視線の先にいたものに……目を、見開いた。心臓が、動いた。
「……あれ、は……」
そこに、いたのだ……かつて、自分を裏切った、大好きだった、人間が。




