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東方美人

作者: 桜月まき

 大ッ嫌い!!


 そのひとことが脳裏を埋め尽くす。頭の中、だけではない。それだけでは収まりきらず、体中が、指の先、髪の毛の先までもが、その感情に押し流される。


 感情を振り切るようにして走るけど、どこまでもピッタリとくっついてきて、離れない。


「あ、せいあちゃん。」


 唇を噛み締めて走って靴箱までたどり着いたら、今、最も顔を合わせたくない人物がせいあを待っていた。何も知らずに、いつものようにかすみ草のような可憐な笑顔で、せいあに微笑みかける。


「雨降ってきたから一緒に帰ろ。せいあちゃん、傘持ってきてないって…」


 りあん。


 …大ッ嫌い!!


 心の奥から、ドス黒い感情があふれ出す。


 せいあはぎゅっと目をつむり、こぶしを握り締める。りあんの顔を見ずに、大急ぎで靴を履き替え、そのまま外に飛び出す。


「せいあちゃん?!」


 りあんの戸惑った声を振り払うようにして、せいあは土砂降りの雨の中を走り抜ける。




 …どのくらい、がむしゃらに走っただろうか。


 髪も服も、ランドセルも、ずくずくに水を吸っていて、重い。せいあは走るのを止める。


 …重い、のは、体だけじゃなかった。


 はぁはぁと途切れる息を整えながら、天を仰ぐ。…雨は、容赦なくせいあの体に降り注ぐ。


 りあん。


 靴箱で出会った親友のことを思い出して、ずきんと心が痛む。


 …大ッ嫌い…なのは、りあんのことじゃない。


 大ッ嫌いなのは…。


 せいあは事の発端を思い返す。…ずきずきと、心が疼き始める。


『りあんって、好きな人とかいんのかな?』


 人気のない廊下の隅っこに引っぱってきて、せいあに唐突にそう尋ねたのは、幼馴染のないとだった。


 最初意味がわからなくて、聞き返したら。


『おれさ、りあんのこと、好きみたい。』


 …ないとのその台詞を聞いた途端、心の奥から、黒い黒い感情が止めどもなく込み上げてくるのがわかった。


『りあんとお前、仲いいじゃん? 協力してよ。』


 ダメ押しの台詞。カアッと頭に血が昇って、せいあは無意識にないとに吐き捨てるように怒鳴って、その場から逃げ出した。


『なんであたしがッ?! 自分でやんなよ!!!』


 …大ッ嫌い!! ないとなんか…大嫌い!!!


 そう思って、走り出した。


 けど。


 今立ち止まって、雨に打たれながら、乱れた息を整えて…少し、冷静になってみると、涙が溢れてきた。


 …大ッ嫌い、なのは、ないとでも、ない。


 せいあは唇を噛み締める。顔は、雨なのか、涙なのか、わからないけどぐしゃぐしゃだ。


 …大ッ嫌いなのは、あたし自身だ…。


 可愛くて、素直で、そこにいるだけでほんわかした気持ちになる、親友のりあん。優しくて、ちょっと人見知りで…守ってあげたいと、本気で思う。女の自分から見ても、誰よりも女の子らしくて、自慢の友達。ないとが好きになるのも、無理はない。


 ないとは、家が近所で、うんと小さい時から一緒にいた。兄妹みたいなものだ。時々憎たらしいことも言うけど、憎めない、イイ奴だと思う。


 …二人とも、本当は大好きだ。


 そんな二人を…大嫌い、と思ってしまった自分。りあんに、ないとに、嫉妬してしまっている自分が、一番大嫌いだ…。


 奥歯を噛み締める。と、ザラザラの、砂を噛んでいるみたいな味がした。


 …このまま、家に帰りたくないな…。


 前髪から滴り落ちる水滴が目にしみる。目をこすりながら、せいあはふとそう思った。


 このまま帰ったら、ママ、ビックリするだろうな…。


 母親の姿を思い浮かべる。ビックリして、何があったのか聞くだろう。…今、ママに理由を話したくない。せいあの心がまた痛む。そしてりあんの靴箱での笑顔を思い出す。その笑顔が、だんだん母親の笑顔と重なっていく。


 ママと、りあんは、なんとなく似ている。顔とか、そんなんじゃなくて。


 誰に対しても優しいところとか…天使のような笑顔とか…女の子の鏡、っていうか…ほんわりした、温かさとか…。


 それに比べてあたしは。


 そう思って、また自己嫌悪に陥る。雨は、弱まることなく振り続けている。


 …だんだん寒くなってきた。このままじゃ風邪引いちゃうかな…。


 せいあは自分の体を両手で抱き締める。体中が、冷たくなっている。無理もないけど。


 …そうだ。あそこなら…。


 せいあはある場所を思い出し、そこにいるある人物を思い出した。そうだ。あそこなら…あの人なら…今の自分を温かく包んでくれる気がする…。


 せいあは元来た道を、駅に向かって走り出した。




「ヒマ、ですねェ。」


 テーブルを拭きながら窓の外を見て、バイト店員の木下がつぶやくように言う。カウンターの中ではこの店、Tea Room * LUPINUS のオーナーである多嘉子が食器を拭きながら、木下のつぶやきに答える。


「この雨じゃね…たまにはいいわよ。」


 いつもの夕方のこの時間帯は、わりと満席のことが多いこのTea Room * LUPINUS、少し前に突然降り出した大雨のせいで、客足がパタッと止まってしまっている。誰もお客様がいないなんてことは、はっきりいって珍しい。


「この前仕入れたアッサムでも試飲してみる?」


「お、いいですね。いただきます。」


 そんなのんきな会話を交わしつつ、多嘉子が新しいアッサムティーの袋の封を切ろうとしたその時だった。


 バタン!!! という扉の閉まる大きな音と、シャンシャンシャン…とその音にビックリしたように鳴り響くウィンドベル。二人は驚いて入口を見る。


 …そこにはびしょぬれになった小学生が立っていた。


 一瞬、何事か事態がつかめなくて呆然としてしまった多嘉子だったが、その小学生の顔を見るやいなや、更に驚いた表情で慌ててカウンターから飛び出した。


「せいあ?!」


 せいあ、と呼ばれた小学生は顔を上げ、多嘉子の顔を見ると、ぐしょぐしょの顔を更にまた涙で濡らし始めた。


「…たかこさぁん…」


 まるで捨て猫のような情けないせいあの表情。わけはわからないけど…多嘉子は木下に向かって叫ぶ。


「タオル! タオルたくさん持ってきて!」


「! はい!」


 多嘉子より更にわけがわからない状態の木下だったが、多嘉子の台詞にはっとなってカウンター奥に走り込む。タオルを五枚ほどひっつかんで、戻ってくる。


 多嘉子はせいあのランドセルを肩から下ろし、タオルを敷いたカウンターの椅子の上に乗せる。そしてずくずくになったせいあの頭や体をタオルで包み込み、がしがしがし、と多少乱雑にではあるが水分を拭き取る。


「なんでこんな雨の中傘なしで走ってくんの?! てか帰るのはおうちでしょう?!」


 ちょっと怒ったような多嘉子の口調が、今のせいあには心地良かった。母親の、柔らかい優しさよりも、今はこのちょっと乱暴な優しさが欲しかった。


「だって…ウチには、帰りたくなかったんだもん…。」


 タオルの隙間から顔を出して、拗ねたようにせいあは言う。全身拭かれて、濡れていない新しいタオルにくるまると、温かさが肌を通り抜けてじわじわと心にも伝わってくる。


 …やっぱり、ここに来てよかった。せいあは思った。


「…仕方ないわね…体、温めていきなさい。ミルクティーでも淹れるから。」


 ふう、とため息をついて、多嘉子は使用済みのタオルを片付けて、カウンターの中へ戻る。多嘉子に指でカウンターの席を指定されて、せいあはそこにちょこんと座った。


「で? なんで帰りたくないの。ママに叱られた?」


 多嘉子がティーポットを棚から下ろしながらせいあに問う。せいあは首を左右に振る。


「…じゃ、学校でなんかあったのね?」


 せいあの頭がおずおずとためらいがちに縦に動く。そうして、せいあは口を開く。


「あたし…自分が、大ッ嫌い…。」


 ティーポットに先程封を切ったアッサムティーの茶葉を入れようとしていた多嘉子の手が止まる。そのまま、ティーメジャーに乗っていた茶葉を袋に戻して、封をし直す。その動きを不思議そうに見ていた木下が問う。


「多嘉子さん?」


「ミルクティー、やめた。こっちにする。」


 多嘉子は棚から別のティーポットを取り出す。赤い土色の小ぶりのティーポットだ。主に、中国茶を淹れる時にしか使わない、ティーポットというか、急須。そしてカウンターの下から別の茶葉を取り出し、ポットに入れ始める。


「自分が嫌いになったって?」


 多嘉子がせいあに話の続きを促す。せいあはうん、と頷いて、話の一部始終をたどたどしく語り始める。


 幼馴染のないとが、親友のりあんのことを好きだったと知ったこと。協力してくれと言われて、怒鳴って逃げてきてしまったこと。靴箱でりあんと会って、そこからも逃げてきてしまったこと…。二人を嫌いなわけじゃなく、二人に嫉妬している自分が、大嫌いだと思ったこと…。


 多嘉子はいつものようにお茶を淹れながら、黙って最後までせいあの話を聞いていた。せいあが話し終えてまた涙ぐんだ時、ゆっくりと尋ねる。


「…どうして家に帰りたくなかったの?」


「だって…」


 すん、とせいあは鼻を鳴らして続ける。


「りあんとママって、似てるんだもん…。可愛くて、優しくて、誰にでも好かれて…ないとだけじゃない、どんな男の子だって、きっとそういうタイプの子が好きなんだよね…。あたしとは正反対の、ふわふわのマシュマロみたいな女の子…。ママも、そういうタイプでしょ?」


「そうね。…で、なんでここに来たの?」


「…たかこさんならあたしの気持ち、わかってくれるんじゃないかって思って…」


 多嘉子がふうー…と長いため息をつく。木下がそこであのぉ…と口を挟む。


「多嘉子さん、この子って…?」


「…せいあはわたしの友達の娘。この子の母親とは、幼馴染で同級生なのよ。」


「…ってコトは多嘉子さんてこんな大きな子供がいてもおかしくない年齢なんスね…。」


「優子は高校卒業してすぐに結婚しただけよ。極端に早かったの! 殴られたいの?」


「いいえ。」


 二人のやりとりを遮ったのはせいあの声だった。


「あたし…りあんのこと好きだけど…りあんを見てると…全く正反対の自分が嫌でたまらなくなる…。可愛くて優しいりあん、なのにあたしは…勝気で女らしくなくって…可愛くもないし…りあんの引き立て役でしかなくって…ママの娘なのに、なんで、って…」


「…そっか、だから多嘉子さんならわかってくれるって思ったんだね。」


 木下がうんうん、と両腕を組んで頷く。多嘉子は釈然とせずに問う。


「何でよ。」


「可愛くて女の子らしい友達が身近にいるのは、多嘉子さんもそうだったんでしょ? この子のお母さんと、幼馴染だって言ったじゃないですか。おまけに勝気で女らしくなくって可愛くない自分…多嘉子さんも、そうじゃないですか。」


「だ・れ・が勝気で女らしくなくて可愛くないのよ。やっぱ殴られたいのね?」


「いやいやいやいや…でもそういうことでしょ?」


 木下が問うと、せいあはこくん、と頷いた。


「…あんたらね…わたしをなんだと思ってんのよ…。はい、お茶入ったわよ。」


 そう言いつつ多嘉子は小さめのカップにお茶を注ぎ、せいあの前に差し出す。せいあはいただきます、と小さい声で言って、カップを持ち上げる。


 …薄い、金色にも似た褐色の水色…微かに花のような、甘い香り…。飲んでみると、その香りと甘さが、ふわぁっと下の上に広がり、すぐに鼻をスッと抜けていく。後には若草のような、爽やかな香りが残る。


「これ…、紅茶、ですか?」


 せいあが目を上げて多嘉子に問う。多嘉子はいたずらっぽく笑って答える。


「紅茶に限りなーく近い、烏龍茶。“東方美人”っていうのよ。」


「東方、美人…?」


 なるほどそう言われてみるとエキゾチックな感じがする…。でも、烏龍茶? 烏龍茶って、こんなに甘い香りがするの? ペットボトルの烏龍茶しか飲んだことのないせいあには、全く別物のような感じがした。


「東方美人…またシブいモノを小学生に飲ませますね…。」


 半ばあきれた顔で木下が苦笑。多嘉子はまぁね、と笑う。


「でも今のせいあにはこれがピッタリ。」


 …ピッタリ? せいあは東方美人を飲みながら、首をかしげる。


「東方美人…このお茶はね、ちょっと変わった台湾の烏龍茶なの。ウンカっていう小さな虫がいるんだけど、その虫がかじった茶葉だけを使って作った烏龍茶なのよ。」


「虫がかじった…って…そんな葉っぱ使うんですか?」


 ちょっと眉間にしわを寄せるせいあを見て、多嘉子はふふ、と笑う。


「ありえない、と思うでしょ? そんな虫食いの葉っぱなんて…って。でも、その虫がかじらないと、この独特な甘い香りは出せないの。最高級の東方美人は、作れないのよ。虫にかじられているっていう、ちょっと聞くとマイナスなイメージも、全てひっくるめて“東方美人”ってお茶なのね。ちなみに、台湾では最高の値段をつけられて取引されたこともある、銘茶中の銘茶なの。西洋人が“オリエンタルビューティー”って言って大絶賛するくらいにね。」


 オリエンタル、ビューティー…。可愛くって女の子らしい、りあんやママとは違うイメージ…。芯が強くって、かっこいい感じの、美人。


 多嘉子はせいあを優しく見つめ、続ける。


「虫にかじられた状態でも、最高級のお茶…何も足さない、何も引かない、そのままの状態、ありのままの状態が、一番輝いている。それは人間も同じ。いろんないいところも悪いところもひっくるめた等身大のせいあが、今一番輝いていてベストな状態のせいあだってこと。りあんちゃんは可愛くて女の子らしい魅力を持っているかもしれない。でもせいあにも、りあんちゃんとはまた違う、せいあらしい魅力が、今の状態でもちゃあんと備わっている。自分を嫌いになることなんて、ないのよ。」


「あたしらしい…魅力…?」


 そう、と多嘉子が微笑む。


「りあんちゃんに嫉妬しているって気づいて落ち込んだせいあ、心の優しいいい子よ。“聖なる愛”…名前どおりの、綺麗な心を持った、素敵な子だとわたしは思うわよ。」


「…そう…かな…」


 多嘉子にそう言われて、せいあはほんの少し微笑んだ。ないとにはいつも名前負けだって言われていて、自分でもそうなんじゃないかって思っていた自分の名前…“聖愛”と書いて“せいあ”を、多嘉子にそう言ってもらえて、心の底に温かいものを感じた。


「…しっかし最近の子供の名前って、みんなスゴイよね…。聖なる愛でせいあ、かぁ。読めないなぁ…。“りあん”ちゃんとか“ないと”くんってのも、すごい字書きそうだよね。」


 木下がのほほんとそんなことを言う。せいあはちょっと元気になって、お茶をすすりながら木下に教えてあげる。


「りあんは“梨と杏”って書いて梨杏。ないとはえーっと、うまへんに奇妙の奇…」


「げ、ひょっとして“騎士”って書いて“Knight”って読ませんのか?! うへー…」


「最近は何でもアリだからねぇ…。天使と書いてエンジェルちゃんとか?」


 くすくす、多嘉子が携帯メールを打ちながら笑う。そうして、メール送信し終えてからせいあに笑いかける。


「優子に迎えに来るようメールしたからね。それ飲んだら素直に帰るのよ。」


「はぁい。」


「…言っとくけどわたしは優子に嫉妬したことなんてないからね。」


「…わざわざつけ加えるところがアヤシイ…。」


「…やっぱり木下、殴る!」


 せいあは東方美人を飲みながら二人のやりとりを見て笑う。この二人、あたしとないとみたい。


 …明日、ないとに謝ろう。りあんのこと、協力してあげよう。二人とも、大好きだから。


 やっぱりここに来て、よかった。冷え切った心が、温かくなった。


「たかこさん。」


 木下を殴ろうと掴みかかって腕を振りかざしていた多嘉子に、せいあが呼びかける。多嘉子と木下の動きが止まる。


「ありがとう。」


 せいあがそう言った隙に、木下は多嘉子の腕をすり抜けた。






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