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神仙棲まう桃の霊峰  作者: 砂骸
夏の章
9/25

雨上がりて、語られること

 明くる朝、里中にヤエが消えたという報せが回った。宿の客にも何か知らないか尋ねなさいと命じられ、レーエは朝餉を運びがてら戸を叩いて回った。


 最後に残しておいた部屋の前に来るまで、手がかりはまるで無かった。

 そもそも、客たちは宿の手伝いをしていた娘の一人が消えたと言われても誰のことだかわからない。だが、色んな娘と親しく話していたハクラならばヤエを覚えているかもしれないとレーエは期待を込めて戸を叩いた。


 ハクラには前日のうちに、墨絵を描いて遊ぶのに集中したいから戸を開けないでくれ、食事を置いてくれたら勝手に取るよと言いつけられていた。昨晩置いた盆は中に入れられていた。まだ熱中して取り掛かっていたら申し訳ないけれど、すぐに返事が返ってくるだろうという見込みは外れた。物音ひとつしない。寝ているのかもしれない。


 何度も声をかけた後、鍵を開けて入ると室内は無人だった。この部屋の中だけは未だ昨日の雨があがっていないかのような澱んだ空気。乱れたままの寝具。

 紫煙をくゆらせていたであろう煙管はすっかり冷たくなって夕餉を出した盆に転がっていた。灰が無造作に落とされ、床にまで散っている。あの気の良い客人らしくない無作法である。


 レーエが部屋の中に踏み入ると、机の上に包みもせずに金子がばらばらと転がっていた。胸騒ぎがした。夏いっぱいの滞在費にしても多すぎる額だった。

 レーエは部屋のものには手を触れないで、すぐに女将のところへ行った。部屋に戻っているよう言いつけられる。


 暫くしてから呼びに来た女将に促されるまま、レーエは宿の三階の、本来なら大人数の客のための広い部屋に里の娘や子供たちと一緒に押し込められた。宿の手伝いを娘たちから引き継ぎに来た、事情を承知していそうな年嵩の女たちは揃って硬い顔をしていた。


 子供たちはわけもわからず閉じ込められたことに不満を隠さなかった。娘たちは子供たちがぐずるのをあやしたり宥めすかしたりしつつも、一様に不安げな様子だった。

 子供たちが布団を何枚も床に広げて雑魚寝で昼寝を始めると、部屋が急に静かになる。レーエはうちわでぱたぱた気持ち良さそうな寝顔を扇いでやりながら、他の娘たちとお喋りをした。

 レーエは普段からもっぱら聞き役だったが、この時ばかりは日頃よく喋る娘も口数が少なく、途切れ途切れに代わり映えしない退屈な里の暮らしについて話し合った。


 不穏かつ停滞した空気を引き裂く、掠れた悲鳴があがった。窓の近くにいた娘たちがにわかに色めきだち、壁の隅へ後退りする。


 ぎしりと建物が軋んだ。窓枠に手をかけてぶら下がり、勢い良く室内に人影が飛び込んでくる。紫電の閃きが空気に弾け、木が焦げる匂いが漂う。

 侵入者は、一同の見知った人物だった。少なくとも、ヤエを連れ去った、あるいは手にかけた疑惑が持ち上がっている該当人物ではなかった。しかし、皆の様子に安堵はない。


 毛色が違ければ、魂の形まで違うかと思わせる、瑠璃色の鋭い双眸。瞳孔が細く窄まっている。痩せた狼のように脂の削ぎ落とされた、しなる鋼のような体躯。陽に近づきすぎて炙られた肌。白い髪に周囲を漂う微細な雷の光が反射して輝いている。


 やはり彼は異端で、女と子供ばかりが集められたこの場所では紛れもない異物だった。脅威と言い換えてもいい。

 恐ろしいことに、彼は苛立っているようだった。そのくせ足音ひとつ立てない獣じみた身のこなしで躊躇なく部屋へ踏み入ってくる。


 殺気すら匂わせる少年の訪れに、場を静寂が支配する。子供たちの呑気な寝息だけが聞こえる。軽い音を立てて、うちわが布団に落ちる。

 娘たちの中から一人の女が立ち上がり、転げるように走っていって少年を出迎えた。


 「エゼキエル!三階ですよ!?」


 レーエが彼女にしては珍しく肩に掴みかからん勢いでまくしたてた。その声には少年の非常識な行為を咎める色が多分に含まれていた。


 「貴女の顔が見たかったのに女将が入れてくれなくて」


 エゼキエルは不機嫌そうな様子を隠しもしなかった。肩をすくめて自分は悪くないとでも言いたげである。

 レーエは更に距離を詰め、両手でエゼキエルの頬を包み込んだ。まるきり子供にするように、見上げながら諭して言う。


 「皆が驚くでしょう、それに危ないことです。いけませんよ?」


 浅黒い肌のせいで見分けにくいものの、レーエにはエゼキエルが顔を火照らせて目元を染めたのがわかった。表情から険がとれ、周囲の気が凪ぐ。


 「……軽率でした。申し訳ありません」


 レーエが微笑むと、すっかり許しを得たと思ったようでエゼキエルは目の前の女を抱き締めて頬擦りした。寛いで口角が緩む。


 (今のすげーぐっときた……)


 人目があるのを気にもせず密着した姿勢のまま、耳元に囁く。


 「ろくでもない逃避行は師が後を追っています。常人が逃れられるものではありませんが、当のヤエがうんと言わなければ無理に連れ戻しはしないでしょう。里の者たちがそれを望んでいないので」

 「どうして……」


 レーエが小声で疑問を呈してもエゼキエルは直接その問いに答えなかった。


 「……本当はオレがあの男装野郎タコ殴りにして晒し者にしてやりたいところですが、さっきまで霊峰に迷い込んでないか探してたところで、これから里周辺の捜索に加わります。でも見つかりませんよ、もうこのへんじゃ気が感じられない」

 「男装……?いえ、ではヤエはもう……」

 「行くなら行くと言えばいい。オレならまずは無理やり取り返してきて皆の前に出すところですが、既に霊峰から離れたとあってはオレは力になれないので」


 悔しそうな口ぶりだった。一瞬の間が空く。今頃慣れぬ道のりを歩いているであろうヤエに思いを馳せていたレーエの形の良い耳に、鬱屈した情念を吹き込む。


 「道徳心に悖ることを言いますが……貴女じゃなくてよかった」


 エゼキエルは思わず吐露したことを後悔するような重く低く、乾ききった声が出たことに自分でも驚いた。忘れてください、と言いかけたのをレーエに遮られる。


 「私はついて行きませんよ、ちゃんとここにいますから安心してください」


 背中をやさしく撫でられて、毛が逆立つような心地になる。このまま連れ去ってしまいたいような、力の限り掻き抱きたいような怒りにも似た抗いがたい激情が沸々と起こる。

 まずは家屋を軒並み薙ぎ倒して瓦礫を積み上げて、付近一帯の生き物という生き物を引き裂いて鏖殺して、そうしたら、彼を待っていてくれるこの女と。


 エゼキエルがはっと戸の方に顔を向けた。向かってくる足音を聴覚が捉えたのだ。突然様子の変わったエゼキエルを見て不思議そうな顔をするレーエに唇を重ねる。


 驚いて見開かれた黒曜石のような瞳に、危うげに光る瑠璃色の眼がそっくり映っている。一瞬で離れるとエゼキエルは身を翻して来た時と同じように窓から去った。レーエは恋人の後ろ姿を呆気に取られて見送った。

 鍵の開く音がして、入るよ、と女将の声が届く。


 「皆、変わりなく揃ってるね?もう少し辛抱してもらうよ」


 女将が指差して人数を数える。問題なしとしてさっさと退出しようと踵を返しかけた足が止まる。もう一度数えて、首を捻る。

 異常を察した誰かが叫んだ。


 「ああっ、イチカがいないわ!」

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