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幸せになるための一歩



 ローニャを買ったのは、見たところ二十代後半の青年だった。ローニャのイメージでは、こういう施設を利用するのはもっと年を食った男だと思っていたから、驚きだ。


 屋敷を発ち、馬車に乗せられ、道を進む。その間、ローニャは口を開くことはなかった。ローニャを買った男も、ローニャに話しかけてくることはなかった。


 ただ、視線をうろるかせるローニャと視線が合うと、にこりと笑うのだ。顔立ちも整っているし、不覚にもローニャはドキッとしてしまう。



「今のうちに改めて自己紹介をしておこう。僕はナルハンド・ヴィース……とある商会の、責任者といったところかな」


「は、はい……」



 ナルハンドは、緊張しているローニャに改めて名乗る。しかし、会話はそれきりまた途切れてしまった。


 彼がなにを考えているのか、ローニャにはわからない。だが、当初抱いていた不安は、和らぎつつあった……会話はなくとも、あたたかな空気が流れていたからだろうか。



「……さ、ついたよ」


「……はい」



 馬車に揺られ、しばらく……長い時間をかけて、馬車がようやく止まる。どうやら目的地についたようだ。そこは、あの施設よりもさらに大きな、屋敷だった。


 男は、馬車を降りる。続いてローニャも馬車を降りると、見上げると首が痛くなりそうなほどに大きな建物に、圧巻される。



「お帰りなさいませ、ナルハンド様」


「!」


「あぁ」



 ふと、声が聞こえた。首を正面に戻すと、そこには美しい女性がいた。どうやら屋敷の中から、出てきたらしい。中庭を超え、ナルハンドの目前にてお辞儀をしていた。


 ……それは、見て惚れ惚れするほどに丁寧な、洗練された動きだった。そういう所作を一通り教えられたローニャであったが、それはローニャとは比べるのもおこがましいものだった。



「そちらが、例の……?」


「あぁ、今日からここで暮らす。ほら、ローニャ」


「あ……」



 二人の視線が、ローニャに向く。それが、自己紹介を促されていると気づいたローニャは、一歩前に出る。



「ろ、ローニャ、です! ナルハンド様に買っていただき、今日からここで働かせていただきます! よ、よろしくお願いいたします!」


「はは、そんなに硬くならなくてもいいよ」



 九十度にお辞儀をするローニャに、ナルハンドは苦笑い。だが、ローニャはこう言うように、ローベルトに指示されていたのだ。それをナルハンドは知らないが。


 それを受け、くすっと笑った声がした。ローニャは、顔を上げる。



「ふふ、ごめんなさい。可愛らしい子だなと思って。私はタロットよ、よろしくね」



 そう、自身の名を告げる女性は、ローニャが今までに見たことのない格好をしていた。黒に近い色をしたワンピースに、白いエプロンを着用している。長いスカートは動きにくそうだなと感じるが、ここではこの服装が普通なのだろうか。


 タロットは、見たところ二十代後半といったところか。美しい銀髪は、まるでそこだけ光沢でも塗っているかのように輝いている。柔らかな表情、吸い込まれそうなほどに透明感のある瞳……女とはここまで美しくなれるものなのかと、面食らってしまった。


 途端、ローニャは自分の恰好が恥ずかしくなった。今日はナルハンドの家に行く日だからと、いつもより可愛らしい服を着て、おめかしだってされた。だが、この女性の前では、そんなローニャの一苦労など塵も同然だ。



「ローニャ、キミは今日からここで暮らす。タロットにいろいろと教えてもおらうといい、彼女はここのメイド長をしている」


「ふふ、緊張しなくてもいいのよ、ローニャちゃん」



 そんな会話を交えながら、タロットは当たり前のようにナルハンドの荷物を持って、彼の着衣を正している。その一つ一つが、洗練された、動きだ。


 ローニャは、二人に着いていく。どうしたらいいのか手をわたわたさせていたところ、タロットが小さめの荷物を渡してくれた。なにもしてないと申し訳なく思うローニャの気持ちを汲み取ってだろうか。


 そして、一足先にタロットが扉の前に立ち、ナルハンドへと振り返る。一礼。



「改めて、お帰りなさいませ、ナルハンド様」



 扉を、タロットが開く。その、向こうに広がっていたのは……



「「「お帰りなさいませ、ナルハンド様」」」


「わ……」



 思わぬ光景に、たまらず声を漏らしてしまったローニャは、はっと自分の口を塞ぐ。それほどまでに、目の前の光景は驚きに満ちていた。


 ナルハンドを出迎えるのは、タロットと同じ服を着た女性……それも、一人や二人ではない。何人、いや何十人が、左右に列を作り、ナルハンドに向けて礼をしていた。


 すごい、光景だった。まるで、昔道端で拾った絵本の、絵物語のよう。でも、目の前の光景は現実。


 みんな、綺麗な人ばかり。いや、人だけではない……ローニャと同じ、獣人だっている。



「彼女たちは、いわばローニャちゃんの仕事仲間ね……ここで、幸せに暮らしているわ」



 タロットは、笑顔で言う。みんな確かに、明るい表情だ。施設の子供たちとは、違う。


 幸せ……それは、ローニャが一番望んでいたものだ。生まれて両親もおらず、ノットと暮らしていたときはそれなりに幸せだったが、捨てられてからはまたどん底の日々……


 だけど、ここでなら。失った幸せを、取り戻せるかもしれない。ここに来るまでは、不安でいっぱいだった……しかし、今やその気持ちは、完全に晴れていた。


 ローニャは、一歩を踏み出す。幸せになるための、第一歩を。

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